2010年10月30日 (土)

マンションに共同浴場がついた

Kyoudou_huro_320 都市部で共同浴場つきのマンションが建設されて、良い販売実績を挙げているとのことです。
自宅の小さなユニットバスに比べたら、確かに広い風呂は気持ちが良いし、だいいち風呂を掃除しなくてすみます。

現在、販売されている共同浴場付きのマンションは、高齢者対象ではなく、大きな風呂の快適さと住民のコミニケーションがはかれることが、人気なのでしょう。
戸数がある程度多くないと駄目ですが、年間1500万円ほどの維持費も、月に2000円ほどを戸割りの管理費に加えるとまかなえるようです。
さまざまなニーズにこたえる施設を組み入れたマンションが増えていますが、遂に共同浴場に至ったかの感があります。

しかし最近は集合住宅の居住者で、スポーツクラブの浴場に、入浴だけの利用をする高齢者が増えているそうです。
大手建設会社に勤務する友人も、最近のスポーツクラブの建設には、高齢者向けに浴場を充実させることが重要なのだと話してくれました。
志木ニュータウンでも、近くのスポーツクラブの浴場を利用するので、自宅の風呂は物置になっていると語る人を何人も知っています。
「一人暮らしでは、毎日、風呂を洗うのが面倒だし、最近はスポーツクラブの会費が、依然と比べたらうんと安いから、経済的」
「前は泳いでいたけれど、最近はお風呂だけ」

スポーツクラブが、昔の公衆浴場の役割を果たしているようです。ただし、この場合、自宅から近いことが条件ですね。

集合住宅の共同浴場といえば、思い出すのが代官山の同潤会アパートです。
今は取り壊されてしまいましたが、約6千坪の敷地に、二階建て、三階建ての棟が36棟程あり、総戸数737戸の集合住宅団地でした。
仕事場が渋谷にあったので、昼休みの散歩にこの古いアパート群の中を歩くのも一つの散歩コースとなっていました。今から40年以上も前の事です。

敷地内に入ると、記憶が曖昧なのですが、たしかアーチ門のような入口をくぐると広場があり、そこに銭湯がありました。
同潤会アパートの居住者のための共同浴場でもあり、近所の人も利用できる施設でした。ボイラーは薪を使っていて、柱や梁などの建築廃材が積まれていた覚えがあります。
銭湯の横には、ガラスの引き戸の食堂もあって、独身居住者に利用されていました。
今から思えば、この銭湯も食堂も一度も利用してみなかったのが残念です。

代官山の銭湯と共に思い出すのが、やはり50年以上も前の北軽井沢の一匡邑の共同浴場です。
一匡邑については、このブログでも何度か書いていますが、広い林の中の敷地に、区割りすることなく、小さな別荘があちこちに立っていました。
今では一匡邑設立当初の建物は、ほとんど立て替えられ、いかにも別荘という感じの建物が多いですが、当時は設立当時の山小屋と言った風情の建物がほとんどでした。
各小屋に風呂は無く、そう確か水道も無かったのです。
皆、夕方になると管理人Mさんの家の横の、小さな共同浴場に交代で入りに行きました。
共同浴場の横の小さな広場で大人たちは話し込み、子供たちは花火などをして遊んでいた記憶があります。
広場横の小川で、顔を洗い、歯を磨くことができた良き時代の思い出です。
(写真は千葉県佐倉市のビオ・ウイング ユーカリが丘の共同浴場:パンフレットより)

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2007年6月25日 (月)

旧草軽電鉄北軽井沢駅舎

Dscn1547_320  保存工事も終了し、昨年(平成18年)の11月29日に、文化庁から有形登録文化財に指定された、旧草軽電鉄北軽井沢駅舎です。修復工事後に見るのは始めてでしたが、なんだかきれい過ぎてちょっと違和感がありました。昭和30年代、新軽井沢駅から、小さな客車にゴトゴト揺られて、友人宅のあった一匡邑に向うべく、小瀬温泉、国境平を経て、約1時間40分もの時間をかけてこの北軽井沢駅に降りたちました。運賃は確か、90円でした。少し脱線しますが、当時高校山岳部の山行きで八ヶ岳に登るには、上野から小諸乗換えで小海線に乗り、登山口である清里や、甲斐大泉に降り、帰りは同じ駅に戻り、こんどは小淵沢乗換えで新宿に帰ると学割1枚を使って630円くらいでした。学割証1枚ですむし、往復切符よりかなり安かったのです。生徒1人に、1年に2枚しか発行してくれなかった学割証をどう工面して山行きに使用していたかなどは、機会があればまた書きます。
 さて、話しを戻してと。友人の母親は、草軽電鉄華やかなりし頃の、夏の花電車の事などを懐かしそうに語ってくれた思い出があります。邑の管理人Mさんは、太平洋戦争中、召集されてこの駅から戦地に向う兵隊達を沢山見送り、再びこの駅に戻ることの無かった人達のことを話してくれました。
 僕の乗車していた昭和30年代の前半は、経営状態が悪化して廃線間近であり、当時の駅舎ははこんなにきれいではありませんでした。写真の駅名表示板の手前が踏み切りで、復元されているプラットフォームの先が軽井沢方面でした。写真集 草軽電鉄の詩(郷土出版社刊)の駅舎と比べると、線路の位置などがよくわかります。今後は、プラットフォーム前に線路の一部を復元する予定もあるようです。その際は、駅名表示を「くさつおんせん」「かるいざわ」でなく、隣駅だった「吾妻」「栗平」にして欲しいと願っています。
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(往時の北軽井沢駅、現在の上の写真と比べると、線路の位置や、踏切りがよくわかります)
写真集 草軽電鉄の詩(郷土出版社刊)より

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2007年6月24日 (日)

胡桃の木は何処に?-一匡邑

Dscn1541_320  休暇村鹿沢高原の朝は、隣接する鹿沢インフォメーションセンターのスタッフによる自然観察散歩で始まりました。朝食前の7時から休暇村周辺の自然や植物を、丁寧に説明しながら、一緒に歩いてくれます。参加者は4名でしたが、いろいろ質問するものですから、30分の予定を大分オーバーしてしまいましたが、とても有意義な時間でした。休暇村では、この他ににも湯の丸山や、池の平ツアーなどの催しを開催して、宿泊者に喜ばれているようです。
朝食後、近くの村上山に登る計画でしたが、雨が降り始めたので中止し、北軽井沢に行くことにしました。
 実は2007年3月12日に一匡邑の胡桃の木について次ぎのように書いた事があります。

前に、一匡邑の思い出を時々書いてみますと言いましたので、今日は、岩波書店の会長だった小林勇氏の著書、「山中独善」に書かれている、一匡邑の胡桃の木のことです。「山中独膳」は氏が1970年の夏に、独りで過ごした大学村の別荘での生活を、食物を主題として書かれたもので、僕の好きな随筆です。
 7月29日の一部を抜粋させていただきます。
 「ところで、北軽では胡桃は入手できない。そこでぼくは代わりに牛乳を使った。もっとも牛乳はでき上がったのにかけただけではまずかろうと考えて、茄子がよく煮えたときに鍋へ入れてみた。胡桃とはちがうが、よい味になった。牛乳をつかってしまったから、精進料理とはいえないだろう。
 去年の夏の終わりごろ、一匡邑に黒須老博士を訪ねたことがある。あそこには胡桃の木がたくさんあるから、多分実もあるだろうと思って、管理所の小母さんに聞いてみた。果してあるという、ぼくはしめたとばかり少しわけてくれとたのんだ。小母さんは困惑の色をうかべて、冬のリスのたべ料にとっておくのですからといった。ぼくはすぐ申し出を撤回した。優しい小母さんよ。幸福なリスたちよ。」

この胡桃の木について、僕は一匡邑のどこにあるのかを知らなかったので、いちど管理人のMさんに前からお聞きしたいと思っていたのです。休暇村から北軽井沢までは車で40分ほどの距離です。途中で一匡邑に少し立ち寄り、その後Mさん宅に向いました。突然の訪問にもかかわらず、Mさんは優しく迎えてくれました。そして、「山中独膳」に書かれている胡桃の木の所在をお尋ねすると、以前Mさん宅の有った場所の横にかなり大きな胡桃の木があり、その木がそうですよと教えてくれました。そうだったのか、これで、今まで気になっていたことが解決して、なんだかとても嬉しい日になりました。
Dscn1544_512 Dscn1545_512 (写真上、雨にけむる新緑の一匡村)
(写真左、Mさん宅に咲いていた「ひなげしの花」と「てっせんの花」、見事なのでパチリと写しました。)   クリックすると拡大します。

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2007年3月12日 (月)

一匡邑と「山中独善」

Dscn1152_320  北軽井沢の「一匡邑」の検索から、このブログを訪ねてくれる方も多いのです。
 前に、一匡邑の思い出を時々書いてみますと言いましたので、今日は、岩波書店の会長だった小林勇氏の著書、「山中独善」に書かれている、一匡邑の胡桃の木のことです。 
 「山中独膳」は氏が1970年の夏に、独りで過ごした大学村の別荘での生活を、食物を主題として書かれたもので、僕の好きな随筆です。最初に発刊された、「山中独善」は、書かれた文章が嬉しくて、管理所の小母さんとして登場したMさんに差し上げたので、上の写真の本は、その後に書かれて出版された「厨に近く」を合わせて、2冊の単行本を1冊にしたものです。
 (7月29日の一部を抜粋させていただきます。)
 ところで、北軽では胡桃は入手できない。そこでぼくは代わりに牛乳を使った。もっとも牛乳はでき上がったのにかけただけではまずかろうと考えて、茄子がよく煮えたときに鍋へ入れてみた。胡桃とはちがうが、よい味になった。牛乳をつかってしまったから、精進料理とはいえないだろう。
 去年の夏の終わりごろ、一匡邑に黒須老博士を訪ねたことがある。あそこには胡桃の木がたくさんあるから、多分実もあるだろうと思って、管理所の小母さんに聞いてみた。果してあるという、ぼくはしめたとばかり少しわけてくれとたのんだ。小母さんは困惑の色をうかべて、冬のリスのたべ料にとっておくのですからといった。ぼくはすぐ申し出を撤回した。優しい小母さんよ。幸福なリスたちよ。

「明日から所用で、3日程出かけますので、ブログは休みます。帰りましたら、沖縄のことなどを書きます。」

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2007年1月29日 (月)

三宅島公道2輪レースと浅間火山レース

東京都と三宅村は、三宅島の災害復興と観光振興のため第1回三宅島オートバイレース(仮称)を開催すると発表しています。開催期間(予定)は平成19年11月9日(金)~11日(日) の3日間。
http://www.sankei.co.jp/moto/2006/dec/kiji/miyake_tt_idea.html
http://www.miyakejima.or.jp/ 
レースは、島内の都道30kmを一時閉鎖して使い、阿古海岸を起点に、反時計回りで島を周回しタイムを競う。3日間のうち本戦は最終日で、125cc以下のマシンでタイムを競う計画です。島民もボランティアで参加するなど、噴火災害からの復興を目指す同島にとって、産業・観光振興の目玉としてPRしていくとの事です。
実質的な運営は村が行い、都は側面支援する。事実上、石原都知事の発案の具体化で、三宅村長、八丈町長などに、開催を強く働き掛けた側面があります。
三宅村長が逡巡していると、いやなら八丈島も乗り気だよと三宅島開催を促したりしました。
石原都知事は以前から、三宅島や八丈島でのオートバイレース開催を公言していて、昨年5月に2016年の東京五輪招致のため諸外国を訪問した際には、英領マン島にも立ち寄り、100年の歴史を持つ世界最高レベルの公道レース「マン島TT」を八丈町長、三宅村長らとともに視察した。東京都の19年度予算案でも安全確保の検討費用など4000万円を計上。その他、道路整備費などにまだ3億円以上の 費用がかかる見こみ。公道での本格的なレースは国内初となる。
 東京都や三宅村の具体的な動き、村議会の対応、村民の反応などの情報をまだ得ていませんので、いまコメントは出来ませんが、一過性のオートバイレースより、島の復興の為には、まだ先にやらねばならない事があるのではとの思いはあります。都知事選もふまえて、この話題は、これから新聞、TVなどの報道が過熱しそうです。
 ところで、火山灰降るオートレースといえば、真っ先に頭に浮かぶのは、浅間火山レースです。1955年に北軽井沢付近の県道を一時閉鎖して、第1回浅間高原レースが開催されました。1周約20kmを5周してタイムを争う2輪のメーカー対抗レースでした。県道といっても当時は、どこも未舗装で、車もほとんどと走っておらず、レース後の道路には、かなり後までレース車の轍の痕が残っていました。この点は、島の重要な生活道路を閉鎖してしまう、三宅島とはだいぶ条件が異なります。三宅島は舗装道路でのレースになりますが、浅間火山レースは完全なダートコースでした。予定されている三宅島のレースが、公道で行なわれる日本初のオートレースのように報道されていますが、僕の知る限り第1回浅間高原レースが公道レースの最初だと思います。(それ以前に公道を使用した富士登山レースもあったようですが、僕は記憶に無く、まだ調べていません。強いて日本初と言うのなら、完全舗装公道での、日本初のオートレースと云うべきでしょう。)
1957年に第2回、1959年に第3回のレースが、浅間火山レースとして開催されましたが、浅間牧場内の 新設の専用テストコースで行なわれましたので、観客が道路脇で応援する風景は、見られなくなり、以後、浅間での開催も行なわれなくなりました。第2回、3回のレースが開催されたコースは、1970年代前半くらいまでは、オートバイテストコースとして使用されていたようで、浅間牧場の丘に登ったり、鼻曲山の下山時などに、コースを走る2輪車の排気音がこだましていたのを覚えています。現在は、ここにオートバイコースがあったことを知る人も少なくなりましたが、この地で行なわれたレースを記念する浅間記念館が、浅間火山博物館内にあり、出場したオートバイや貴重な資料が展示されています。博物館案内より
「浅間高原のこの地で当時の日本モーターサイクルの欠点を洗いだす耐久レースが行われました。たった3回のレースによって日本のオートバイメーカーの技術は飛躍的に高まり、海外進出へ向かう基礎体力をつけました。レースを企画し、出場し、歓声をおくった人々は、モーターサイクルに夢を賭けた人たちでした。そんな時代を記念するために、この浅間記念館が設立されました。1955~1959年に行われた浅間火山レースが、今日世界一のオートバイ生産国の原点であり、かつモータースポーツの発祥とされています。ちなみに、このレースに参加した人たちは現在、日本のモータースポーツの中枢で活躍、浅間の人脈は立派に生き続けております。」
ちなみに、コースは浅間牧場以外の、嬬恋村の村有地部分は、一部手がつけられずに残っていますので、立ち入り禁止表示がありますが、テストコースの名残部分は見る事が可能です。タイヤ痕が幾筋も残り、往時を偲ばせてくれます。

三宅島の話に戻ると、予定されている2輪レースの、名称も募集中です。
僕はもし開催されるなら、正式名称にとらわれず「三宅火山島レース」と呼びたいと思っています。浅間火山レースの開催時期は、浅間山がやや活動期で、小爆発による降灰もあり、マシーンへの影響も心配されていました。三宅島も同じように、火山灰と火山ガスはレースに少なからず影響を与えることになるでしょう。
このレース開催は、三宅島の復興や、住民感情、自然環境への配慮から考えるとノー、モータースポーツ面から捉えると、イエス。複雑な心境です。もう少し考えてから、態度をはっきりさせます。
なお、レース開催推進者の石原慎太郎都知事は、その右翼的思考、他人の意見を聞かず、人を見下し、恫喝する態度など、全て嫌いです。新渡戸稲造が、武士道の最高の美徳としてあげる「敗者への共感」「劣者への同情」「弱者への愛情」の反面にある人物とみています。

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2006年12月21日 (木)

一匡邑のことー北軽井沢

Itukyo2_320  このブログに、北軽井沢の「一匡邑」(いっきょうむら)を検索して訪ねてくれる方が、多くいます。前に、草軽電鉄の二度上峠の事を書いたとき、一匡邑に触れたからでしょう。
大正12年に東京大学関係者10数人によって設立されたこの別荘地は、その数年後に出来た法政大学村とともに、まさに北軽井沢の別荘の草分け的存在です。法政大学村が、敷地分けした数百軒近い別荘が有るのに較べ、この一匡邑は、設立当初から現在に至るまで、Itukyo1_320敷地全体が共有で登記されており、建物数もそれほど増えていません。わかり易く云えば、大きなキャンプ場の中に、テントならぬ小屋が立っているという感じです。
ここに友人の小屋が有ったので、昭和30年代の初め頃から、度々訪ねて遊んでいました。草軽電鉄の北軽井沢駅で降りて、地蔵川沿いに立つ、その昔この地に流れついて、川から引き上げられて奉られたというお地蔵様に挨拶しながら、未舗装の狭い道を歩るいてゆきます。この一匡邑までの道のりは、車の行き交う現在の道からは想像できない、新緑と紅葉のきれいな静かな散歩道でした。人家は無く、ミンク養殖場などがありました。塀も門も無い邑(村)の中に入ると、10数軒の小さな別荘が、思い思いの場所に建ち、中心を流れる細い川が、炊事や洗面、洗濯の大事な水源でした。
ここで友人や、他の別荘の人達、管理人の牧野さん一家と過ごした時間は、懐かしい思い出です。
書きたい事は、多いのですが、また少しづつ書くとして、今日は設立当初の姿のままで残っていた別荘の写真です。ほとんどの別荘が建替えられてしまった中で、この建物だけはそのまま使用されていましたが、老朽化のため、残念ながら数年前に撤去、新築されてしまいました。
(敷地内の別荘は、以前はこの写真の建物とほとんど変わらなかった)

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2006年10月 6日 (金)

浅間隠山と二度上峠、そして草軽電鉄

 先週の土曜日の夜に、山仲間の集まりがあり、昼間は、近くの浅間隠山に登ってから、会合場所の布引温泉に集まる計画になりました。
以前は静かな山だった浅間隠山(1、757m)も、最近は日本200名山である事で、かなり登山者の多い山になっていました。当日も、二度上峠近くの登山口の駐車場は、満車状態で登山者が50人はいたでしょう。少し曇空でしたが、頂上からは、噴煙を上げる大きな浅間山が目の前いっぱいに広がっていました。
僕は二度上峠に来る度に、とうの昔に廃線となった草軽電鉄を思い出します。昭和30年代の前半、当時北軽井沢の一匡邑に小さな別荘を持っていた友人宅を訪ねるのに、軽井沢から、北軽井沢までをこの電車に乗って行きました。
その際、二度上駅では、ひとつ手前の国境平方面から時速15kmくらいでしょうか、ゴトゴトと登って行き、二度上駅の横を通り過ぎてからいったん停車し、バックで二度上駅に入り、そこからまた北軽井沢方面の栗平駅に向って走り出すのでした。まさに二度上げです。友人が、たしか国境平駅で電車から降りて、歩いて二度上駅まで行くと、降りた電車にまた乗れるはずと云っていたのを、思い出します。それを実行したかは聞かなかったのですが、それほどのろのろ走っていたのです。同じような想い出に、当時、八ヶ岳に登るために良く乗った小海線があります。中央線の小淵沢駅から、甲斐小泉、甲斐大泉とあえぎあえぎ登る蒸気機関車に連結された、2両ほどの客車の最後尾のデッキで、友人が一度降りてから、走って飛び乗れると、本当に実行しそうになりました。こちらも一部急勾配区間はそう思えるほどの、のろのろ運転でした。
今となってはどちらも懐かしい思い出です。乗客数の激減と、自然災害による線路保守が難しくなり、廃線になるべくして廃線化された草軽電鉄ですが、今、もし存続していたら、どんな状況なのだろうかと考えたりします。友人の母親が、昭和始めには特別列車まで運行されたと、華やかなりし頃の、草軽電鉄の事を楽しそうに話してくれた事が思い出されます。
廃線前の二度上駅付近の、貴重な写真のあるHPを見つけました。ちょうど僕が利用した頃の映像です。本当に懐かしい写真です。
(草軽電鉄の写真) http://www5f.biglobe.ne.jp/~switchback/kusakaru.htm

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