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2018年6月25日 (月)

「隠れ部屋」潜伏キリシタン

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東京新聞6月13日朝刊より(クリックすると拡大します)

潜伏キリシタンが、密かに祈りをささげた場所である「隠れ部屋」が公表されました。場所は熊本県天草市天草町大江の民家の屋根裏で、専門家は「国内に存在するものはおそらくここだけ」と語っています。(写真下、天草ロザリオ館の隠し部屋ジオラマ)
ただし、残念ながら今話題となっている世界文化遺産に登録される見通しの「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」には、地域的に含まれないようです。
公開された隠し部屋が、貴重な歴史遺産であることは間違いないと思うのですが、国内で唯一という説には僕はやや懐疑的です。納屋状の状態で残されている小部屋は、他にも存在してもおかしくないのではないかと思ってはいます。
Photoところで、世界文化遺産の登録名の潜伏キリシタンとは、あまり聞きなれないと思うのは僕だけではないと思います。
今までは「隠れキリシタン」、これが一般的に使われてきたように思います。
それでは、潜伏キリシタンと隠れキリシタンとの違いはなんだろう。このあたりをまったく理解していなかったので、勉強の為ネットで調べてみると、あるある、実に詳しく書かれています。
その中で、
ウイキペディアは、詳細も書いているのですが、最初に概要としてもっとも簡略にまとめていて、これがわかり易いと思いました。
〇隠れキリシタン(かくれキリシタン)は、日本の江戸時代に江戸幕府が禁教令を布告してキリスト教を弾圧した後も、密かに信仰を続けた信者である。以下の2つに分けられるが、一般に両者を区別せずに呼ぶ。

1.強制改宗により仏教を信仰していると見せかけ、キリスト教(カトリック)を偽装棄教した信者。
2.1873年(明治6年)に禁教令が解かれ潜伏する必要がなくなっても、江戸時代の秘教形態を守り、カトリック教会に戻らない信者。
敢えて両者を区別する場合、1は「潜伏キリシタン」、2は「カクレキリシタン」(すべて片仮名で表記)と呼ぶ。


その他、少し参照してみます。
なお、国指定の無形民俗文化財(風俗習慣・祭礼[信仰])としては「かくれキリシタン」と表記されるとのことです。

①「山川日本史小辞典」(山川出版社)の「潜伏キリシタン」の項目では、以下のように説明しています。
“江戸時代、キリシタン禁制に対して、表面的には仏教徒を装いつつ、密かにキリシタンを信仰し続けた人々。(中略)潜伏キリシタンの中には、キリシタン禁制の高札撤去(1873)以降も教会に復帰しない人々がいるが、江戸時代の潜伏キリシタンと区別する意味で彼らを隠れキリシタンとよぶ。
(「山川日本史小辞典」(山川出版社)の「潜伏キリシタン」より)

②長崎市国内観光客誘致推進実行委員会では、「潜伏キリシタン」について以下のように説明している。
“江戸時代の初期、外海、浦上、天草などの信徒たちは幕府の摘発を逃れるために表社会では仏教徒として生活し、内面的にキリスト教を信仰する潜伏キリシタンとなりました。天照大御神や観音像をマリアに見立てたり、その地域の言葉で祈りを捧げたり、それぞれに独自の信仰の形を形作っていったのです。
江戸時代後期には外海地方にいた潜伏キリシタンたちが五島列島に移住し新しく潜伏キリシタンの集落を作っていきました。明治になって禁教令が撤廃された後も、このような潜伏時代の信仰形態を継承した人々を、かくれキリシタンと呼んでいます。
(教会群とキリスト教関連遺産|長崎修学旅行の魅力|長崎市修学旅行ナビより)


東京新聞の潜伏キリシタンの「隠れ部屋」の記事から、いろいろと勉強することが出来ましたが、さて、この隠れキリシタン、中学校の教科書では、どんなふうに書かれているかと2社の歴史教科書を見て、なんと驚きました。
東京書院の新しい社会「歴史」も、育鵬社の新しい日本の「歴史」にも、「キリスト教」「キリスト教徒」「キリシタン」「キリシタン大名」の索引項目はあっても隠れキリシタンについては、まったく一行も記述が無いのです
東京新聞6月17日のニースおさらいの記事で、潜伏キリシタンに詳しい南山大准教授、ムンシ・ロジェ・ヴァンジラさんは、次のように語っています。
「キリスト教が禁じられた地域は世界中にありますが、日本ほ独自の発展を遂げたところは無い」「キリスト教と仏教、土地の風土などがまざったユニークな文化は貴重です」
世界遺産に登録される見込みですし、今後、この貴重な文化遺産を子供たちにも知ってもらえるよう教科書にも記述されると良いですね。

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2018年6月22日 (金)

一橋大学兼松講堂と北國銀行武蔵ヶ辻支店

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(写真上、一橋大学兼松講堂--- 設計伊藤忠太

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(写真上2枚目と下、金沢市北國銀行武蔵ヶ辻支店---設計 村野藤吾)
Dsc03968_1024最近、二つの建物を見ました。
一つは石川、富山に旅行した際、金沢市内で見たのが北國銀行武蔵ヶ辻支店(旧加納合同銀行本店)です。
観光客で賑わう近江町市場の入口近くの武蔵ヶ辻交差点の角にあります。遠目にも縦長の尖塔アーチを三つ並べたファサードが印象的で、存在感があり目立つ建物です。
昨年の白山登山の際には、バスの中からしか見られなかったのですが、今回は近江町市場に行きがてら、内部までゆっくり見ることが出来ました。
建築家村野藤吾(1891~1984)の現存する建物が少ない初期の作品として1932年(昭和7年)竣工の貴重な建物です。
当初建っていた場所から、再開発に際して曳家で移動したそうですが、古い建物が壊されることが多い中、北國銀行は、良くこの建物を残してくれました。

もう一つは、一橋大学兼松講堂です。
一橋大学の小平祭でキャンパスツアーの企画があり、これに参加して大学構内の建物群をみることができました。
僕は都内の大学キャンパスは、ほとんど訪ねたことがありますが、国立にある一橋大学の構内に入るのは初めてでした。
ガイドできるよう事前に調べたという一年生二人の案内で巡りました。
どの校舎も趣がある落ち着いた建物でしたが、目玉はやはり兼松講堂です。
一橋大学の前身である東京商科大学の講堂として、建築家伊藤忠太(1867~1954)の設計で1927年に竣工した、ロマネスク様式の建物です。1927年は村野藤吾の加納合同銀行の竣工の5年前になります。
2000年(平成12年)に国登録有形文化財として登録されたことや、ポストモダンで再評価された異形の建築家、伊藤忠太の設計であることから、大学で一番有名な建物となったようです。
2003年4月から2004年3月にかけて卒業生等の募金により大改修が行われ、内外装、耐震、空調などの諸機能をが一新されて現在の姿になりました。
兼松講堂以外にも、本館、図書館、東本館などは、全て伊東忠太の設計なのです。
伊東忠太は村野藤吾の東京帝国大学建築科時代の師であり、村野は後にこんな話をされています。
「当時のことですから建築科といってもまだほとんどたいした実験室もない。いまから考えたら、卒業生は自分で勉強したようなものです。もっとも先生がたはえらかったですよ。佐藤功一、岡田信一郎、伊藤忠太、内藤多仲、今和次郎、こういった先生です。」  

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2018年6月20日 (水)

殿ヶ谷戸庭園へ

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 (上写真、殿ヶ谷庭園の芝生地と本館建物)
 
 5月に文京区の「小石川後楽園」に行き、都内には9つの都立庭園があることを知りました。えっ、知らなかったの?と言われると、恥ずかしい限りですが、まだ、見学したことが無い庭園も幾つかあり、それなら9庭園全部を今年中に全部見てみようと思ったのでした。
友人のやっている200名城巡りなどに比べたら、都内の9か所ですから、そう難しくはありません。
ただ、覗くだけなら、ことによると一日で全庭園見学も可能かもしれません。
1.旧岩崎邸庭園 台東区
  重要文化財(建造物) 明治時代 J.コンドル設計の洋館
2.旧芝離宮恩賜庭園 港区
  特別史跡・名勝 貞享時代(1684~1688) 回遊式泉水庭園
3.旧古河庭園 北区
  名勝 大正時代  J.コンドル設計の洋館とバラ園
4.清澄庭園 江東区
  東京都指定名勝 明治時代 回遊式林泉庭園
5.小石川後楽園 文京区
  特別史跡・特別名勝 寛永時代(1624~1645)水戸黄門ゆかりの大名庭園
6.殿ヶ谷戸庭園 国分寺市
  東京都指定名勝 大正時代  段丘崖を生かした回遊式林泉庭園

7.浜離宮恩賜庭園 中央区
  特別史跡・特別名勝 江戸時代 潮入りの回遊式築山泉水庭
8.向島百花園 墨田区
 史跡・名勝 文化時代(1804~1818) 唯一現存する江戸時代の花園
9.六義園 文京区
 特別名勝 元禄時代(1688~1704)  代表的な江戸時代の大名庭園

殿ヶ谷戸庭園は、中央線の国分寺駅南口から徒歩2分の場所にあります。柳瀬川駅からは武蔵野線で西国分寺に行き、中央線に乗り換えれば、約40分で到着ですから、我家から最も近い都立庭園なのです。
「6月9日」
国立の用事の帰りに、9つの都立庭園巡り、二番目の殿ヶ谷庭園を訪問しました。ここは初めてです。
庭園ガイドが案内してくれる、午後2時からの時間に入場しました。
 殿ヶ谷庭園は、大正2年に江口定條の別荘として建築され、その後昭和4年に岩崎彦彌太(ひこやた)が江口家から買取り「国分寺の家」として親しんだそうです。なお、彦彌太は三菱の創始者岩崎弥太郎の孫にあたります。
入場の時もらったパンフレットにはこう書かれています。

「武蔵野段丘の南縁の「国分寺崖線」と呼ぶ段丘崖とその下端部付近の礫層から浸出する湧水を利用し、雑木林の風致を生かして作られた近代の別荘です」
「彦彌太は昭和9年(1934)に和洋折衷の木造主屋に建て替え、庭園建築として紅葉亭新築するとともに、主屋前面の芝生地と崖線下方の湧水及び園地とを結んで、回遊式庭園を完成させました」
「庭園の段丘上には芝生地が広がる洋風庭園があり、崖線の傾斜面はアカマツ、モモジ、竹林、クマザサで覆われ、崖線下には湧水の次郎弁天池を中心とした和風庭園があります」

広さは1.7haと、よく面積比較に使われる東京ドームの三分の一ほどのの大きさですが、園内は傾斜地を良く生かして変化に富み、ガイドさんの案内で巡っていると、ずいぶん広い庭園だと感じます。
ボランティアでやっていると言うガイドさんは、園内各所の説明はもちろん、武蔵野の野草の事なども詳しく解説してくれました。歩くだけなら20分もあれば園内一周できてしまうでしょうが、ガイドさんと歩いた40分は、武蔵野台地の事、国分寺崖線など全てが良く理解できてとても良かったです。要所には説明板もありますが、ここの見学はぜひガイドツアーをお薦めします。
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(写真上から)
次郎弁天池
国分寺崖線下の湧水を利用して作られた池

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湧水の湧き出している場所

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湧水を利用した鹿おどし

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紅葉亭
数寄屋風の茶室。次郎弁天池にかかるイロハモミジ
の紅葉が見下ろせる。

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竹の小径
日本庭園には珍しい孟宗竹の竹林

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殿ヶ谷戸庭園の入口
国分寺駅南口から3分ほどで到着


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2018年6月11日 (月)

北陸へ

6月3日からの3日間、アウトドア―遊びの仲間たちと、石川県方面へ行ってきました。
石川県能美市の辰口温泉近くに移住した友人宅を訪ねようと、これも長野県伊那市に移住した友人も交えて、高速道路をひた走った旅でした。
辰口温泉と翌日は金沢に宿泊しましたが、辰口温泉の「たがわ龍泉閣」の大露天風呂「田んぼの湯」は、まさに田んぼの中で、カエルの鳴き声を聞きながら温泉に浸かる趣の湯でした。(写真下)

Y336503272ちなみに北陸方面最大級と云われるこの露天風呂、混浴なのです。
 友人は自宅の風呂には入らず、毎日温泉に入るという何ともうらやましい生活ぶりでした。
旅の3日間とも、好天に恵まれ、滑川漁港、氷見漁港などでは岸壁でのんびりと釣りをしました。
今回、友人に教えられて、太鼓リールでの落とし込み釣りに挑戦し、指先に直に伝わる当たりの面白さを体験しました。
釣り用具もそろえたので、これからも続けようと思いますので、この釣りの事、また書くことにします。
旅の良さはなんといっても地元の食材や料理を食べられることです。旬のホタルイカ、白エビ、のどぐろの刺身や料理は新鮮で実に旨かったです。
氷見漁港では、強いこしと餅のような食感で知られる、名物氷見うどん白エビのかき揚げを載せました。これも美味でした。
二日目の金沢の夜は、近江町市場の店に入り、北陸の銘酒を飲みつつ尽きない話題で盛り上がりました。友人宅でも、珍しい地元の銘酒を御馳走になりましたが、やはり北陸の旅には日本酒が似合います。
飲んで食べてばかりでしたが、普段会えない友人との交流は貴重で何事にも代えがたい楽しい旅になりました。
 今回の旅で、僕は戦時中に祖母に連れられ、弟と共に疎開していた寺井町が辰口町の隣町だったことを知りました。寺井町は合併されて今はありません。
幼い頃だったので、軒まで届く深い雪と、下駄を作っていた店の作業場、蔵のような建物の2階の暗い部屋にいた事、ホタルがたくさん飛んでいたことなど断片的な記憶しかありません。富山大空襲の時だったのでしょうか、暗い土間で祖母が僕に草鞋のひもを結んでくれながら、山まで逃げるよと言った言葉を覚えています。
友人宅は辰口町にあります。70年以上前に、この近くに住んでいたかと思うと、ちょっと感慨深いものがありました。
遠い親戚宅だったと聞いたことがありましたが、東京から来た祖母と幼い僕ら兄弟を受け入れてくれた、あの大きな家は、その後どうなったのだろうと思うのでした。

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