2017年9月16日 (土)

東京都埋蔵文化財センターで敷石住居を見ました

9月14日(木)
太極拳のグループで、東京都埋蔵文化財センターを訪ねました。
文化財センターは、多摩ニュータウン開発の40年間の開発に伴う、膨大な量の出土品を収蔵しており、その一部を展示していて、隣接して遺跡庭園「縄文の村」があります。
https://www.tef.or.jp/maibun/   (東京都埋蔵文化財センター)

北朝霞駅からJR武蔵野線、中央線と乗り換え、立川駅からモノレールで、多摩センター駅に向かいました。
約20年前、1998年の11月開業のこのモノレールですが、僕は初めて乗りました。
高架のモノレール車両は、地上面よりかなり高いところを走行するので、車窓から沿線の景観を良く見ることが出来ます。傾斜地にひな壇のように立ち並ぶ住宅から、一帯が丘陵地であることが実感できます。僕の住む志木市付近では、この景観は見られません。
 多摩センター駅から歩いて10分弱の距離にある埋蔵文化財センターでは、係員の説明で館内の展示ホールと外部の遺跡公園を見ることが出来ました。展示ホールは、思ったより狭く、常設展示は膨大な量の収蔵の割には、展示品の数も限られているように感じました。ただ、旧石器から縄文、弥生と続く歴史の移りが良く理解できる展示は見ごたえがあります。
展示室に隣接する体験コーナーが充実しており、このセンターが、見るだけでなく、さわる、感じる、使うを重視していることがわかります。小中学生にとっては、とてもよい勉強の場が提供されていると思いました。

企画展示として、「東京発掘 江戸っ子のくらしと文化」の展示もありましたが、僕の興味は旧石器、縄文時代なので、もっぱら石器、土器の展示を見ていました。Dsc02695_1024


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遺跡庭園「縄文の村」で、僕は一度見たいと思っていた敷石住居の実物に出会うことが出来ました。今日の見学の最大の収穫です。今まで、かなりの数の復元された縄文時代の竪穴式住居を見てきましたが、敷石が床一面に敷かれた敷石住居は、実は初めて見るのです。
縄文中期に流行したとされる敷石住居の石畳を見ると、たたき土間との使い勝手の差は、どうだったのかと考えます。Tamaplaza130_2
短い時間でしたが、多摩丘陵の旧石器から近世に至る歴史の理解を深めることが出来た見学になりました。


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2017年9月13日 (水)

赤唐辛子の収穫

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今年の春、苗を一本購入して、植木鉢で育てた、赤トウガラシがたくさんの実をつけました。
9月も半ば、実が赤くなってから、だいぶ経ちました。
果たしてこの時期で良いのか、迷いもあるのですが、思い切って収穫することにしました。
実は赤トウガラシの収穫、そして乾燥について、ネットで調べてみたのですが、実に様々な書き込みがあり、どれが正しいのか判断に迷いました。
市民農園を借りていた時期に、収穫後、カビを生やして捨てざるをえなかった経験があります。
その上今回は、赤くなった実の脇に、また新たな白い花が咲き、新しい実も付け始めてきたのです。これはいかん、ひとまず、赤く熟した実を採ろうと決めました。

枝ごと切って乾燥させるのが一般的のようですが、実の一つ一つを採って、乾燥させることにしました。
乾燥ネットに入れて、数日間乾燥し、それから冷凍保存をしてみようと考えています。なにしろ、植木鉢での栽培で、こんなに多量に収穫できるとは思っていなかったのです。「鷹の爪」として、とても使いきれない量なのです。Dsc02687_1024

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2017年9月10日 (日)

逃げる場所が無ければ、動物園にいらっしゃい

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上野動物園の「ツイッター」公式アカウントで発信したメッセージに、共感の輪が広がっていると、東京新聞が伝えています。(2017.9.1朝刊 写真上、クリックすると拡大します)
「アメリカバクは敵から逃げる時は、一目散に水の中へ飛び込みます。
逃げる時に誰かの許可はいりません。脇目も振らず逃げてください」

このツイッター記事から、最近読んだ本の中に、同じことを語っている著名な登山家の事を思いました。
本は、写真家・作家の小林紀晴さんの書かれた「だからこそ、自分にフェアでなければならない」
プロ登山家・竹内洋岳のルールです。
竹内洋岳氏は、日本人初のヒマラヤ8000m峰全14座登頂者です。世界の登山家でもまだ28人しか達成していない記録です。14座のうち、11座は酸素ボンベを使わない無酸素での登頂です。簡単に無酸素登頂と言いますが、人間の生存限界を超える8000mという高所に、人間がなぜ酸素ボンベ無しで到達できるかは、実のところまだ良く解明されていないのです。超人のなせる技としか言いようがありません。
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この本の83頁「社会や学校は8000メートルみたいなもの。適応できなかったら逃げろ、生きるために。」

短い章なので、書き写してみました。

竹内がテレビ番組でいじめについて語る姿を、私は画面を通して見た。どんなことを語るか気になった。困難に立ち向かうとか、負けないとか、ひるまないとか、状況を見て冷静な判断を下すとか、どこか精神的な関わりの中で問題を解決するべきというようなことを語るのではと勝手ながら考えていた。
そんなふうに思ったのは、困難なものに立ち向かうことに喜びを見いだし、チャレンジするプロ登山家・竹内の姿をそのまま投影したからだ。しかし竹内は真逆なことを言った。
「逃げろ」
その言葉に、肩の力が抜けるような感覚を持った。強靭な男の口から出ただけに、説得力を持って響いた。
「いじめは雪崩と同じだと思う」と続けた。だから、雪崩が今にも起きそうだと「感知」した斜面で竹内は即座に立ち去ったのだ。つまり、生きるために、逃げたのだ。
(注:以下、本の中の竹内岳洋の言葉)

 いじめに正直いって解決策は無いと思っています。3分間、いじめについてメッセージを発するという内容だったのでお引き受けしたんです。そのタイトルが「いじめ、いま君に伝えたい」でした。そこで、私のメッセージは「逃げろ」でした。
いじめには立ち向かわなくていい、逃げろと言いました。
 
 いじめは、雪崩と同じだと考えています。一人で立ち向かっていったって止められもしないし、流れも変えられない。だから、もう、逃げろ、逃げてしまえと。私はそれしかないと思います。誰かに助けてもらうとか、誰かが何かしてくれるの待ってたって、解決なんかしないし、その間に飲み込まれちゃつたらどうなっちゃうかわからないから、とにかく逃げろ、逃げろ。
 
 世の中、逃げろじゃなくて、逆に頑張れとかいうことが多いかもしれない。でも、逃げてしまえ、どこまでも逃げてしまえ、家からも逃げてしまえ、その行動が必要だと私は言いました。
野生動物じゃないですけど、脱兎のごとく逃げていくっていうのは、ある意味、正しいと思うんです。
 要は、社会とか学校とかって、たとえてみれば8000メートルみたいなもので、その環境に適応できるものだけがそこで生き延びていくんだと思うんです。ある人には苦でないことが、ある人には、恐ろしく順応できないことだったりする。その差は生まれ持ったものだと思いますよ。

 私は、子供が二人いるんですけど、一人目のときには気がつかなかったんです。二人になって気がついたんです。上の子は一歳前に歩き始めた。10ヶ月ぐらいで歩き始めた。そのときに妻が、やっぱり母親としては手を握って、よちよち歩いている方向に支えて歩かせようとするわけです。
すると、母親の手をぐっと振りちぎって歩いていくわけです。べちっと倒れて妻が、大丈夫?って言っても、それを振り払って歩いていこうとするわけです。でも、二人目の子は、同じではなかった。

 以前読んだ本にこういうことが書いてありました。江戸時代の朱子学に関してです。強力な理論体系ときわめて合理的な朱子学的な発想から、「人間はかくあるべし」とし、やればできるんだ、聖人になれるんだという教育があったそうです。けれど、幕府の正学となった荻生徂徠という人がそれを批判するんです。
 朱子学では、とにかくトレーニングすることで人は優れた人間になれるんだっていうのです。だけど荻生徂徠は人間っていうのは、もともと持って生まれた特性がある。米は米だ。豆と米とどっちがいいかではなくて、米は米としての役割があって、豆は豆としての役割があって、それを周りのものが、これは米として成長させよう、これは豆として成長させようとしていくことこそが、やっぱり人間が本当に成長していくことなのだと。
 全員を米にするとか、全員を豆にするというような朱子学全盛のときに彼が言うわけですよね。私もそうなんじゃないかと思うんです。

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2017年9月 7日 (木)

大芝高原と岡谷のウナギ

Dsc02669_10249月6日、7日
友人たちとの集まりで、伊那市に行きました。
毎年恒例の行事で、大芝高原で、コテージに泊まり、散策やバーベキュー、マレットゴルフなどを楽しみ、温泉に入ろうという気楽な集まりです。
長野県の伊那郡にある大芝高原は、宿泊施設やオートキャンプ場、マレットゴルフ、温泉などがあるレジャー施設です。
http://oshiba.jp/  大芝高原HP

赤松の林の中に点在する大小のログハウスコテージは、厨房、浴室、冷蔵庫、掃除機、寝具などが完備しており、部屋も清潔で快適な森の生活を楽しめます。
コテージ近くには大芝の湯があり、大きな露天風呂に入れます。
久しぶりに会う友人もいるので、外の東屋で夜遅くまで、バーベキューをしながら、語り飲み続けます。定番の大きなブロック肉を回転させながら、炭火でじっくりと焼き、ナイフで薄く削いで食べます。肉のこれほど旨い食べ方を他に知りません。
翌日、二日酔いながら、マレットゴルフで遊んだあと、これも定番の伊那のソースかつ丼有名店に行き、かつ丼談義に花を咲かせつつ、旨いなーと食べて解散し、次は忘年会で会おうと約束し、楽しい集まりを終えるのです。
毎年、大芝高原に向かう途中に、守屋山、日向山などに登ることもあるのですが、今回は山は中止して、岡谷でウナギを食ることにしました。
岡谷市はウナギの町として、知られています。諏訪湖の天竜川水門近くの「あら川」という店にはいり、うな重を注文しました。(写真左中)
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こちらのウナギは、東京で食べるウナギと違い、蒸しておらず、よく焼かれていて、だいぶ黒い焼き焦げもある仕上がりです。僕はこんなうな重初めて食べました。
歯触りも良く、旨いと思いましたが、僕の好みとしては、とろけるような柔らかい触感の、蒸したうな重に軍配を上げたいです。
岡谷のウナギと伊那のソースかつ丼、今回も普段食べない味を楽しめた旅でした。

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(コテージの2枚の写真、友人のスバルとホンダ車です。濃淡のグリーン系の色が森のコテージに実によく似合う車で、絵になります)

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2017年9月 2日 (土)

柳瀬川濁流と化す

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8月30日(木)
近くの公民館での集会に参加していた午後2時頃、激しい雷鳴と共に雨が降り始めました。強くなる一方の豪雨に、見る見るうちに公民館前の道路が冠水してゆきます。
その頃、近くの柳瀬川では釣り人二人が、増える水嵩に進退極まっていたと思われます。
4時頃には、雨も止み、公民館前の冠水も引き始めたので、道路の冠水箇所を避けながら回り道をして帰路につきました。
家に入る前に柳瀬川の状況を覗こうと、50mほど離れた土手に上がると、そこには信じられないくらいの濁流と、普段の流れの10倍ほどに広がった川の姿がありました。(写真上。写真で見る以上に実際の川は奔流でした)Dsc02666_1024
(写真横、翌日8月31日朝の同じ場所。昨日の濁流が嘘のようです)
台風時などには、水嵩が増えることもありますが、僅か2時間ほどで、これだけ水量が増えた柳瀬川を初めてみました。
所沢で午後3時までの1時間に73mmの雨を観測したと報じられましたので、一気に増水する川の恐ろしさを目の当たりにした感じです。瞬間的には100mmを越える豪雨だったのでしょう。
ヘリコプターが数機、上空を飛びまわるので、何事かとテレビをつけると、柳瀬川の濁流の中、必死に樹木に捉まる人の救助活動が放映中でした。殊に一人は、濁流に呑まれたと報じられていました。(後に遺体が9km下流で発見されたとの事ですから、如何に濁流の勢いが強かったかがわかります)
ヘリコプターからの消防隊員による救助が成功し、吊り上げられる人の姿がテレビ画面に大きく写され、良かった助けられたとほっとしたのでした。

テレビ画面から、我家から1.5km程上流の「ふれあい橋」付近での事故だとすぐにわかりましたが、日頃のウォーキングコースでもあり、なにか他人ごとではありませんでした。
救助された釣り人が、お前の姿に似ていたので心配したとのメールも幾つか頂きました。いつも柳瀬川付近をうろついているので、どうも御心配おかけして申し訳ありません。
さて、普段10mにも満たない川幅の柳瀬川で、釣り人がなぜ避難できなかったのか。
救助された方が、状況を語る日が来るかもしれませんが、川を良く知る僕なりに考えてみました。自戒を込めて。
テレビにも写されていた「ふれあい橋」下流で、釣りをしていた二人は、突然降ってきた雷雨に、落雷の危険も感じつつ、雨宿りのつもりで橋下に逃げ込んだのではと思います。
テレビ、ラジオでは中州に取り残されたと釣り人と報じられていましたが、ここには中州などはありません。(写真下の川幅をご覧ください)
かように、水流のある部分の川幅は狭いのです。
初めの5分程は小降りだった雨が、突然豪雨に変わり、見る見る川は増水してゆきます。
増水する一方の水流が、二段になっている護岸の、下の段を越える勢いになっても、すさまじい雷鳴と豪雨に、もうしばらく様子を見ようと考えても不思議ではありません。
何しろ、橋下から本堤防まで20m、10秒ほども走れば護岸のコンクリート斜面に登れるからです。
橋の対岸には、細い枝川が流れ込んでいます。そこからの水流も、水嵩を増す原因になったのではと思います。
そして、この判断が二人を危険な状況にさらすことになりました。一気に足元を襲う急流に、退路を振り返って見れば、護岸付近は、いつの間にか、より激しい濁流と化していました。
二人がなぜ、樹木に捉まろうとしたか、このあたりは良くわかりませんが、護岸にたどり着くよりは、流れの中を木まで行ったほうが楽だったのかとも思います。
体が流されないように、樹木上流側に見える灌木を掴んで、樹木までたどり着いたのかもしれません。
二人がなすすべもなく、木まで流されてしまったとは思えないのです。
この間、二人のうちの一人がどこで、濁流に呑まれたか、掴まっていた木から手が離れたのか、その辺はわかりません。それ以後は、テレビで中継された救出劇の通りです。
渓流釣りや、登山でも、川は数分で驚くほど増水するのを知っています。釣具を片付ける間もなく、流されたり、一時間前には、石伝いに渡れた小川が激流になっていることもあります。百名山、二百名山でも、退路を断たれる恐れがある山は幾つもあります。
僕も柳瀬川のこれほどの急激な増水は経験がありませんので、状況を想像するしかない二人の釣り人を責めることはできません。
しかし、最近屋久島の宮之浦岳や北海道の幌尻岳などで、登山中に増水した沢での遭難が続き、徒渉の判断の難しさが問われています。
ちなみに6月の屋久島の宮之浦岳から、縦走中の鹿児島県のメンバー7人は、道を誤り沢筋を下って遭難しました。
沢を横切って対岸に移ろうと、徒渉中に激流に流されて死亡した二人は、翌日捜索隊により発見されたました。
なんと一人(流された一人を救助しようとしたリーダー)は水流の無くなった沢の中間で、体に巻きつけたスリングとカラビナでロープに繋がったまま発見されたのです。急激な増水の恐ろしさを教えてくれます。
ともかく、増水したら、川からは即逃げ道を探す。沢では、死なない判断を如何に下すか。これを改めて考えさせられる、柳瀬川の水難事故でした。
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(写真1枚目、嘘のように水が引いた事故翌日の「ふれあい橋」)

(写真2枚目、ふれあい橋から見た、釣り人の一人が掴まっていた木)

(写真3枚目、橋上の対岸位置から見た木)

(写真4枚目、行方不明の一人を捜索する消防隊員たち。遺体はここから9kmも流された場所で発見された)

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2017年8月30日 (水)

畑中の道を歩く

Ca390035_1024隣町のS整形外科病院に、週2度ほど通院しています。
職業病でもあり、四十肩でもある右肩の治療です。長い間、痛みに悩まされてきたのです。
かみさんに薦められて、S病院での治療をして約二年になりますが、痛みは劇的に改善し、右手が不自由なく動かせるようになりました。最近は肩の治療に加えて、白山登山中に傷めた左手薬指の腱断裂の治療も加わっています。こちらも固定装具が外れて、快方に向かっています。
通院は、隣駅なので、行きは電車、帰りは、約2.5kmの距離を歩いて戻ります。
歩道もある2車線の道路があり、その方が距離は短いのですが、あえて、西方向に畑が遠くまで続く、田舎道を通ります。(写真左2枚)
晴れていれば、富士山や奥武蔵の山々が見えます。写真の奥に見えるマンションや工場がまだ無かった頃の景色を想います。眺望はさぞ、すばらしかったことでしょう。
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(写真左下)人通りの多い道から、少し入ると、こんな家並が見られるのです。この先が畑中の道に通じます。なにかほっとする散歩道です。

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2017年8月24日 (木)

子供は泥んこ遊びが好き

今週の日曜日(8月20日)、志木ニュータウン内の館近隣公園で、泥んこになって遊ぶ子供たちの姿がありました。

Dsc02626_320これは、志木市商工会青年部の主催で、「泥んこ祭り+柳瀬川フリーマーケット」が行われ、会場の一角に泥と水が入れられたビニールプールが作られ、泥水の中に飛び込む滑り台も作られたのです。(写真左1枚目)
田植え時期には、全国で田植え祭りが行われ、男たちが泥だらけになる行事も良くみられる風景です。泥田の中で楽しんでいる男たちを見ると、日本人は泥の中で、わーわー騒ぐのが好きなのかと思います。
さて、公園の泥んこプールですが、滑り台から泥水の中に飛び込む子や、泥の中を這いずり回る子、泥を掛け合う子など、大賑わいです。
きゃつきゃと騒ぎまわる子供たちを見ていると、大人も子供も、泥遊びが大好きなんだと改めて思います。なぜかと言われても、良くわからないのですが。
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準備も後片付けも、さぞ大変だったことでしょう。
子供たちに、ふだん体験できない、素晴らしい遊びを提供してくれた志木市商工会青年部の皆さん、ありがとうございました。お疲れ様でした。

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2017年8月21日 (月)

沢田教一写真展を見ました

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日本橋高島屋で行われている<写真家「沢田教一展」その視点の先に>を見てきました。

「回顧展案内よりコピー」

ベトナム戦争の報道写真で活躍し、母子が戦火を逃れて川を渡る様子をとらえた『安全への逃避』でピュリッツァー賞を受賞した写真家・沢田教一の回顧展を開催します。

≪ベトナム戦争で世界に名をとどろかせたカメラマン≫ POINT:1
青森県に生まれた沢田は、1965年からベトナム戦争を取材。
主に米軍の作戦に同行し、最前線での激しい戦いや兵士の表情などを数多く写真に収めます。
1970年、カンボジアでの取材中に銃殺されるまでのわずか5年という本格的なキャリアの中で、ピュリッツァー賞のほか世界報道写真コンテスト2年連続大賞、USカメラ賞、ロバート・キャパ賞(死後受賞)などの輝かしい実績を残しました。米軍の重要作戦をカバーし続け、1968年の「フエの攻防」では、ベトナムの古都で繰り広げられる激しい市街戦の模様を世界に伝えました。
本展では妻・サタさんの全面協力のもと、こうした戦場カメラマンとしての業績とともに、故郷・青森を写した作品や東南アジアの人々を切り取った姿など、写真作品約150点を紹介。
カメラやヘルメットなどの遺品や愛用品も約30点展示します。

≪写真家としてのサワダ…視線の先に見ていたもの≫ POINT:2
沢田の写真に通底するのは、優しい眼差しです。疲れ果てた名もなき米兵、家を追われたベトナムの市民、故郷・青森の貧しい漁民――彼らがすがるかすかな希望や、懸命に日々を生きる姿にカメラを向けました。
沢田は、「そこに生きる人々を撮りたいんだ」と語り、戦争カメラマンと呼ばれるのを嫌っていたといいます。
ベトナムでの大活躍の先に見ていた未来とは…。サタさんをはじめ関係者の証言を紡ぎながら、34歳で殉職した「写真家」の業績をたどります。

 【沢田教一 略歴】
1936(昭和11)年2月22日 青森県青森市寺町に、郵便局員の長男として生まれる
1950(昭和25)年   青森県立青森高等高校に入学。同級生に寺山修司
1955(昭和30)年 浪人生活ののち帰郷。写真家・小島一郎が経営する写真店に勤め、その後、米軍三沢基地の小島写真店で働く
1956(昭和31)年6月   小島写真店の同僚、田沢サタと結婚。結婚生活ではサタをモデルに、撮影旅行で腕を磨く
1961(昭和36)年     夫妻で上京。12月にUPI通信社東京支局に就職
1962(昭和37)年11月   皇太子(現在の天皇陛下)夫妻のフィリピン訪問に同行取材
1964(昭和39)年     東京オリンピック取材
1965(昭和40)年2月   1カ月の休暇を取り、自費でベトナム取材を開始。地方新聞社で組織する「火曜会」特派員として記事を配信する
3月   アメリカが北ベトナムへの爆撃(北爆)を開始。米軍の介入でベトナム戦争は全土に拡大。UPIは沢田の個人的な取材活動を追認し、滞在が1カ月延長される
7月   念願だったUPIサイゴン支局へカメラマンとして正式に赴任。
9月6日 クイニョン近郊の作戦に従軍。ロクチュアン村で川を泳いで逃げる家族の写真を撮影。「安全への逃避」とタイトルされて世界中に配信される。以降、プレイメ、プレイク、イアンドラン渓谷など最前線での撮影を重ねる
12月  「安全への逃避」で第9回世界報道写真展大賞および報道部門第1位を獲得。
1966(昭和41)年1月   妻サタを伴って再びサイゴンへ。米兵2人が塹壕から引きずり出したベトコン兵士を連行する写真「敵を連れて」をボンソンで(1月29日)、米軍装甲兵員輸送車が死体を引きずる写真「泥まみれの死」をタンビンで(2月21日)撮影する
4月   「安全への逃避」が1966年度米海外記者クラブ賞を受賞
5月   「安全への逃避」を含む28点の一連の写真で、日本人としては2人目となるピュリツアー賞(報道写真部門)を受賞。8日にニューヨークでの受賞式に参加
12月   第10回世界報道写真展で「泥まみれの死」が第1位、「敵を連れて」が第2位を獲得。ハーグでの受賞式には妻サタが代理出席。ベトナムへ派遣された米軍の総数は50万人に達する
1968(昭和43)年2月   ベトコンなど解放勢力が南ベトナム各地で一斉蜂起(テト攻勢)。中部ベトナムの要衝フエの攻防戦を取材。王城の攻防戦をとらえた一連の写真が第26回USカメラ賞を受賞する
3月   ジョンソン米大統領が次期大統領選への不出馬と北爆縮小を表明
 
以上、回顧展開催案内よりコピーしました

会場は展示された写真や遺品の前を、横移動する列ができるほどの盛況でした。
来場者は若い人は少なく、高齢者がとても多いと感じました。
沢田教一さんがカンボジアで死去してから約半世紀、ベトナム戦争以後に生まれた人たちにとっては、この著名な写真家の名を知らないのも無理はないでしょう。
でも、彼の名を一躍有名にし、
ピュリッツァー賞も受賞した、川を渡る二家族5人の写真「安全への逃避」を見たことがある人は多いでしょう。確か、教科書にも採用されていました。
僕が、まだ中学生だった1954年頃、、ベトナムのディエンビエンフーで、ベトナム人民軍に包囲されたフランス軍が、「ベトナム兵に包囲された、深刻な状況だ」「塹壕内での戦闘になっている」などと戦況を打電している様子をラジオから聞くたびに、あの外人部隊で名高いフランス軍が負ける戦争などがあるのだろうかと思ったものでした。
しかし、大国フランスは破れ、一時の平和を得たベトナムが、再び米国との泥沼の戦争に巻き込まれてしまう様子は、青春時代とも重なる当時の安保闘争とも絡み、忘れることはありません。
僕は、この回顧展で、念願かない「安全への逃避」を初めて大型パネルで見ることがかないました。
この写真と共に、強く印象に残るもう一枚の写真があります。
沢田さんの「安全への逃避」と同じ、ピューリッツァー賞を1973年に受賞した写真です

1972年6月8日、南ベトナム軍と北ベトナム軍が交戦、南ベトナム軍の空軍機がナパーム弾を投下、チャンバン村は空襲を受けます。
この時、AP通信のベトナム人カメラマン、フィン・コン・ウトさんが、逃げ惑う村人らと共に裸で逃げる少女を撮影し、世界中に配信され「戦争の恐怖」と題されたこの写真は多くの人に衝撃を与えました。僕もその一人でした。撮影したフィン・コン・ウットさんは、なんと若干21歳の若さでした。
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2枚の写真の被写体になった家族が共に後日、カメラマンと交流し、平和を訴える活動をされていると報じられたことは、救いでした。
回顧展でも、「安全への逃避」に写る母親に抱かれた赤ちゃんが、沢田さんについて語る最近の姿が、会場のビデオで流されていました。
今回、回顧展で150点もの写真を見ることが出来た収穫と共に、驚いたのが沢田教一さんの生年が、僕と4年しか違わなかったことでした。
最近、僕の若い頃に活動していた著名な方たちの訃報に接することが多くなりました。そして、その方たちの年齢が、僕と同年代であったことを知り、少なからず驚くことがあります。
僕がディエンビエンフー陥落のニュースをラジオで聞いていた時、沢田さんも19歳で青森のカメラ店に職を得た時期だったのです。しかし、その10年後には、ピューリッツァー賞を受賞した写真「安全への逃避」を撮影していたとは。老いた僕が、過去を振り返り、感慨にふける事にもなった回顧展でした。

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2017年8月15日 (火)

終戦記念日 安倍首相の式辞に思う

今日の終戦記念日、テレビから流れる全国戦没者追悼式での安倍首相の式辞を聞きながら、ここ5年間変わることのなかった、「反省」の言葉が消えた式辞の文脈の繋がりに、納得できない思いがまたこみ上げてきます。
私は、先の大戦に於いて、戦場に斃れた兵士、戦禍に遭われた人たちの尊い犠牲の上に今の日本の平和と繁栄があると結ぶのは間違っていると思います。
310万人もの国民が、なぜ戦争の犠牲者になったのか、
戦争当事国の日本国の反省と国民への謝罪なくして、ただ、命を捧げた戦没者の御霊安らかにと言われても浮かばれないことでしょう。
最近の2年では、先の大戦に「苛烈を極めた大戦、戦場」との言葉が加わり、より受身で、やむを得ず対戦したのだと、戦争の当事者感が曖昧にされていると感じます。
平和を重んじ、繁栄する今の日本は、戦争を遂行した国家体制が敗戦により崩壊し、その反省から出発した戦後の国民の平和への思いと、努力により成されたものと思います。
戦争当事国、そして敗戦国とは思えない、責任感の欠落した言葉の羅列に、私は虚しさを覚えるのです。
参照が長くなるので、平成25年からの5年間の安倍首相の式辞のうち、最近3年間分を写しておきます。なに、それ以前の2年間も、ほとんど同じですから。

○平成27年
天皇皇后両陛下の御臨席を仰ぎ、戦没者の御遺族、各界代表多数の御列席を得て、全国戦没者追悼式を、ここに挙行致します。

遠い戦場に、斃れられた御霊、戦禍に遭われ、あるいは戦後、遥かな異郷に命を落とされた御霊の御前に、政府を代表し、慎んで式辞を申し述べます。

皆様の子、孫たちは、皆様の祖国を、自由で民主的な国に造り上げ、平和と繁栄を享受しています。それは、皆様の尊い犠牲の上に、その上にのみ、あり得たものだということを、わたくしたちは、片時も忘れません。

70年という月日は、短いものではありませんでした。平和を重んじ、戦争を憎んで、堅く身を持してまいりました。戦後間もない頃から、世界をより良い場に変えるため、各国・各地域の繁栄の、せめて一助たらんとして、孜々たる歩みを続けてまいりました。そのことを、皆様は見守ってきて下さったことでしょう。

同じ道を、歩んでまいります。歴史を直視し、常に謙抑を忘れません。わたくしたちの今日あるは、あまたなる人々の善意のゆえであることに、感謝の念を、日々新たにいたします。

戦後70年にあたり、戦争の惨禍を決して繰り返さない、そして、今を生きる世代、明日を生きる世代のために、国の未来を切り拓いていく、そのことをお誓いいたします。

終わりにいま一度、戦没者の御霊に平安を、ご遺族の皆様には、末永いご健勝をお祈りし、式辞といたします。

平成27年8月15日 内閣総理大臣 安倍晋三

〇平成28年
本日ここに、天皇皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、全国戦没者追悼式を挙行するにあたり、政府を代表し、慎んで式辞を申し述べます。
あの、苛烈を極めた先の大戦において、祖国を思い、家族を案じつつ、戦場に斃(たお)れられた御霊(みたま)、戦渦に遭われ、あるいは戦後、はるかな異郷に亡くなられた御霊、皆様の尊い犠牲の上に、私たちが享受する平和と繁栄があることを、片時たりとも忘れません。衷心より、哀悼の誠をささげるとともに、改めて、敬意と感謝の念を申し上げます。
いまだ、帰還を果たされていない多くのご遺骨のことも、脳裏から離れることはありません。おひとりでも多くの方々が、ふるさとに戻っていただけるよう、全力を尽くします。
わが国は、戦後一貫して、戦争を憎み、平和を重んじる国として、孜々として歩んでまいりました。世界をよりよい場とするため、惜しみない支援、平和への取り組みを、積み重ねてまいりました。
戦争の惨禍を決して繰り返さない。
これからも、この決然たる誓いを貫き、歴史と謙虚に向き合い、世界の平和と繁栄に貢献し、万人が心豊かに暮らせる世の中の実現に、全力を尽くしてまいります。明日を生きる世代のために、希望に満ちた国の未来を切り開いてまいります。そのことが、御霊に報いる途であると信じて疑いません。
 終わりに、いま一度、戦没者の御霊に永久の安らぎと、ご遺族の皆様には、ご多幸を、心よりお祈りし、式辞といたします。

平成28年8月15日
内閣総理大臣 安倍晋三

〇平成29年
天皇皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、全国戦没者追悼式を、ここに挙行致します。
先の大戦において、三百万余の方々が、祖国を想い、家族の行く末を案じながら、苛烈を極めた戦場に斃(たお)れ、戦禍に遭われ、あるいは戦後、遠い異郷の地で命を落とされました。いま、その御霊(みたま)の御前にあって、御霊安かれと、心より、お祈り申し上げます。

 いま、私たちが享受している平和と繁栄は、かけがえのない命をささげられた皆様の尊い犠牲の上に築かれたものであります。私たちは、そのことを、ひとときも忘れることはありません。改めて、衷心より、敬意と感謝の念をささげます。

 戦争の惨禍を、二度と、繰り返してはならない。

 戦後、わが国は、一貫して、戦争を憎み、平和を重んずる国として、ただひたすらに、歩んでまいりました。そして、世界の平和と繁栄に力を尽くしてきました。私たちは、歴史と謙虚に向き合いながら、どのような時代であっても、この不動の方針を貫いてまいります。

 いまだ、争いが絶えることのない世界にあって、わが国は、争いの温床ともなる貧困の問題をはじめ、さまざまな課題に、真摯(しんし)に取り組むことにより、世界の平和と繁栄に貢献してまいります。そして、今を生きる世代、明日を生きる世代のため、希望に満ちた明るい未来を切り拓(ひら)いていく。そのことに、全力を尽くしてまいります。

 終わりに、いま一度、戦没者の御霊に平安を、ご遺族の皆様には、ご多幸を、心よりお祈りし、式辞といたします。

平成29年8月15日

 内閣総理大臣 安倍晋三

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2017年8月11日 (金)

セミの抜け殻のなる木

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Dsc02608_1024我家の周りでは、早朝から夜中までセミの大合唱が聞こえます。
アブラゼミ、ミンミンゼミ、クマゼミ、それぞれ鳴き声が違いますが、一体となるとワーンという大音響になって、騒音になります。
志木ニュータウン内は、子供でも30分もあれば、20匹くらいのセミ取りが出来ることは、以前書いたことがあります。
それだけセミが多いのですが、セミの抜け殻も、あちこちの木の枝にあきれるほど見つけることが出来ます。この写真、一本の木ですが、地面の上30cmほどの枝から、3m近い高さの枝まで、まさにセミの抜け殻がなっています。20個以上はあるでしょう。木の根もとは、セミがはい出した穴だらけです。(写真はクリックすると拡大します)
木はたくさんあるのに、何故、同じ木に集中するのかがわかりません。卵を産む際に、好き嫌いがあるのでしょうか。
泥をかぶったような、ニイニイゼミの抜け殻は、見つけられないので、ニュータウンにはいないのかもしれません。
特徴のあるツクツクボウシの鳴き声は、まだ聞いていませんが、これからヒグラシと共に鳴いて、秋の近いことを教えてくれることでしょう。

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