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2018年7月29日 (日)

縄文特別展へ----火焔型土器と土偶のこと

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(写真上、縄文展で購入した大判絵葉書。6件の縄文国宝が揃い踏み)

 9年前の夏の日、僕は炎天下の道を長岡市立科学博物館へと、汗を拭き拭き歩いていました。夜の長岡の花火を見る前の時間を利用して、ぜひ「火焔土器」を見たいと思ったのです。
長岡駅から徒歩20分強、やっとたどり着いた建物は、科学博物館とはいっても、役所の支所のような建物の中にあるちょっと寂しい博物館でした。
志木市の郷土博物館を少し規模を大きくした程度です。
入場は無料でしたが、冷房もない館内には子どもが2人ほど展示を見ていただけで、ガランとしていました。
お目当ての「火焔土器」が初めて出土したのは新潟県長岡市の馬高遺跡です。
1936年に近藤篤三郎さんらの調査で出土した物で、考古学的にはこの出土第1号の土器のみを「火焔土器(火焔A式1号深鉢土器)」と称し、他のものや他遺跡出土のものは「火焔型土器」あるいは「火焔形式」など呼ばれ区別されているそうです。もちろん異論はあります。
火焔型土器としては、他の遺跡で見つかった素晴らしい物も多く、新潟県の十日町市の笹山遺跡の火焔型土器は国宝に指定されている物もあります。
しかし、なんといっても、発見第1号は見ておきたい。国宝とまではいかなくとも、国指定重要文化財です。
そして、僕が見たものは、ガラスケースの中に置かれた1枚のカード。
ああ無情。「火焔土器は貸出し中」
中越沖地震の時は、遠くドイツに貸出し中で、破損の被害を免れたそうですが、今度も貸出し中とは。
この後、長岡を再び訪ねる機会は無かったので、火焔土器を見ることはかないませんでした。
〇そして、今開かれている東京国立博物館の史上初!!縄文の国宝、6件すべてが集結!!「縄文特別展」一万年の美の鼓動。
http://jomon-kodo.jp/

笹山遺跡出土の国宝「火焔型土器」も出展されるようで、それならもしや、長岡のあの火焔土器1号も?。
まあ、火焔土器はおくとしても、縄文国宝6件と言えば、火焔土器を除くと他はすべて土偶ではないか!これは見に行かねば!。
 そして7月27日(金)午後、上野に行ってきました。
大々的に宣伝されている縄文特別展です。混むかなと思っていましたが、入場の行列はありませんでした。
 この日を選んだのにはわけがあります。国宝土偶5点のうち、茅野市の尖石縄文考古館所蔵の二点「縄文のビーナス」「仮面の女神」は、出展が遅れて、7月31日から展示されるのです。この日より前に行けば、少しは空いているのではと思ったのでした。
「縄文のビーナス」と「仮面の女神」は長野県の尖石縄文考古館を訪ねて、二度ほど見たことがあり、僕の机にはレプリカも置かれています。
この二点は見なくても良しとしよう。でも他の三点の土偶は、八戸、函館、山形の博物館所蔵であり、今まで見る機会は無かったのです。
縄文展は、平成館の2会場に分かれて、6つの章に分かれて展示され、200点以上の陳列品は、どれも見ごたえのある素晴らしいものでした。
そして、国宝4点は、朱色の壁に包まれた、いかにも特別陳列と言った豪華な雰囲気の部屋に置かれていました。
 入口近くの最初の展示は、「火焔型土器」、篠山遺跡出土の国宝指定の土器のなかで、この土器は群を抜いた有名品です。
よく間違えられているようですが、この土器だけが国宝と言うわけではなく、他に陳列されている個体指定の土偶とは異なり、「新潟県笹山遺跡出土深鉢形土器」として、928点の出土品で構成されている国宝の一つなのです。十日町市博物館のホームページには、次のように紹介されています。

「中でもこの国宝指定番号1の「火焔型土器」は「縄文雪炎-じょうもんゆきほむら-」、「火焔型土器No.1」、「ナンバーワン」などの愛称で親しまれ、新潟県笹山遺跡出土深鉢形土器57点に含まれる火焔型土器14点のなかでも、とりわけ異彩を放つ逸品です」

Dsc04205_1024そして、火焔型土器の奥には、国宝土偶3点、「合掌土偶」「中空土偶」「縄文の女神」がガラス張りの展示ケースの中で存在感を放っていました。
3点が一緒に見られる機会が来るとは、思ってもいませんでした。
それを実現してくれた縄文特別展、ありがとう。
一つ一つの土偶についての思いはあるのですが、それはまた別の機会にします。
今回、200点以上の土偶と土器、装飾品が展示されていましたが、残念ながら、あの長岡の「火炎土器1号」は展示品の中には有りませんでした。
発掘された土器などを生活用具として捉え、その変遷だけをたどる事をせず、展示会の目的が、1万3000年にわたる縄文時代の生活の中から、様々な道具を作りだした人々の技や思いに迫り、そこにある力強さと神秘的な魅力から、テーマを美に求めたからです。
それは「第1章 暮らしの美」「第2章 美のうねり」「第3章 美の競演」「第4章 縄文美の最たるもの」「第5章 祈りの美、祈りの形」「第6章 新たにつむがれる美」と名付けられたテーマ別展示に良くあらわされています。
縄文時代の造形の美しさに触れてみたい方には必見の、すばらしい縄文特別展になっていると思いました。特に展示品の中で、土偶の占める割合が多く、土偶を見るだけでも価値があるとも思いました。

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(写真下、館内は撮影不許可でしたが、出口横に撮影コーナーが設けられ、そこに見事な土器が並べられており、この前で記念写真を撮られている方もおられました)


 

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2018年7月24日 (火)

熊谷市が日本一暑い街、奪還

埼玉県が高温国内最高記録を奪回!と言っても喜ぶことではありませんが。
 昨日、7月23日(月)に41.1度を記録した熊谷市は、我が志木市から約40kmしか離れていません。
常に猛暑ランキングで上位を占める高温観測の常連都市です。
 1933年(昭和8年)7月25日に観測された山形市の国内最高気温40.8度は、その後長く更新されませんでした。
この教科書も書き直す必要が無かった記録を、74年ぶりに上回ったのが、2007年8月16日の熊谷市の40.9度だったのです。
しかしこの記録は6年後の2013年8月12日に高知県江川崎で41.0度が観測され、国内最高気温はあっさり更新されてしまいました。
ちなみに、国内最低気温は、こちらも教科書で習う北海道の旭川で1902年(明治35年)1月25日の-41.0度。奇しくもどちらも覚えやすい41度だったのです。その気温差82度、凄い!
この最低気温観測の日、あの有名な八甲田山雪中行軍遭難事故が起きてしまったことは良く知られています。
そして高温記録は、昨日の2018年7月23日、午後2時16分、熊谷市が41.1度と、またしても国内最高気温観測都市に返り咲いたというわけです。日本一暑い街奪還!
この記録、僕は当分破られないと思うのですが。岐阜県の皆さん、如何!
ところで、同じ日の午後、我家の外部温度計は38.5度を指していました。
 日中の気温が高いのはともかく、今回の猛暑は夜になっても少しも気温が下がらないのです。室内温度は、夜になってかえって高くなったりします。寝苦しいことこの上なしの毎日です。

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2018年7月20日 (金)

美しい三浦半島の海を見て

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(写真上、三浦半島の荒崎海岸、この日は波が高く釣りはできなかった)

Dsc04061_1024暑い日が続きます。我家は集合住宅ですが、周囲に広場や樹木も多く、昼間は他よりは少し外気温が低いかもしれません。
しかし、夜になっても、暑さは続き、室温は30度から一向に下がりません。
何もかもが熱をたっぷり蓄えてしまっています。コンクリート壁、屋上床も温めれらて、断熱材も保温材になってしまったようです。
干からびたミミズが街区の道路に何匹も転がっています。
人と会うと、「オリンピックどうなるのかな?」が挨拶のように交わされます。
どうにもならないだろうと思います。暑さと台風、最初から分かっていたことです。
招致には反対しましたが、4年に一度のオリンピックです。どうせ開催するなら、選手や外国からのお客さんに日本の美しい季節を見てもらえる時期、やはり秋が良かったと、この酷暑のなか改めて思います。

少し前になりますが、アウトドアー遊び仲間と7月初めに三浦半島に行ってきました。
諸磯漁港の民宿に泊まり、岸壁でのんびり釣りを楽しみました。
友人に教えてもらって、6月に石Dsc04067_1024川県の氷見港で初めて体験した太鼓リールを使った落とし込み釣りに、二度目の挑戦をしましたが、残念ながら、フグ以外あまり釣れませんでした。
それでも、宿の魚料理は美味しかったし、朝晩の風の爽やかさは、都会では経験できない実に気持ちの良いものでした。
泊まった民宿出口荘では、得難い体験をしました。
部屋の布団に寝そべると、窓いっぱいに広がる星空が見えるのです。
夜半ふと目覚めると満月に近い月が、その位置を変えていくのがわかりました。
山で降るような星空を見る事は珍しくはありませんが、テントに入ってしまえば星空は見えないのです。一晩中星空を見られる場所に寝たのは、多分初めての事だと思います。

Dsc04068_1024翌日は荒崎海岸に移動しました。30年以上前に、神奈川県の大船に住んでいました。北鎌倉駅もに近い場所だったので、休日には子供たちを連れて、鎌倉や葉山、逗子などによく出かけました。
鶴が丘八幡宮の横に、無料の大きな駐車場があった良き時代です。小坪漁港の朝市にも魚の買い出しに良く通いました。釣銭の客を歓迎しない、ちょっとこわいおばさんのことも、懐かしく思い出します。
 久しぶりに訪ねた荒崎海岸は、当時よりずいぶん整備されたと感じましたが、岩礁と白波の立つ海をみて、こんなに景色の良いとDsc04066_1024ころだったんだと改めて感激しました。都心から車で2時間弱でこの風景に出会えるなんて、三浦半島を再認識しました。

 美しい海の風景写真を見ながら、西日本豪雨被害を考えます。
地震、津波、台風、河川の氾濫、火山爆発、山崩れなどの自然災害の国、日本に「災害救助隊」の創設の必要性を痛感します。急務なのです。
現在の自衛隊の任務には災害救助は含まれていないのです。
災害省(仮称、ただし防災省はいけません)を作り、主として自衛隊員から、他にも警察、消防などにも協力してもらい、1万人〜2万人規模の救助隊員を募ります。自主志願です。
災害救助に専念したいと思う自衛隊員は少なからずいると思います。
取りあえず、予算は防衛省予算の2割ほどに考えます。福島県で国土の一部を失ったり、豪雨被害で数百名規模の死者が発生するなど、災害対処の任務は、自衛隊の掲げる国土防衛とも通じます。
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当初の災害救助用機材については、まず17機のオスプレイ購入予定予算から、災害対処用途として、7機分の予算を貰い受け、機材購入費に充てます。
自衛隊にオスプレイが本当に必要かの検討も充分なされないまま、先ず購入ありきなので、災害救援に役立つという導入理由をそっくり頂いてしまいます。
頂くその7機分の総額たるや、災害救助車両として活躍が期待されながら、高額なので消防予算では導入が進まないレッドサマランダー(写真左)が700台も買えてしまうのです。もちろん、そんなには必要がないので、その他の最新装備購入に充てることになりますが.

災害住宅用トレーラーハウスや病院船も作りたい。海外救助隊などを含めた国民に支持される災害救助隊組織については、以前からいろいろと考えているのですが、今日のところはこのへんで。

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2018年7月 8日 (日)

7月15日(日)さよなら原発志木に集まろう

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 6月16日に、志木市母親大会が開かれました。プログラムの中に市内で活動するグループを紹介する時間があり、私たち「さよなら原発志木」も与えられた3分間で、次のような紹介と活動報告を行いました。

 「さよなら原発志木」は志木市内で脱原発の活動をしていたり、その思いを持った人たちが一緒にやろう!と出来たグループです。
 今年で活動開始から4年目に入りましたが、脱原発の集会とデモ行進を隔月の第三日曜日に行っており、5月20日の集会で22回を数えるまでになりました。
 場所は柳瀬川駅西口で午後2時から集会を開いた後、志木駅南口まで歩いています。
 原発推進と再稼働に反対する理由を挙げれ切がありませんが、私たちは、ひとたび事故が起きれば広大な地域が放射能汚染地域となり、多くの国民の命と暮らしが簡単に壊される危険な発電システムとして、原発稼働に反対し集会とデモを続けています。
 いまだに東京電力福島第一発電所の事故原因が明らかにされていないなかで、福島では5万5千人にものぼる被災者が故郷に帰ることが出来ない現実があります。
事故を起こした原発廃炉に向けて、毎日6000人もの従業員が、線量計だけではなく、緊急一斉避難用に持たされた専用スマホを持って作業に従事しています。
一般企業で、何の生産性もない工場が、毎日6000人もの従業員を抱えたうえ、莫大な経費(一日約3億円)をかけて稼働されている、そんな企業が普通に存在することはあり得ません。
 東京電力では、私たちの電気料金と税金でこれを賄かなっているのです。
 福島第一原発では、15.7mの津波が予測されたにも関わらず、対策を怠って事故にいたりました。あまり報道されませんが、宮城県の女川原発でも、まさに危機一髪、事故にならなかったのは、幸運以外の何物でもなかったと検証されています。
ヨーロッパ諸国では、脱原発、再生可能エネルギー利用に向かっているというのに、地震、火山国の日本では、南海トラフ地震も想定されるなか、原発をこれからの重要なベースロード電源として、稼働推進の姿勢を変えない安倍政権なのです。
 一方、昨年の12月に地元埼玉県議会が、全国の都道府県議会では例がない「原発の再稼働を強く求める意見書」を、我が志木市選出の鈴木正人議員を初めとした日本会議系議員11人が提案し、自民党、県民会議などの賛成多数で可決しました。。
 こんな状況を黙ってみているわけにはいきません。私たちは抵抗します。さよなら原発の声を上げ続けて行きます。
東武東上線沿線でも、川越、新座、朝霞、東松山などで、同じさよなら原発のグループが活動しています。
7月15日の日曜日には、23回目となる行動を予定しております。是非、多数の人達が参加してくださるよう、
どうぞよろしくお願いいたします。ありがとうございました。

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2018年7月 6日 (金)

二冊の本「自作の小屋で暮らそう」と「山小舎を造ろうよ」

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高村友也さんの「自作の小屋で暮らそう」(Bライフの愉しみ)を読みました。単行本が出版されたのは6年程前の事ですが、しばらく絶版状態で、昨年12月文庫版が発刊されました。
柳瀬川書店をいつものように覗いていたら、帯に書かれた「働かず、縛られず、好きなだけ寝る極意!」に、単行本版は読んでいなかったので「おっ、どんな極意?」と思わず買ってしまいました。
著者の高村さんは、時間に囚われない自由な暮らしを求めて、10万円で小さな小屋を作る過程を詳細に綴り、そこに自らBライフと名付けた暮らしぶりを織り込んでいます。
Bライフについては、書くと長くなるので省略しますが、高村さんの東大哲学科から慶大大学院哲学科の経歴から、何か人生哲学なるものが語られていることを期待すると、ちょっと違うかもしれません。
人それぞれかもしれないが、こんな生き方もあるのだと教えてくれる本です。でも僕は、極小空間の小屋作りの過程における、徹底したローコストの追求ぶりには共感できますが、次元の違う、高村さんのBライフ生活はとても無理だと思いました。
でも、指南書の多いログハウス造りとは次元の異なる手作り感には、驚かされることが多い本でした。

この本を読んで、思い出したのは30年以上前の1987年、西丸震哉さんの書かれた「山小舎を造ろうョ」(少し人生を考え直したい人に)でした。
 この西丸さんの本は、高村さんの語る、働かず、縛られず、好きなだけ寝るBライフなる生活を実現すべく、人生ののすべてを含めた生活の場所として、その拠点を作る実体験とは、違った発想の本です
どちらかと言えば、アウトドアー的な試みで、人生を豊かにする拠点を作ろうと説くのです。
まず野宿、登山で言えばビバークから始まり、小屋掛け、テント、竪穴住居などの考えを経て、半畳からの山小舎作りの発想に到ります。このあたり実に面白く読めます。
そして、0.75畳、1畳、2畳とだんだん大きくなり8畳夫婦用から、12畳にまで広がります。それぞ間取りのイラストも描かれていて、これなら自分も出来るのではと夢が広がります。
地形的、気象学的ノウハウも語られます。原則的には山小舎は生計の場にはなる性質のものではないし、そうしたくともできるものではない。
しかし、山小舎を持つという夢を持ち束縛からの解放を求めようと語ります。これには大いに共感できました。
昔、谷川岳南面の沢と岩場を登っていた時期があります。タクシー代など持たなかったので水上駅から夜道を谷川温泉まで歩きました。そしてさらに沢沿いの登山道を進み、夜半、二股付近でビバークして翌朝の登攀に備えました。もし、この付近に小さな掘立小屋でもよいから、それが持てたらと良いなと友と語ったものでした。
八ヶ岳山麓の甲斐大泉の土地が坪千円と言われた時には、本当に欲しいと思いました。
すべては夢と終わりましたが、改めて二冊の本を読んで、高村さんの必要最低限の生活から得られるもの、西丸さんの、空想の世界で山小舎を思い描くのは楽しいとの言葉に、大いに刺激される僕なのです。

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