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2017年9月10日 (日)

逃げる場所が無ければ、動物園にいらっしゃい

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上野動物園の「ツイッター」公式アカウントで発信したメッセージに、共感の輪が広がっていると、東京新聞が伝えています。(2017.9.1朝刊 写真上、クリックすると拡大します)
「アメリカバクは敵から逃げる時は、一目散に水の中へ飛び込みます。
逃げる時に誰かの許可はいりません。脇目も振らず逃げてください」

このツイッター記事から、最近読んだ本の中に、同じことを語っている著名な登山家の事を思いました。
本は、写真家・作家の小林紀晴さんの書かれた「だからこそ、自分にフェアでなければならない」
プロ登山家・竹内洋岳のルールです。
竹内洋岳氏は、日本人初のヒマラヤ8000m峰全14座登頂者です。世界の登山家でもまだ28人しか達成していない記録です。14座のうち、11座は酸素ボンベを使わない無酸素での登頂です。簡単に無酸素登頂と言いますが、人間の生存限界を超える8000mという高所に、人間がなぜ酸素ボンベ無しで到達できるかは、実のところまだ良く解明されていないのです。超人のなせる技としか言いようがありません。
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この本の83頁「社会や学校は8000メートルみたいなもの。適応できなかったら逃げろ、生きるために。」

短い章なので、書き写してみました。

竹内がテレビ番組でいじめについて語る姿を、私は画面を通して見た。どんなことを語るか気になった。困難に立ち向かうとか、負けないとか、ひるまないとか、状況を見て冷静な判断を下すとか、どこか精神的な関わりの中で問題を解決するべきというようなことを語るのではと勝手ながら考えていた。
そんなふうに思ったのは、困難なものに立ち向かうことに喜びを見いだし、チャレンジするプロ登山家・竹内の姿をそのまま投影したからだ。しかし竹内は真逆なことを言った。
「逃げろ」
その言葉に、肩の力が抜けるような感覚を持った。強靭な男の口から出ただけに、説得力を持って響いた。
「いじめは雪崩と同じだと思う」と続けた。だから、雪崩が今にも起きそうだと「感知」した斜面で竹内は即座に立ち去ったのだ。つまり、生きるために、逃げたのだ。
(注:以下、本の中の竹内岳洋の言葉)

 いじめに正直いって解決策は無いと思っています。3分間、いじめについてメッセージを発するという内容だったのでお引き受けしたんです。そのタイトルが「いじめ、いま君に伝えたい」でした。そこで、私のメッセージは「逃げろ」でした。
いじめには立ち向かわなくていい、逃げろと言いました。
 
 いじめは、雪崩と同じだと考えています。一人で立ち向かっていったって止められもしないし、流れも変えられない。だから、もう、逃げろ、逃げてしまえと。私はそれしかないと思います。誰かに助けてもらうとか、誰かが何かしてくれるの待ってたって、解決なんかしないし、その間に飲み込まれちゃつたらどうなっちゃうかわからないから、とにかく逃げろ、逃げろ。
 
 世の中、逃げろじゃなくて、逆に頑張れとかいうことが多いかもしれない。でも、逃げてしまえ、どこまでも逃げてしまえ、家からも逃げてしまえ、その行動が必要だと私は言いました。
野生動物じゃないですけど、脱兎のごとく逃げていくっていうのは、ある意味、正しいと思うんです。
 要は、社会とか学校とかって、たとえてみれば8000メートルみたいなもので、その環境に適応できるものだけがそこで生き延びていくんだと思うんです。ある人には苦でないことが、ある人には、恐ろしく順応できないことだったりする。その差は生まれ持ったものだと思いますよ。

 私は、子供が二人いるんですけど、一人目のときには気がつかなかったんです。二人になって気がついたんです。上の子は一歳前に歩き始めた。10ヶ月ぐらいで歩き始めた。そのときに妻が、やっぱり母親としては手を握って、よちよち歩いている方向に支えて歩かせようとするわけです。
すると、母親の手をぐっと振りちぎって歩いていくわけです。べちっと倒れて妻が、大丈夫?って言っても、それを振り払って歩いていこうとするわけです。でも、二人目の子は、同じではなかった。

 以前読んだ本にこういうことが書いてありました。江戸時代の朱子学に関してです。強力な理論体系ときわめて合理的な朱子学的な発想から、「人間はかくあるべし」とし、やればできるんだ、聖人になれるんだという教育があったそうです。けれど、幕府の正学となった荻生徂徠という人がそれを批判するんです。
 朱子学では、とにかくトレーニングすることで人は優れた人間になれるんだっていうのです。だけど荻生徂徠は人間っていうのは、もともと持って生まれた特性がある。米は米だ。豆と米とどっちがいいかではなくて、米は米としての役割があって、豆は豆としての役割があって、それを周りのものが、これは米として成長させよう、これは豆として成長させようとしていくことこそが、やっぱり人間が本当に成長していくことなのだと。
 全員を米にするとか、全員を豆にするというような朱子学全盛のときに彼が言うわけですよね。私もそうなんじゃないかと思うんです。

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