2009年3月10日 (火)

荒船と神津牧場付近その4---大島亮吉

 荒船と神津牧場付近
三回にわけて書いてきましたが、この(四)で最終章となります。

あんまり牧場のことばかり書いてしまったようだが、大体初めのつもりはこの神津牧場のぐるりの、ごくやさしく小さい山歩きについて、書いてみるつもりだったのだ。

一体私はこのあたりで、初めて日本の低い、小さな山歩きのおもしろさ、たのしさを知った。

そしてそれは私の山歩きの前途に、その時全く払暁的な新しさと望みとをあたえてくれた。私はここで、ただ私のあてもなく、いくたびか歩きまわって、しかも自分には少しもあきることのない、このあたりの山歩き、谷歩きについて、なんの秩序もなく書きつづってみる。

 神津牧場へくるには、軽井沢からがいちばん近い。半日でこられる。軽井沢高原から雨宮新田へ出て、和美峠をこえて上州側へ下り、初鳥谷(はつとや)から高立(たかだち)の小さい谷あいへ入る。高立から少しゆくと一本岩といってドロミーテンのフェルストゥルムそっくりの岩峰が谷のまんなかに立っている。なかなかこのあたりではめずらしいものだ。だがのぼってみようという気はおこらない。そこまでは沢沿いの路だが一本岩からのぼるともう牧場となっている、ひろい山腹があらわれてくる。

これはごく普通の路で、もっと近いのは和美峠より右手の日暮山(につくらやま)の裾の峠をこして、すぐと高立へ山る路である。もっと変化のある路では、軽井沢から上発地(かみほつち)へ出て、そこから八風山(はっぷうさん)へのぼり、やさしい、歩きよい、はばびろな尾根を歩いて牧場のうえの志賀峠の道へ下りてくるやつである。信濃の佐久側や、上州側はこれよりずっと遠い。

 牧場のあたりは、いたるところ、私の好きな、草や笹の、短くて、歩きよく、そしてひろびろとだだっびろくて、あけっぱなしで、眺望のいい、あかるい山頂ばかりである。また谷も、あさく、あかるく、落葉松や白樺の林や、古びた、杉の匂いにしめった村のかげのある、このましいものが多い。八風山(一三一五・二米)、香坂峠(こうさかとうげ)(一一六五米)、物見山(一三七五米)、寄石山(よりいしやま)(一三三四・九米)、熊倉峰(くまくらみね)(一二三四米)、内山峠(うちやまとうげ)(一〇六六米)とこれらの山頂と峠とをつなぐ尾根尾根と内山川の谷々、志賀、香坂(こうざか)の明るい、浅い谷あいとが、すなわちそれなんだ。そしてこのなかでも、物見と寄石と八風のあかるい早春の日の山上展望はことに私をよろこばせた。

 東京から持って来たフランスパンに、牧場でつくったバタとを入れた、かるいリュックザックを背に、私は、半日、または一日のさまよい歩きのために、これらの頂き、尾根、峠、山腹、山窪、谷あいに、うす青い径(こみち)を求めたり、笹原のなか、草ぶかいなか、雪のうえ、流れのほとり、林のなか、村の道といたるところ歓会(かんかい)を足先にひろうては、ほっつきあるいた。

 春はやくにここへやってきた時に、牧場の小屋に泊っていて、私は毎日持って来た本もよみあき、牧夫の手伝い仕事にも疲れた時には、いつも、空気のいろが明るく、雲の流れも淡くひく、午前の透明な気圏の印の展望のために、これらの発感的な山の頂きにのぼって、眼は風の流れる蒼穹のいろをそめて、そこにやわらかい草座を求める。とおい山脈の雪の光が、その時の私のぜいたくな倦怠と孤独とにこたえてくれる。エクスターズの一時間、また一時間。私は山の持つバッシィーヴな魅力というものを、ほんとにその時感覚できた。

 ぼんやりと空想でもしていたり、本でも拾い読んだりするのには、たとえ西風のつよくふく日でも牧場小屋の後ろと、牧場小屋を少し下へおりた牧場の、ぐるりのうす青い落葉松の林のある斜面がとてもいい。日の光は滋養物のように身にあたたかく、風もあたらず、静かで、ただとおい川瀬(かわせ)のひびきだけが耳にほかほかとやわらかだ。

 それから好きな山窪(やまくぼ)は、寄石の、山腹の日の光線がひろびろとかかる笹原の窪みで、牧場小屋からそこへやってくるにはかなりにとおいにしても、日のうららかな、あたたかい日の午前には、どうしても私はそこの笹ごしらえの寝椅子へねころびに出かけてしまう。笹原のなかにとっぷりと身をうずめてしまって、うっすらと笹原をわたる風の韻(ひびき)を耳に、青い眼の下の志賀の谷あいにのぼる山畠をやく、ほの白いけむりをでも見ていることだ。志賀越えの峠道を、牧場がよいの馬の鈴の音がしゃんしゃんと、それに馬子の唄声(うたごえ)がかすかに風のように斜面をのぼつてくる。

 谷で、小さくて、可愛らしく、流れと落葉松とのポエジイを持っているものは、初谷鉱泉の谷あいだ。牧場から物見の尾根をどこでもこせば、もうこの谷だ。草ぶかい小径を下りて、さやかな落葉松のなかの林径をゆけば、初谷の鉱泉宿がたった谷あいの一軒家となって、つつましやかに、いつもうす青い、湯をわかす煙を尾根にはわせている。こんな谷あいの、都会もとおい田舎のひとびとしかゆかない、春には蕗味噌(ふきみそ)と裏山からとってきたうす青い筍とをたべさせてくれるほかには、なんの御馳走もないというような、そんな鉱泉宿の持つ、言いようもないデリカナなシャルム、ある清新なたのしさ、やすらかさについては、全く実際こんなところへ一度でも泊ったひとでなければ理解できないことであろう。私はそこで、ただ湯につかり、本を読んだり、このあたりの田舎の湯治客と、湯宿のひとたちと、湯槽(ゆぶね)のけむりのなかで、雲のいろを見て、山の風をきいて、愚にもつかない、けれど飽きることのない山のはなしや土地のおしゃべりをしたりしてくる。ここは湯宿のひとがてずから薪を割って、湯を沸かすほどに、小さな鉱泉宿なのだ。

荒船、内山峠などへの山歩き、またはあてもなく、谷みち、村の道などのプロムナードのために、私はこの小さな、かわいらしい谷を愛して通ることにしている。

 牧場から、笹原ばかりの尾根すじに、ターゲスワンデリングをするのには、私はいつも志賀越えの峠道をゆるゆるとのぼって、峠のうえにつき、それから幅のひろい、尾根とも思えないくらいのゆるい笹原をかさかさと歩いてゆく。西風の吹かない、春の日向には、ここいらを歩くのは、全くちょうどいいくらいのあたたかさだ。わかい午前の日の輝きと匂やかなそよかぜは、私の影をきよらかにめぐり、半身に日を彩りつつ、眼の向けるどこにもは、うっとりとした、はるかな、はるかな春の山々のうすい山影。さすがにこんな日には、北アルプスの雪も、するどくは光らない。まるで夢をみているようなおだやかさだ。それをみるものも、また夢みて歩いているんだ。枯草は残雪のあいまに金いろに光ったり、紫の蔭に安らったりしている。そして私は香坂峠から八風の頂きをすぎて、もっと先までもしらずしらずに行ってしまう。そしてついには、もうはる風の流れている信濃の村々をぼんやりと谷あいにながめながら、一一五五.五、の富士山という香坂の村の上の草山あたりまで、尾根のうえについた小径を歩いて行ってしまう。そして今度は、谷の村々のひそやかな青紫の木立の影をめざして、尾根を下りてくる。草の斜面から、林、藪、小川、畑、百姓家とだんだん村のなかへ近づいてくる。そしてこれから信濃の山ふもとの春さきの、麦と落葉松と水車の村々を歩みぬけては、志賀の谷あいをのぼって、また山上の牧場へと、静かな夕暮れのいろこめたなかを帰ってくる。そして峠のうえでふりかえれば、きょうもことなく暮れた平和な谷の村々が、遠ざかってゆく私を山裾や谷あいで見送つているようだ。

そしてそんな時私は、ああ、よくも散歩し、よくも歩きまわったその日一日の快いのびのびとした軽い心持と、疲れたのどをうるおす、新しい搾りたての牛乳の味とを、いつも心からたのしむのだ。香坂の谷も志賀の谷も、あさく両側のなだらかにひらけた、ゆたかな村々のある、谷問だ。ことに志賀越えの峠道は、村から山畠、雑木林、草っ原、落葉松林、笹原と、上へゆくにしたがってかわる、ゆるい斜面をゆっくりのぼってゆく、趣きのある道だ。牧場への物資もみなこの峠をこえて、岩村田から馬背ではこばれるのである。牧場からは毎日のように馬が鈴をならしてこの道を通っている。それをきくとなんだかまだ往昔の街道の峠のような気がしてならない。

牧場の近くにある山村でいいのは、西牧(さいもく)の谷へ牧場から下りてゆくと、すぐある、山腹のテラッスのうえにわずかばかりの畑と木立とでかこまれた屋敷という小村だ。曲りくねった、急な折れまがりの岩道を下りてゆくと、この村の古びた、苔ぶかい石屋根と白い障子が見える。そこも牧場とおとらぬ平和なくらしぶり。玉蜀黍をずらりと軒につるした人のいい村の家の黒光りの縁側でついでくれる、うれしい土瓶の茶の匂いに私はいつも感謝する。

屋敷から更に下って市野萱、中萱、三ツ瀬など、内山峠の街道沿いの村々へと下りれば、これらの黒ずんで、家のなかのくらい街道の村々の屋根のうえに、全く巨きな難破船の朽ちたように、または屏風をめぐらした。古びた城墟のように、怪奇な荒船の山姿がのしかかるように高い。ことに内山峠へ向かって、あの平らな頂上の突角が突如直角に落ちて、ほんとに船の舳のようになっているところを見ると、たしかに荒船という名のふさわしいことを知る。

私は三ッ瀬の小さい旅舎の暗い庇の下の二階の窓から、三月の夕暮れにこの荒船の蒼い雪と黒い岩とで眼のうえに突き立った姿を見た。そして、それには夕日の薔薇がまだちらちらしていた。低いけれど、なんとなく高く、おそろしく見えた。このように船のように見えるのは上州側から見た時のみで、信州側から見れば、この荒船もただ頂上が一直線に長い、あまり見栄えのしない山だ。

三ッ瀬から荒船へのぼった時は、また三ッ瀬から相沢の村へはいった。前にも書いた通り、西風のつよく吹く、すばらしい天気の日だった。相沢の村を遇ぎると、途は小さくなって、すぐ雪が硬く凍りついていた。細い道は尾根のようなところを急なジッグザッグでのぼっていた。地図にはない径だ。朝の紫水晶いろをした空に、風のびゅうびゅううなるなかに、この岩の船が雪にあおあおと光って立っていた。径はしばらくして雪で埋まってわからなくなってしまったので、私は硬い、朝の凍った斜面をただ上へ上へとのぼつて行った。その時幸い鋲靴をはいていたので、この雪の斜面はあまりてこずらなかった。けれどいよいよ頂上へのぽりきる最後の雪の斜面は、おそろしく急であった。とても初めはのぼれなかったけれど、ついに持っていた鉈で一歩一歩足場を切って這いのぼった。舳の突角の岩壁のそばであったから、非常に急であった。のぼった時はうれしかった。上州側からのぼったのはこの時だけで、その後はいつも信州側からのぼっている。

 頂上にのぼれば、まともに吹きつける西風は眉にしみて、そこは全くの兎の足痕のみの雪の原で一ところどころに牧草が金色に光り、岳樺がさびしく立つていた。私はその足のぽくぽく潜る雪原を足を歩くにまかしてなんの制限も加えず、風のなかに、眼の輝くままに展望をほしいままにし、よろこびにひたされてめちゃにこの頂上高原への尊敬と愛清とを、そこら中へふりまいて歩いた。頂上高原の南端には一四二二・五米のぽっちりと小高い円錐状の頂きがある。そこへのぼれば、南の方に重なり、うち重なる黒木山、更に黒木の山ばかりが、雪をかぶつた、清らかな自然色をもって、連なっているのが、いきいきとした午前申の大気のなかにのぞめる。けれど私はその時は、まだ北から西への皚々たる高い山脈に、ずっと心を惹かれていたから、この南の、これらの低い、午前の日のうすむ山山にふかく印象もされなかった。

 けれど、二度、三度と、春はやくに、または夏晩くに、秋の初めに、この頂きに座し眺めるたびに、私はこれらの、低い中部日本の山々の古雅な、静かな、日に光り、日に影する山隅(やまくま)や谷影をもまた愛するようになった。こんな低い、ちいさな、名もない山々。こんな山々にさえも、またそこには私らにとって決してくみつくせぬ多くのものがある。そこにはまず、私みずからの心胸内に、以前とちがったものが、あることをみとめなければならない。もうその時には、私はこの荒船の頂きに座って、これらの山々をみおろしていては、あの低いバイエルンの故郷の山々をかぎりなく愛して、生涯そこをたえず歩いたひとりの登山者の精神を、まるで鎮静な香炉からのぼるひとすじの煙りのように、匂いふかく思念せずにはいられなかったのである。私はこの日本のミッテルゲビルゲを、また彼のごとくに愛したい。

 信州側から荒船の頂上へのぽるには、星尾峠(一三〇〇米)へ内山峠の街遣からのぽってくる。いい道を、峠の頂上までくれば、そこからはほそい経が荒船の頂上へ通じている。星尾峠は上信のさかいになって、春には雪のかたい谷道が、信濃側へくれば落葉松の林のなかについている。

私はいつもこの道をのぼってくる。道の途中には小さな百姓家の二、三より集まったところと、荒船不動の杜がある。

 とにかく荒船は、私にはたびたびのぼりたい頂きだ。ことに早春、それが雪に光った古い城壁のように見える時にそうだ。それから、この秩父裏になっていて、また神流川、西牧川、南牧川の上流になっている、上信の国境の低い、錯雑している山地は、山の奥ふかくまでも、古い、小さな村々が、古くから人問生活の根をおろしている。そこには決して高い、顕著な山頂もなく、一帯に低い山が折り重なっているだけだ。だから交通も開けなく、文化の風もふかず、村々はまるで動きのない平和な生活をしている。荒船から見たこの山地の蒼古な山すがたに心ひかれて、私は昨年(大正十三年)の、夏に、とうとう、峠越えをして歩いてではあるが、この低い山々のなかを上信国境に沿うて歩いた。

 この神津牧場のあたりが、軽井沢の高原へ続いて多く明るい草山なのに比べて、内山峠の街道から向うは殆んど黒木山ばかりで、感じも湿って、くらく、陰気だ。けれどまたいい草山や、草原の峠もある。余地峠と矢沢峠がそうだ。それから栂峠も美しい草山が続いている。一体にここいらの低山地は、交通も不便だし、目立って高い山もないためか、また東京の近くの丹沢山塊や道志山塊、御坂山塊、多摩川と相模川との分水山脈のように、低い山を歩くことの好きな登山者にも、まだそんなに詳しくは歩かれてはいないようだ。またここいらの山歩きの記文もあまり私は見ない。「山岳」の奥上州号には高畑さんの「晩春の神流川上流へ」など、また近頃の「山岳」の荒船近くの記文と民話は素敵に私はうれしいものだった。たしかにこのあたりの低山地は、古いだけに、いろいろの歴史、伝説、民話にとんでいるらしい。その点でもおもしろそうだ。けれどまだそこは私にとっては

Liebingsgebietではない。私のCherished Hauntはどうしても、神津牧場をまんなかにして、八風から荒船までの間だ。こんなつまらないところだけれど、私にもひとつのこんな、何度でも行って少しもあきないというところを持っていることはうれしい。そして私がこのあたりに時たまの遊行をなすことは、じつに私にとって山への愛を高めるひとつの手段なのだ。私の山への静かな小さな考えが、いかにここいらの枯草の山頂と落葉松の谷あいによって、ここ幾年、愛せられ、まもられ、慈しまれてきたことだったろうか。そして、それによって、ほんとに山への、どんな熱情を私はとりもどしたことか。書くだけ気障かもしれないが、私はここの牧夫部星の窓枠ががたがたと西風に打ち鳴るような日など、ひとりそこに居残って、太い松薪のちらちら燃える暖炉の前で、静かに、本気になってある時はThe Englishman in the alpsにどんな幾篇を、またある時はあのジャヴェル遺著の幾頁を、ほんとに自分のために読みふけった。

 ここいらはたしかに日本でも、低い、そして小さな山や谷だ。そしてなんのその土地に対しての知識もなしに、らくらくと地図をたよりに、自由にひとりで歩ける程度のところだ。だから私は決してここいらを、そんなようなことのために書いたのではない。ただ、自分にとって、たのしい、そしてまたいろいろの小さい山歩きのおもしろさを与えてくれ、それによってまた山へのひとつの別な愛をとりもどすことのできた、いろいろの点で自分の忘れがたいところなので、ただ思い出すままに書いたのだ。それからまた、これによって、日本の低い山をのぼるうえで、自分の気質のやや鮮明に生きてきたことを感じて、ひとりよろこぶのだ。そして私にとって、その山上の牧場は、またそこの持つ明るい、きよらかな自然と、そのなかに生きている美しい、平和なひとつの人生との、その一箇完全な調和の光景が、私をして実にここ数年来そこを傾倒すべく、愛すべく、かつ美しからしめ、たのしからしめているのである。

 私はこれを東京の高台の兵営の、またその牧夫部屋とあんまりちがわないような装飾もない質素な部屋のなかで、もう九ヶ月以上も山での生活とはなはなだしくかけはなれた兵営生活をしているあいまあいまに、心たのしくこれまでのことを回想の筆に托しながら書いたのだ。

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2009年3月 9日 (月)

荒船と神津牧場付近その3---大島亮吉

荒船と神津牧場付近

 

 三

こんどは牧場のことについて言ってみる。この牧場はまず、実にいい場所にある。きよらかな、透きとおった場所だ。標高は千米から千三百米までの問にある。

山のうえの高いところに、よくもこんな、緩傾斜の広い場所があったものだと感心するくらいだ。物見の頂きまで、夏には牛たちが草を喰べにあそびにゆける。そして小さい流れが、このひろい山腹をほどよくうるおして家畜らに飲水(のみみず)をあたえつつ熊笹のかげ、木の根っこ、草のなかをよろこんで流れている。夏にはこの牧場は一面かぐわしい牧草の匂いにみちる。ところどころに小高い斜丘があって、牧場の小屋の後山(あとやま)は岩塊と草との斜面と落葉松の疎林になつており、そのうえには円みを帯びた頂きが続いている。

 牧場からやってきて、落葉松のまばらに、立っている枯草の斜丘にのぽってきてみれば、春まだ浅い牧場の眺めはまだらまだらに山窪(やまくぼ)谷隅(たにくぼ)に雪をのこしている。ここでも春は蕗の薹から芽ぐむ。そして、ここへくる時通ってきた上州のうすい青い谷々や、淡紫色の低い山の遠景を見ていると、春は平原からのぼってくるのだということが、つくづくと感じられる。そして、そこの落葉松山(からまつやま)もまた冬さびてはいるが、それでいて柔かになにか芽ばんで、かすんできた風物を見ると、もうそこにもやがて遠い地平から輝く春がさきぶれを送ってほのかにやってきているのに気がつく。

 もしも物見か寄石(よりいし)の頂きまでのぼって行ったら、そこのぐるりにひらける山上展望に私はよわずにはいられない。雪ふかぶかに、西風に洗われて、水晶のように透明に光っている北アルブスをもっともとおくに、八ガ岳から続いた蓼科(たてしな)は老い朽ちた死火山の影をはなち、浅問は吐くけむりもほのかに、みな雪にしろく、秩父は屋根くろぐろと高く、それとこことの問にある折り重なった多くの黒木山(くろきやま)の林層(りんそう)のあいまには、ところどころ白く雪が光って見える。右は八風山に続いて起伏する斑雪(まだらゆき)山。のぼってきて後ろには妙義の黒い、骨ばった峰々。そして更に視線をとおく上州の平原へと延ばすと、それに続く低い山々の折り畳みが、まるで固体の海の波涛ででもあるかのように眺められる。私はこの物見と寄石との三月のある午前の山上展望によって、一度はとおざかっていた北アルプスに、つよくまた惹きよせられた。そして、その時急いで私は家に帰り、すぐさま友を誘ってそこへ出かけて行った。それから蓼科へも、そこからの展望によって誘惑されて、牧場を下りて行ったことがあった。おそらくここの展望は、この早春のころと、そして晩秋のころがもっとも私はいいであろうと思う。

 それは牧場全体のことだけれど、こんどは牧場のうちの小さいことを言うと、まず牧場の建物や小屋のことだ。ここの家畜小屋の構造(つくり)は全くカラームやゴオの絵や写真で見る通りに、アルプスのシャレエそのままだ。緩勾配の低い板葺きの屋根には雨や風に曝された、くろい石をのせて、白塗りの玻璃窓(ガラスまど)のはまっているあたりはことにそっくりだ。牛舎、秣小屋、肥料小屋、物置小屋、牧夫小屋、牛酪つくり場、など、みなこのあたりの風景にふさわしく、無秩序のように、それでいてうまく、最も都合よく建てられてある。大体この牧場の建物や小屋は決して、アルプスのシャレエをまねて建てたのではない。外部を普通の信濃の山家(やまが)の構造(つくり)そのままをとって、ただ内部を牧舎や、それぞれの小屋の用途に適するようにかえただけである。日本の山のなかの百

姓家とアルプスのシャレエとが外観のはなはだしく似ていることは、誰でも知っていることだ。

ここの牧場の建物や小屋だけが特にシャレエに似ているというのではないのだけれど日本の山のなかの百姓家は外観こそ、シャレエには似ているが、その内部にいたっては、全く採光の点では劣っていて暗く、湿っぼく、陰気でおまけにストーヴでないから、けむく、くすぶっていて、あまり感心しない。

 けれど私のいつもこの牧場へ来て泊る牧場の炊事場と食堂をかねて、それに牧場への御客も泊るようにできている小屋は、極めて気に入った内部のつくりだ。厚い一枚板の、頑丈で大きな食卓、その上で牧夫たちがおどろくべき健啖さを発揮して、いつも質素な食事をする。室のなかにはなんの飾りもないが、片隅の暖炉のそばのホップのうえの湯沸しはいつでもやさしく、つつましやかな歌をうたい、明るい玻璃窓(ガラスまど)はひとつの立派な戸外の風景をそのまま額椽のように篏めこみ、そのうえ青い山上の朝霧の網をふるわして、薔薇いろの日光がその室のなかに斜めに太く射しこむ時、その明るい窓ば全く、この部屋にとって最もふさわしい生きた装飾となる。そうして暖炉のそばには毛並のつやつやした、鼻先のとがって、いかにも怜悧そうな顔つきの羊飼い犬がおとなしく座っている。部屋は食事と食事の間は、如何にもこざっばりと快適にまるでゴッホの素描のように、きっぱりした明暗と生気とをうけてととのっている。そして食事時(しょくじどき)の鐘がなれば牛舎からも、秣小屋からも、牛酪つくり場からも、仕事を置いて牧夫たちは、日にやけた、まっかな太い腕をまるだしにして、集って来る。綿の厚く入った和製テルシャツの仕事着で着肥ったそれらの人たちの体は、若さと健康とにはちきれるばかり。そして牛たちが草をたべるのと同じように、さもうまそうに、最も質素な食事にむかう、同じ慈しみの空気は、彼らのうえにただよって、にぎやかな談笑が湧くようにそれらの人たちのなかからまきおこる。

 この牧場はもとは、この物見山の信濃側の麓にある志賀村の豪家、神津氏の経営にあって、それで神津牧場と呼ばれているのだが、この土地では物見山牧場の方がよく通じる。神津バタの名はよくきくだろう。それほどここはよいバタをつくる牧場としても知られているんだ。

 牧場では年中乳を搾っては、それでバタをつくっている。牧場の生活は単調だ。牧夫のうちには、それぞれ乳を搾る役日、秣をきざむ役目、バタをつくる分離器を廻す役目、薪をつくる役目などときまっている。毎日それを、おのおのが繰りかえしているんだ。そして毎日の仕事が同じなのと同様に、毎日の食物も全く同じだ。朝から晩まで終日(いちにち)、三度三度が味噌汁と飯っきりだ。

そして午後三時にはおやつに、小さい子供の頭ぐらいの大きさの握飯をこんがり焼いて、それに味噌をなすったのを一人が二つずつ喰べることになっている。実にそれっきりである。そして文句はでない。だから牧夫はみなおとなしく、正直で、無邪気で、からだがつよい。そして子供のような好奇心にとんで、話ずきである。またそれだからとて決して仕事を怠けやしない。おそろしいほどはげしい労働を平気で、長い間続けている。牧夫たちはみなこの牧場の麓の村々の者で、永くそこで仕事をしている者だ。だからその人たちは全く他の生活というものを知らない。私はなによりこれらの素直な、不平なく愉快に働いている人々が好きだ。そこでは休息と団欒とのあいまの労働がそれほどにも、ひとつの美しい、正しい世界を形づくっているんだ。私はこころからこれらすべて労働する人たちの明るい、やさしい心をたたえたい。

 私がこの牧場へきて、これらの牧夫たちと一緒になって、面自半分にやった仕事というのは、いちばんやさしい秣切(まぐさぎ)りとエンシレーズかつぎだ。春には秣切りを、夏と秋にはエンシレーズかつぎをやる。その新米の秣切りの相手は、いつも「松」という、少し薄馬鹿な、涙の出るほどボン・ノンムである若い牧夫だ。秣小屋のなかで、手のあいた一人が藁を挾んで、二人で交る交るに秣切りの機械のハンドルを手でぐるぐると廻すと、ザックンザックンと歯ぎれのいい音をして秣が切れる。「松公」はこうして、いつも尻切れとんぼに終るわけのわからないような歌の初めを、鼻でうたいながら働いたり歌を歌ったりし続ける。私もまた口笛に歌の譜をうつしたりなどして、同じように仕事をし続ける。こうしてある日の午前が送られることがある。

 エンシレーズかつぎは、なかなか苦しい。夏と秋の初めには、牧場は最も生産力の旺盛な時で、牧場の人々全部が、朝から夜まで活動する。牛たちもみな朝から、ひろい物見の上まで目由に放しっぱなしにし夕暮れにはまた牧舎までつれ帰ることをしなければならないし、それに乳搾り、牧草刈り、牛乳の運搬などと、春や冬にはない仕事がふえてくる。

 夏と秋とには、そのように牧場は静かななかにも、幾分と忙しいところがある。それから夏にはこの牧場あたりは毎日霧の日が多い。この山上の灰色の霧が、またこの牧場の風景をなんとも言えなく、しめりふかく、ふかみずける。そんなような日に、霧のなかを、笹原や牧草の敷いたようにやわらかな、ゆるい尾根続きを歩きまわった時、私はその笹をヘザーにたとえて、本で読んだスコットランドの低い山々のヒル・ウォーキングを思い起し、スウイスはカントン・ド・ヴァレエの高い谷の傾斜面にあるPaturageをたのしくも想像した。そこには、霧のなかにソンネーユの朗らかな音のひびかないのが、なによりの物足りなさではあるが、この中部日本の、山上の牧場にも霧のなかで姿は見えずに、時々、牛に食わす草を刈つている牧夫が歌う、この信濃の山国(やまぐに)のひな唄をきいていると、それは、ひとつのまた日本的な牧歌的情緒を生みいだすではないか。

 夏のタベの牧場の光景もまたそうだ。この山上の牧場の夏の夕べはから静かに、煙りのようにのぼってくる。そしてそれは山の中腹を這っている。するととおくであそんでいた牛の群は、牛舎の前の、乾いた石を積んでかこった囲いのなかにひとりでに帰ってくる。乳牛たちはいまは黎明(あさあけ)から日没まで終日(いちにち)、暑い太陽に焼かれた、花と牧草の匂つている、ひろい牧場で草を喰べたり、流れの水をのんだりしているんだ。乳を搾る時間がいま来たわけなのである。乳牛たちはちゃんとそのことを知っているらしい。あるやつは起きたまま、じっとおだやかな、どんよりとした眼で私をみつめているし、また別のやつは、ながながと寝そべり、肢(あし)をのばし、大きな腹を溢れ出し、まるで乳房を圧しつぶしてはしまやしないかと思われるほどにして横になっている。みんなねむそうだ。長い睫毛(まつげ)のふさふさと陰った下で、おとなしい眼を半ば閉じたり、つぶったりしている。そして、みんな規則的な、ものうい格好で、反芻している。淡薔薇色の鼻面からは、涎がゆらゆらと糸をひいて、ゆられている。

 すると炊事場の方から、カラン、カランという鐘(かね)の音がひびいてくる。乳を搾れの合図だ。乳搾りの牧夫がやってくる。つよい、大きな頭がひとりでにみんな起きあがって、大好きな塩をねだっている。牛たちがぺちゃぺちゃと湿った音を立てて、塩をしゃぶっている問、牧夫はしゃがんで、ニュームのバケツのなかへ、雪のように白い、乳をチュウチュウ搾り出す。その搾る手先の連動は、ひとつのリズムを持っている。泡立って乳はバケツにたまるんだ。

 からのぼって来た夕は、空から降りて来たすみれ色のヴェールと、この山上で一緒になってしまったようだ。コリイ種の牧羊犬の吠え声が、牧場の夕の平和をわずかにやぶる。炊事場の青い煙が、屋根のうえにただよっている。ようやく乳搾りのすんだ牛たちは、おだやかな、重みのある歩きっぷりで、一匹ずつ、囲いのなかから、牛舎へと連れこまれる。あっちこっちの牛小屋のなかで、低音のもうがきこえてくる。そして、とても静かにこの山上の牧場に暑い一日のあとの平和な夕暮れが完全に来る。ここの、こんな夏のタベの平静な光景は、たしかにエキゾチックな、そしてピットレスクなものだ。ひとつのミレーの小画板である。私はこんな時、うれしくなって思わずも、アルプスの牧人らから生れたヒルテンリートなどを、夕栄の山頂にうつして、口笛にうつしなどして、その素朴な歌の調子をたのしんだりする。そんな風に夏に来てはここのあかるい夕景と霧の日の灰色画とが、最も私のふかい感興を染める。

 この牧場へ来て、牧牛者のなかにいる時や、大きな牝牛たちの前に座っている時に、初めて私はあのフィリップ・アルボオのLA vie pastorale dens les Alpes Francaisesのシャルマンな頁を想い浮べることができる。頑丈なシャレエと荒れさびた山上の牧場のベエイサージュを眼にすると、ジャヴェルの愛したル・サレエヴの山谷をしのぶ。

 まだ晩秋に、ここへやってきたことはないが、おそらく、他のいずれの季節にもましていいところがあるであろう。きっと、十月の終りから十一月の初めの、あたたかい、よく晴れた一日か、あるいは、ほんとにサン・マルタン祭にあたる十一月十一日前後の小春日和をえらんで、ここにきたならば、その山の中腹にひろびろとひろげられた牧場の、レンブラントの素画めいた風景は、おそらく私の瞳をあらうように、きよらかで、うつくしかろう。ことに、そのころの、あくまで澄んで、深遠な蒼弩(あおぞら)のもとに、水晶のように冷たくて透明な西風に吹きさらされた、あの国境の山脈(やまなみ)の雪の光るのを眺めるにいい、晩秋の午後の座席が、あの尾根の笹原にはいたるところに見出されよう。日本の低い山を歩くにいいのはどうしても早春と晩秋だ。

 また、そんな暖かい日だったら、牧場の例の牛たちもきっと、牛舎の前のあの柵の内には連れ出されて、いつものように、乾草を食いながら、たのしそうに鼻息をつき、あちこちと重そうに歩きまわり、そうして始終長い尻尾で、脚や腹にたかる、年の最後の蝿たちを払っていよう。私の好きな、たびたびスケッチのモデルになってくれた、あの班ら茶色のゼルシイも、私の傍へ寄って来て、また大好物の塩でもくれるのかと思って、反芻動物特有のうらがなしい眼付きで私を見、それから頭をさし出して、捲毛の生えたぼんの窪をさすって貰おうとするのにちがいなかろう。(三)終り

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2009年3月 8日 (日)

荒船と神津牧場付近その2---大島亮吉

春の初めには、この牧場はまだ雪が斑々と残って、きよらかな、すきとおった自然色のうちに静かに眠っている。ぐるりの山も雪でふかく、つよい西風が毎日尾根で晴天の笹原をざわざわと鳴らして吹きわたる。牧場の仕事もいたって閑散だ。牧夫たちは戸外へ出ては、殆んど働くこともない。家畜はみんなあたたかい小屋のなかにいて、よほど暖かい、よい天気の日でないと、小屋の外には出されない。私はここの早春のころにいちばん愛を感じる。

 この春あさい頃には、毎日よく晴天の日が続く。そしてここへきては、私は毎日、この牧場の近くの、なだらかな山上の傾斜面や丘窪(おかくぼ)に残雪と枯草とを踏んでの散歩者となり、あかるい、落葉松林(からまつばやし)の谷あい沿いの細径を歩き、雪の硬い山道をよじのぼっては、このあたりの山々の頂きを訪れる一日の山上の彷徨者となる。そして、またそのような散歩と山歩きとの問のある日には、この牧場の平和な、おだやかなペエイサージュのなかに入りまじって、牛舎の前の日当りのいい

囲いのなかの牝牛ののどかな、ながい啼き声を、あるいはまた私の胸のなかへねむいまでの、のびやかさで平静を歌う牧夫部屋の暖炉続きの側面架(ホップ)のうえの湯沸しのふつふついう音を、またあるいは日の当る斜面の牧柵に背をもたせて、秣(まぐさ)小屋から洩れる秣をきざむザックン、ザクンという音と、秣を切りながら歌っている牧夫の鼻唄などそのほかのどかにも心を魅するこの牧場のさまざまなもののひびきをうつつのうちにききながら、ただわけもなく、全く憂心もなく、不安もなく、ひとり無為をたのしんだりするこれらのことが、私が早春にここへやって来ての殆んど毎日の日課なのである。

 それから、もうひとつそれに是非ともつけ加えて置かねばならないのは、この牧場でのめる、新鮮な牛乳の味である。

 この山の牧場の乳搾り場はちょうど、牧場のいろいろの建物のちらばっているまんなかに牛舎と並んである。そこへ朝むっくりと起きて、すぐさま高い山上の冷たく、さわやかな朝の空気を呼吸しながら、まあたらしい、搾りたての牛乳を飲ませて貰いにゆくのは、またおそろしく自分にとって悦ばしい、そうして健康なことなんだ。三月にはいったばかり、まだこの山の牧場のあちこちには消えきらぬ残りの雪の斑らな時分には、この牧場の朝はすばらしい寒さだ。空気は氷のように冷えて、肺臓に泌みわたるようだし、吐く息は虹(にじ)になるくらい。凍りついた路が、重い鋲靴の下できちきちいう。

 枯れた草や畑や小屋の石屋根(いしやね)のうえには、霜がしろくきらきらと輝いている。荒船続きや、物見の頂きのあたりの雪が光り、金の羊毛のような朝雲のたなびくなかに、とおい黒藍色の山影がうかび、そして牧場から信濃へこえる志賀越えの路傍(みちばた)の、りっぱな落葉松のすらりと立った並木の枯枝は、まっかな朝口を浴びている。

 牛酪製造場の煙突からはすっと柔かに煙りが流れて消えてゆく。石を敷きつめた低い屋根の牛舎の問の幅広い通路にはいると、もう家畜特有の匂いがする。乾草の香がせまる。

 どこかの牧舎のなかで声高に話し合っている、健康そうで、快活な牧夫たちの話し声、遠くで吠えるあの羊飼い犬のなき声などとうちまじって、そば近くの牛舎の白いラック塗りの、窓からは、人なつこい、甘えたような、乳牛たちのもうが聴える。牛舎の間の中庭も、そこいらに散らかった寝藁(ねわら)くずも、水たまりもみな凍っている。みかけは燻んだ百姓家づくりで、屋根に石をのせた牧舎も、その内部はみな、さっぱりとして、明るい感じのする西洋風の白ラツク塗りになっている。そしてほのぐらい、むんむんと鼻をつくような牛舎特有のこんがらかつた匂いのする内部には、栗いろ、白、黒、ぶちなど、すべて小山のようなゼルシイ種の多産なおとなしい獣たちが、でっぱった臀の先にぼんやりあたる薔薇いろの朝日をうけて、立ったり、前足を折ったり、座ったり、反芻したり、涎をながしたり、生温かい呼吸をもうもうと吐いている。

 搾乳係りの牧夫が手馴れた手つきで、淡薔薇いろの大きな乳房からアルミニュームの大きなバケツのなかへ、チュウチュウと白い線をほとばしらせて乳をしぼっている。彼女たちはその間温順な眼つきをしてもぐもぐとただ乾草(ほしぐさ)をたべている。甘ったるい臭気の中を、こんな寒さにも蝿がぶんぶん飛びまわっている。

 ニュームのバケツから、この搾りたてのままを厚手のガラスの大コップヘ一杯になみなみと注いでくれた牛乳の、なんという新鮮さ、なんという芳醇さ、冷えた身体に生あたたかい牛乳のほんとうのうす甘い味をもって、のどをぐいぐいとおる時のうまさ。

 ああ、美しい、きよらかなこの信濃境いの山上牧場の春浅い朝に飲む、この芳醇廿美な一ぱいの牛乳! 私は都会にいては米のとぎ汁みたいな牛乳はのまない。けれどこの牧場へやってくると、いつも毎朝、毎夕搾り立ての牛乳を、二合ばかりはいる大コップに一杯ぐっとのむ。それも朝は、はれやかな散歩や、一日のさまよい歩きに出かける前、夕は終日の山歩きから、ほどよく疲れて帰ってきて、すぐ渇いたのどに夕食まえをのむ。

また晩夏のある暑い口の夕暮れだった。堆肥かつぎを手伝ってかなり疲れ、のども渇いた時に、私はまたそこの牛乳のうまさを知った。こんなことを私はその時に思い出した。それはテオフィーユ・ゴオチェが、彼のRecits et Croquisという山歩きのスケッチのなかで書いたことだ。彼が暑い夏の日に、ピレネエの山中を終日さまよい歩きまわって来た夕暮れに、とある谷間に降りてきてそこの小さな牧場小屋の傍らの氷のように冷たい流れのなかに冷やしてあった乳の一杯を貰ってのんだ時、それが彼の生涯での忘れがたい美味のひとつだということなのである。

私のこの山の牧場をこのんでくるいろいろな理由のひとつは実にこのまあたらしい牛乳の味を忘れかねてである。ただそこへ乳をのみにゆくことだけでも、それはじつに私にとって悦ばしい健康なことだ。
)終り

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荒船と神津牧場付近ーーー大島亮吉

少し余裕が出来たので、前に書いた「星尾峠」、「涸沢の岩小屋のある夜のこと」に続き「荒船と神津牧場付近」を書き写してみました。
 読むだけより、書いてみるとより深く心に残るようなので、自分の為にやっている事ですが、興味ある方は、読んで頂ければ幸いです。先ずは(一)だけですが、続いて書き写していきます。
大正末期の日本の山岳界をリードし、昭和3年3月、29歳で前穂北尾根に散った若き登山家、大島亮吉の作品で、「涸沢の岩小屋のある夜のこと」とともに、古くから岳人に親しく読まれてきた伝説的作品です。
尚、今回から大島亮吉作品をカテゴリー「大島亮吉」にまとめました。

   荒船と神津牧場付近            大島亮吉

 中部日本の低い山あるきのひとつとして

  一

 その上信国境の山上の牧場というのを、初めて私の訪れたのは、全く偶然のことからだった。

たしか大正七年の、まだ三月にはいってからわずかしかたたない早春の日に、ひとりで荒船にのぼるために、私は荒船の上州側にある三ツ瀬という山村の小さな旅宿(やど)を朝早くに出発した。

 
 
冷たい西風のつよく吹いている、よく晴れて、雲ひとつない、表日本の冬から春の初めにかけての特有な天候の日だった。

 
 元来その時、私は越後の関温泉へスキーをやりにゆく途中を、廻りみちしてわざわざ下仁田からその荒船の麓の村へやって来たのだった。荒船という山をわざわざめざして来たのだ。私はそのずっと前に、荒船という山を妙義から見て、ほんとに陸上の朽ちた船のような面白い形の山だと思っていた。そしてそいつに登って、あの平らな、ひろい頂上を歩いて見たかったのであった。そしてその時初めて、まだ雪のふかい荒船の頂上高原に、ようやく急な雪の硬い斜面に鉈で足場を切ってのぼりついた。私は忘れない。その時そこから見た山上展望の印象を。それは実によかった。雪にあおあおと輝いている遠い山脈の波が、西風に洗われてするどい透明色に光っていた。私は登山者の貪欲を眼に輝かして、むさぼるようにこの山頂のぐるりにひらける山上展望に眼をみはったのだった。それ以来ますます私は荒船が好きになって、たびたびその後、この山上の牧場にくるたびに、私はそこへ行く。荒船のことは、別にあとでまた書くとして、とにかくその時、私は長く頂上に休息し、頂上高原の雪原を歩きまわってから、自分ひとりのさみしい足痕をそこにのこして、信州側の方へ星尾峠に路を求めて下りて行った。

 
 そして内山峠の富岡街道に出て、こんどは初谷(しょや)鉱泉の路を行った。ほそぼそとした路の奥の初谷鉱泉は谷あいのごく小さな鉱泉宿で、湯宿もたった一軒しかない。ここへもその後たびたびこの山上の牧場へくるごとに泊まった。そこまで、みちみちはうつくしい、ほのかに芽ぐんでいるような落葉松の林のなかを通っていた。この鉱泉宿を過ぎると、短い草原のなだらかな斜面の両側に続いた、あかるい谷にどこまでもかぼそい山路が続いていた。


 私はその時もこの山上の牧場へ行くために途を求めていたのだった。どうしてこの牧場ゆく気になったかというと、ただ漠然と地図のうえで「神津牧場」と書いてある。山のうえの平らな高原らしいところに興味をひかれていたにすぎない。もっとも私は一体に、あかるい山上の草場のような、あるいは牧場のような、ひろい、異国風な風景がかなり好きである。そんなことからしてこの牧場をまだどんなとこかも知らないとこを、しかも午後も晩くに山をこえて行こうとしていたのだった。早春のあたたかい日ざしを受けた、あかるい谿問をのぼりきると、なだらかな草山のだるみについた。こんどは一層ひろびろとした緩傾斜の笹原を敷きつめたような頂き続きの尾根なりに、牧柵が続いて見えたこへ行って、そこからこんどは向う側を見た。牧場をつまり見わたしたのだ。私がこの山上の牧場を初めて見たのはこの時だった。


 ひろい、山上のゆるやかな傾斜地のやや凹んだなかに、眼の下とおく、小さく、黒ずんで、ひとかたまりに牧場の小さな建物が、所属の畑のまん中に、静かに平和に、つつましやかに見えた。建物のガラス窓はキラリキラリと夕日に光ったりなどした。小さく、黒い人の姿が、その建物のぐるりにうごいていた。とにかく私はぼんやりとその尾根のうえで、笹原にふかく腰を下ろしたまま、この山上の牧場の、エキゾティックな、まったく私の心をとらえてしまった風景にみとれた。

たしかにこの風景はひとつの明るい色彩にとんだ、ゆたかな階調を持つ、非常に美しい、童話風なものである。そしてその時から、私はこの牧場をたびたび訪れるようになったのだ。

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2008年2月18日 (月)

涸沢の岩小屋のある夜のこと  大島亮吉

 昨日の続きです。いよいよ、山での死についての会話になります。

    「涸沢の岩小屋のある夜のこと」  大島亮吉 (昨日の続き)

 自分たちの四人はみな黙っていた。けれどみなこういう気持でいることはよくお互いに知りきっている間柄だけにおのずとわかっていた。
そしておのおののいま黙って考えていることが、ある一部の山を登るものにとっての必ず出っくわす大切なことも知っていた。
自分たちは先刻夕餉を終えた後での雑談の間に、ふとその年の冬、自分たちの仲間とおなじようによく知り合っていたひとりの山友達を山で失っていて、その友達がその前の年の夏に自分たちと一緒にこの岩小屋へやってきて愉しい幾日かをすごして行った時のことが、ちょっと出たのだった。
そして自分たちはそれっきりで言い合したようにその話は避けてしまったのだった。それから黙っているのだった。自分たちは外にでて岩に腰をかけたのだった。そしてその時までも黙っていたのだった。
 
その時まで自分たちお互いは心のなかで、光の焦点のように各々の心の中に現れている、あるひとつの想いについて寂しい路を歩いていたのだった。
ふと涸沢岳のあの脆い岩壁から岩がひとつ墜ちる音がした。カチーン・・・カチーン・・・と岩壁に二、三度打ちあたる音が、夜の沈黙のなかにひびいた。
そしてそれがすんでしまうとまたもとのような言いあらわしようもないほどの静かさだった。
 
その時だった、ひとりが考えにつかれたかのように、自分たちの前にひとつの問を投げだした。――
「おい、いったい山で死ぬっていうことを君たちはどう思ってるい」
 
自分たちはみんな同じような気持ちで同じことを考えていて、誰かが話の緒口(いとぐち)をきるのを待ち遠しく思っていたかのように見えた。
そこへ、この言葉が落ちてきたんだ。勿論それは反響した。
全く先刻(さっき)から自分たちお互いの心はお互いにこの高い山の上の、しかも暗いなかで、自分たちのなかからその大切な仲間をいつ、誰かもわからずに、失わしめようとしているこの山での不幸なゲファーレンというものについて、結局は自分たち自らさえも山で死ぬかも知れぬということについて、新しい信仰をうちたてるようにと言いなやんでいたのだった。

ひとりがそれに対してすぐに答えて言った。――
「それは山へなんか登ろうって奴の当然出っくわす運命さ」
「うん、そうか、それじゃ山へ登ろうって奴はみんなその運命にいつかは出っくわすんだね」
「そうじゃないよ。みんなとはかぎりゃしないさ。運のいいやつはそれにもであわなくってすんじまうよ。それから山へ登る奴だって、そんな運命なんかに全然逢着(あわ)ないように登ってる奴もあるもの」
「じゃその逢着(あう)ような奴っていうのはどんな奴さ」
「まあ、言ってみりゃあ、結局ワンデーみたいな奴さ。
俺はワンデーの兄貴が、あいつがやられた時に富山へ行く時、途中を一緒に行ったが、その時言ってたよ。うちの弟は私によく言ってましたよ、俺はきっといつか山でやられるって、俺はそいつを聞いて感激したね。
もっともその時はいくらか興奮もしていたがね。
そしてその時すぐにマンメリイのあの言葉を思いだしたよ、ほら、なんていったけなあ、よく覚えていないけれど、
It is true the great ridges sometimes demand their sacrifice, but the mountaineer would hardly forgohis worship though he knew himself to be the destined victim とか言ったやつさ。
そうして一晩中寝ないで
Hと話し続けちゃったら、そのあしたへたばったよ。・・・・・だからさ、ワンデーやマンメリイみたいなやつは、まあたとえてみればさ、そういうような運命に出っくわすのさ。実際ふたりとも出っくわしちゃったがね。
けれど山で死ぬやつはみんなこんなやつばかりじゃないだろう。
無鉄砲をやって死ぬのや、出鱈目に行ってやられるやつもいるさ。だけれど、そういうのは
問題にはならないよ。注意し、研究もしてみて、自信があってやってさえ、やられたというのでなくちゃね。
マンメリイは先刻(さっき)の言葉を、
Penalty and denger of mountaineering っていう章のところで、山登りの危険を詳しく論じてから言っているんだぜ、山登りにはかくかくの危険がある。そしてそれはかくかくして避け得られるし、勝ち得られる。けれどなお登山者の不幸は絶対には避け得られない、と言ってその後へ先刻の言葉を持って来ているのさ。
ワンデーだってそうだろう。
「山とスキー」に、「人力の及ぶかぎりの確かさをもって地味に、小心に一歩一歩と固めてゆく時に初めていままで夢にも知らなかった山の一面がじりじりと自分らの胸にこたえてくる」って書いていたじゃないか。
おそらくそうやって行って、それでもやられちゃったんだ。そこまでゆけば、あとは運命さ、なんて言ったって俺は運命だと思うよ。だから、そういうようなやつらにとっちゃあ、山登りは趣味だの、またスポーツだのって思ってはいないかも知れないぜ」
 
答えたひとりは、熱心に疲れることなく言った。
「スポーツ、趣味、勿論そうじゃないだろう。俺だっていま現在、俺の山登りはスポーツだともおもってやしないし、趣味なんかでもないや、なんだかわからないが、そんなものよりもっと自分にピッタリしたもんだ」
新しいひとりが暗いなかで、すぐその前の言葉を受けて強く言い放った。沈黙がしばらく続いた。
すると、「とにかく、人間が死ぬっていうことを考えのうちに入れてやっていることには、少なくともじょうだんごとはあんまりはいっていないからね・・・・・・」と多くを言わずに、あとの言葉をのみこんでしまったように言ったのは、その死んだ友とその時行をともにした自分たちの仲間のひとりだった。
彼こそは自分たちの仲間で最も異常な経験をその時にしたのだ。
だから山での災禍ということについては最も深い信念をば、彼は特に自分たちに比して持っているわけだ。
けれど彼はそれを自分たちに語りはしなかった。
彼のおもい秘めたような心を自分たちへあえて開こうとはしなかった。
けれど彼はただこいうことだけは言った。
「俺はその時以来一層山は自分からはなしがたいものとなってしまった。立山は以前から好きな山だったが、あの時からはなお一層好きになってしまった。」
そしてそれ以上はなんにも言わなかった。話しはまたとぎれてしまった。
各々の想いはまた各々の心のなかをひとりで歩まねばならなかった。

自分自身の心胸にもその時はいろいろのことが想い浮かんだ。
暗い、後ろめたい思想が自分を悩まし、ある大きな圧力が自分の心を一杯にした。
そしてついに山は自分にとってひとつの謎ぶかい吸引力であり、山での死はおそらくその来る時は自分の満足して受けいれられるべき運命のみちびきであると思った。
そしてその時自分のたましいのウンタートーンとして青春の輝かなほほえみと元気のあるレーベンスグラウベとが心にひろがってきた。
死ということをふかく考ええもそれを強く感じてもなお青春の輝かしさはその暗さを蔽うてしまう。
わけて自分たちにとっては、山での死は決して願うべく望ましき結果でなけれ、その来る時は満足して受け入れられるべき悔いのないプレデスティナツィオーンであるからだ。
そしてその時夜はますます自分たちの頭上に澄みわたっていた。
かずかずの星辰は自分たちにある大きな永遠というものを示唆するかのように、強く、燦らかに光っていた。
ひとつの人間のイデーとひとりの人間の存在というようなものがおのずと対照して思われた。
すると、その時だった。ふと夜空に流星がひとつすっと尾をひきながら強く瞬間的にきらめいて、なにかひとつの啓示を与えたかのように流れ消えた。万有の生起壊滅の理。
突然その時ひとりの友の声が沈黙の重みをうちこわして、おおらかに放たれた。彼はそのほのみえる顔に、溢るるような悦びの色をたたえて言ったのだった。

「おい、俺たちはいつかは死んじまうんだろう、だけれど山だってまたいつかはなくなっちまうんじゃないか」

  終り

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2008年2月17日 (日)

涸沢の岩小屋のある夜のこと―大島亮吉

Karasawa 「星尾峠」に続き、「涸沢の岩小屋のある夜のこと」を書き写しました。
読むだけより、書いてみるとより深く心に残るようなので、自分の為にやっている事ですが、興味ある方は、読んで頂ければ幸いです。
大正末期の日本の山岳界をリードし、29歳で前穂北尾根に散った若き登山家、大島亮吉の作品で、古くから岳人に親しく読まれてきた伝説的作品です。

「涸沢の岩小屋のある夜のこと」  大島亮吉

 
 自分たちの仲間では、この涸沢の岩小屋が大好きだった。こんなに高くて気持ちのいい場所はあんまりほかにはないようだ。
大きな上の平らな岩の下を少しばかり掘って、前に岩っかけを積み重ねて囲んだだけの岩穴で、それには少しもわざわざやったという細工の痕がないのがなにより自然で、岩小屋の名前とあっていて気持がいい。

そのぐるりは、まあ日本ではいちばんすごく、そしていい岩山だし、高さも二五〇〇米以上はある。
これほど高くて、自由で、感じのいい泊まり場所はめったにない。人臭くないのがなによりだ。
穴のなかに敷いてある偃松の枯葉の上に横になって岩の庇の間から前穂高の頂きや屏風岩のグラートとカールの大きな雪面とを眺めることができる。
そのかわりいつもしゃがんでいるか、横になっていなければならないほどに内部は低い。

景色といっては、なにしろカールの底だけに、ぐるりの岩山の頂上と、カールの岩壁と、それに前に涸沢の谷の落ちてゆくのが見えるだけで、梓川の谷も見えない。そしてそれにここにはあんまりくるものもいない。実にしずかだ。そこがいいんだ。そこが好きなんだ。
米、味噌、そのほか甘いものとか、飲物の少しも背負い込んで、ここへやってきて四、五日お釜を据えると、全くのびのびして、初めて山のにおいのするとこへ来たような気がする。

 天気のいい時は、朝飯を食ったらすぐにザイルでも肩にひっかけて、まわりの好き勝手な岩壁にかじりつきに行ったり、またはちょっとした名もないようなNebengipfel や岩壁の頭に登ったりして、じみに Gipfelrastを味わってきたり、あるいはシュタインマンを積みに小さなグラートツァッケに登るのも面白い。
そうしてくたびれたら、岩小屋へ下りて来て、その小屋の屋根になっている大きな岩の上でとかげをやる。
とかげっていうのは仲間のひとりが二、三年前にここに来て言いだしてから自分たちの間で通用する専用の術語だ。
それは天候のいい時、このうえの岩のうえで蜥蜴みたいにぺったりとお腹を日にあっためられた岩にくっつけて、眼をつぶり、無念無想でねころんだり、居睡したりする愉しみのことをいうんだ。
その代り天気の悪い時は山鼠だ。穴へはいりこんで天気のよくなるまでは出ない。出られないのだ。
しゃがんでいてもうっかりすると頭をぶっけるくらいに低いところだから、動くのも不自由だ。だから奥の方へ頭を突込んで横になったきりにしている。
標高があるだけに天気の悪い時はずいぶん寒い。雨も岩の庇から降りこんだり、岩をつたわって流れこんだりする。風が岩の隙間から吹き込む。
だがこれほど気分のいいとこはちょっとないようだ。天気でもよし、降ってもいい。自分たちはそこで言いたいことを話したり、思うままに食って、自由に登ってくる。ヒュッテらしい名のつくようなヒュッテも欲しいとかねがね思っているが、それは冬の時や春の時のことだ。
夏にはこんないい自然のヒュッテがどこにでもあるなら、まあ夏だけのものならばそんなに欲しいとは思わない。ここは夏でも少し早く来るとまだ岩穴が雪に埋まっていることもある。

 とにかく自分たちの仲間ではここへ来ていろいろと話したり、登ったりして好き勝手に日をすごしてくることが、夏の上高地へ来てのひとつのたのしみなのだ。ところで、ここにはそのひとつとして、その岩小屋のある年の夏のある夜のある仲間のことを書いてみる。これが自分たちの仲間のある時期のひとつの思い出にでもなればいいと思って。

その時自分たちは四人だった。自分たちはちょうど北穂高の頂きから涸沢のカールの方へ下りてきたのだった。――そして夕暮れだった。歩きにくいカールの底の岩のデブリィのうえを自分たちの歩みは無意識にすすんで行った。

 それは実によく晴れわたった、穏やかな、夏の夕だった。眼のまえの屏風岩のギザギザした鋸歯のようなグラートのうえにはまだ夕雲は輝かに彩られていた。そしてひと音きかぬ静けさが、その下に落ちていた。
おおらかな夕べのこの安息のうちに山々は自分達をとりまいて立っていた。

自分達はこれからこの涸沢のカールの底にある、自分たちにはもう幾晩かのなつかしい憩い眠りのための:場所であった、あの岩小屋へと下りてゆくところだった。自分たちの右手の高きには前穂高の嶺(いただき)がなおさっきの夕焼けの余燼でかがやいて、その濃い暗紫色の陰影は千人岩の頭のうえまでものびていた。
そしてはるかの谷にはすでに陰暗な夜の物陰が静かにはいずっていた。
自分たちはそのころようやく岩小屋に帰りついたのだった。
そして偃松の生枝を燃やしては、ささやかな夕餉を終えた時分には、すでに夜は蒼然と自分のまわりをとりかこんできていた。
それはまたすばらしくいい夜だった。すてきに星の多い晩だった。高いこの山上をおし包むように大きな沈黙がすべて抱きこんでいた。

 火のそばをすてて、自分たちは岩小屋のなかから外にでた。
そしてその前にあった岩にみんなおのずと腰をおろした。冷やかな山上の夜は自分たちのうえに大きくかかっていた。
晴れきった漆黒の夜空のなかで、星が鱗屑(うろくず)のようにいろいろの色や光りをしてきらめいていた。
四人とも黙って岩に腰をかけたまま、じっと何かについて思いん込んでいたりパイプばかりくわえて黙っていた。けれどもそれはこのような夜の周囲にはほんとにしっくりと合った気分だった。
山は雨や風の夜のように底鳴りしたりしないので凄みはなく、圧迫的でもないけれど、あんまりおだやかで静かなので、そこにひとつの重味のある沈黙というものを示していた。
「山は時としてはその傍観者に自らのムードを圧しつけることがあると同時に、また傍観者はしばしば山が彼自らの気分と調和してくれるのを経験することがある」とマンメリイだかが言っていたが、その時の自分たちの気持はたしかに後者のようなものがあった。
自分たちのうしろにも横の方にも、闇のなかに真黒に岩壁や頂きがぬっと大きな姿で突っ立っているけれど、自分たちにはこの時はちっとも恐ろしくも見えなければ、もの凄くも思われなく、むしろこのぐるりを半分以上もとりまいている山を、親切な大きな風よけぐらいにしか、親しく思えてならなかった。
そうしてその真ん中の小さな岩小屋は自分たちのような山の赤ん坊の寝る揺籃みたいに思えてしようがなかった。
言い方がおかしいかも知れないが、それほどいやに山が親しみぶかく見えたんだ。だけれどただひとつこのあまりの静かさが自分たちに歌わせたり、笑い話させたりしないのだ。
たしかにこの時の山のムードと自分たちの気持とはハーモニィしていた。
  書きかけ――明日に続く

 

 

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2008年2月12日 (火)

星尾峠―大島亮吉

 3連休は、DVDで「東京タワー」「キトキト」を見たり、古い本を読んで過ごしました。そのなかで大島亮吉著「山―随想―」を読み返して、書かれている「星尾峠」が心に響いたので、書き写してみたくなりました。
大正末期の日本の山岳界をリードし、29歳で早春の前穂北尾根に散った若き登山家の、心に残る文章です。同じく「涸沢の岩小屋のある夜のこと」は、後日、掲載します。
「山―随想―」は、著作権は切れていますが、青空文庫では、「作業中」で、まだ公開されておりません。

星尾峠 大島亮吉

 それは荒船の頂上高原の南端近くのところを越えて、上州の山里から信濃の山合いの小村へと通っているひとつの小さな峠だった。
そして私のひとり腰を下していたというそこは、その峠の頂き近くの小径のうえだった。九月にはいっての間もないその日、それは初秋らしい情感がほのかに漂っているような日だった。

私はちょうど自らがのぼって来た上州の側に向って腰を下していたのだった。
高くもない峠ながら、私の眼のまえには、私のここ一週間以上も前から歩き越え、歩き越えしてきた山々の幾重もの尾根なりも、その間の幾つもの峠となっているだるみも、あるいは奥秩父のまっ黒い高嶺続きの山影さえも、そしてまた次第に低夷してゆく山波の間からは広い、広い関東の平野のその鮮緑色の表面さえもが望まれた。

 私はただ峠をこえ、峠をこえして歩いてきた甲斐、秩父、上州の各々の山よりの、山合いの、山なかの村々において、われ知らずのうちにそれらの主として農民階級の労働生産者の生活の点景を見るような多くの機会を持つことができた。
私は小作農の地主に対する真の不平をきいた。
炭焼きからはその生活の苦しさをきかされた。
乞い泊めて貰ったある山村の農家の主人には繭の相場の安いこと、農作物の廉価なことを説いて、その生活の惨苦を示された。
あるところでは、そんな山のなかにはめずらしい人生の廃頽を見た。そしてまたあるところでは平和さを通りこしての人生の沈滞を見た。

あの狭い甲斐の盆地にもすでに地主と小作人との問題があり、貧に泣く農民があり、はては豊作だという葡萄の棚で首をくくったという果樹園づくりの子百姓があったのだ。
そして私は塩山のほとり、小作人の騒ぎ立つという村を通り過ぎた。終日早くから木を伐り、割裂いて、それを炭に焼き、夕には二里の山道をその一日の汗に疲れた身体で、毎日二俵ずつ重い俵を背負って帰るような、激しい労働をたえずしてさえなお貧に追われるという炭焼きの生活が、甲州の山村にあつたのだ。山林もあり、桑畑や田地も持ったそのうえ、なお副業としての養蚕に繁忙暇のない家業をいとなんでさえ生活に窮迫している中流農家が、上州の山より村にあつたのだ。

 郭公がほんとうに森の隠者のように奥深く啼いている山道の静かさを辿っていても、芝草山にうねうねとしたなだらかな峠道をのぼっていても、沢蟹に私の足音にがさがさと石のなかを這いにげるような、小さな、細い沢づたいの荒れ路を徒渡りしつつ歩いていても、また足あたりの硬い街道を草履のあとから舞いあがるその埃と一緒に歩いていても、私にはこれらの私のぐるりをとりまく人生の諸相と社会の諸相とをうちみて以来、それらの社会のすがたについて、それらの人生のすがたに対して、そして更にふかく自らの人生についての想いが、きれぎれはするが絶えず私の心頭に浮かび消えした。
ああ、私にはもうあのただ単純な自然観照のみをこととして、年若く、他にはなにも想うことなく旅のたのしさ、つらさをたのしんで歩いた古る年まえのそのような旅心は消え去ったのだろうか?「
さらば旅人よ、歩み去りし過ぎし日のわが美わしの旅人よ」と、私は今更感傷がましい詩人めいた言葉を弄して、私の過ぎた日のあの自らの旅姿をなつかしむべきだろうか? 
馬鹿な!おまえはただそのような安価な自然耽美、微温な自然礼讃の感動の幼稚で希薄な、無内容な「寂寥の享楽」に堕した旅心をもって真実の旅人の心とするのか?

勿論それも純性には富んでいるが、それはチョコレート菓子のように甘い。
あまりに自己逸楽的である。
まことの旅の心とはもっと複雑なものの総和なのだ。
旅の心にはもっと思想的背景があっていい。
もっと社会性があっていい。
ひとりの旅であればあるほど、寂しければ寂しいほど、旅人は他の多くの旅人のことを思い、通りゆく路傍の人生に眼を見張り、耳をかたむけ、想いをはせるのだ。所詮は大きなすべての人々を入れての人生を対象している。
かのヘークのあのさまよい歩きの旅の心には、その道づれへの思いと、より大なる人生への永遠の途をもって終始していたではないか。
芭蕉があの俳行脚の生涯はただ自然の寂びそのものであったというが、その超脱的な境地に達するまでいかに彼自身の人生とそれをとりまく人生について思ったことか。
単なる自然観照よりして彼は天然の寂びに親しむべく進んだのではなくして、人生への凝視から人生を寂滅相と観ずることからしてそれは出でたのだった。
それ故にこそ彼は最も広い民家の道づれであったのだ。
生への背負いきれぬ想いを背負って旅立つ時こそ、旅は旅としての本来の旅姿をとりかえすのだ。私はこう自らに言ってみた。
私はここへ来て初めてひとりの旅人となったような気がした。

径のきわに生い茂った若いすすきの穂波が、初秋のさわやかな風にざわめいて、くる秋の歌をうたっているようだった。
午後(ひるさがり)の光はさっと雲間から望める山々の起伏、平野のうえに流れた。
山襞は濃淡を見せた。
そして平野は輝いた。夕立の通りすぎたあとの、はるかに見えるそのうち濡れた平野の海のような田野の輝き。ああ、その群馬と埼玉の平野、そこは私の見て来たよりもまだもっとはげしい、地主が小作人を強搾し、小作人はまた組合をつくってそれに相争うという、ひとつの時代の病弊が巣喰っている平野なのだ。
私はそのいずれが是であり、いずれが非であるかを知らぬ。けれどもそれらはそのようなる単なる階級闘争のごときもので解決はできないと思う。
その病弊の根源はもっとより深く人心の奥に内在するものであろう。

 私の心はいろいろの想いに胸をよぎらしめられた。
しかし、私はその平野のすべての人々に、すべての村々に、そしてこの地上のすべての人々のうえに、大いなる共有のもとの正しい、本然な地上の生活の春が訪れきたるであろう未来の日を、いま情熱をこめて一日も早からんことをのぞんでいる。そのために苦しまねばならないのは、小作人のみではない。地主のみではない。労働者のみではない。資本家のみではない。すべての人々がともに苦しまねばならないのだ。
自分もまさにそのために苦しみ、努むべきだ。

 木を伐るほがらかなもの音が、どこからかすぐ近くよりきこえて、遠い方にほろほろと山彦(こだま)して融け消えて行った。
私は立ち上って峠を信州側へと下りるべく歩きだした。
落葉松の林のなかの、あの踏む草鞋にぶくぶくという弾力を感じさせるような歩きよい山道-それは信州へ来てから初めてあるものだ-や、湯宿のひとが、てずから薪を割って沸かすという、あの渓合いの小さ鉱泉宿のことなど、私はこの峠道に続く曽遊の道すじをたのしそうに思い浮かべてはみるが、しかし私の心はそこより近くの、私がたびたび訪れているあの上州の国境(くにざかい)になっている、なだらかな山腹の広い傾斜地にある牧場へととびたがっていた。
そこの、いまはかぐわしい香いのするであろう、あの牧草の丘の頂きに弧座して、牝牛ののどかな鳴き声をききながら、私はもっと現実をはなれて私の胸に平静をうたうよにしてみたい。
あのいつもそのなかに仔牛らがおとなしく乳を飲みつつ遊んでいる牧柵によりかかって、すべてを忘れてまるで余念なく自分の生活理想のことを思ってみたい。
また、あのシャレエづくりに似通った牧場小屋の、その向こうには深いヴァレエや丘や水流がまるで素画風にのぞめる窓縁(まどべり)に腰をかけつつ、携えてきたエミール・ジャヴェルも読んでみたい。
あるいはまた、牧場の背面にある落葉松の疎林の間や玉蜀黍畑のほとりを、ひとりでたのしく口笛を吹いてあの夕暮れの散策がしてみたい。
けれど、私の心のなかには、それらの平和な願望をかきみだすかのようにして叫びでる、強い時代人の意識があった。
そんな安逸的な自己陶酔におちいっていることができないぞ、と叱りつけるようなあの焦燥な想いがあった。
もっとつとめて、ひらくことを努力せねばならぬ大きな自分自身のものがあると思われた。
自ずと私にはかのウイリアム・トムソンのあの当時の社会における一部階級の苦難を目撃し、社会の不正に想到するごとに、体質蒲柳情操多感の彼が傷心制する能わず、ついにその病弱な全生涯を駆って社会の正義と人類の福祉の「最大多量」を確保すべき理想社会の案出に没頭せるその生活のことなどが髣髴として思い出された。
読みさして旅に出てきたが、はやく帰ってまたトムソンのあの
Distribution of Wealthを読もうか。

 そのように私は心をいろいろの想いにうつし、路上にひらける風景にうつしては峠を下って内山峠の街道へと出で、更に街道を信濃へと少し戻って、初谷鉱泉の渓すじへとはいった。

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