« 終戦記念日 安倍首相の式辞に思う | トップページ | 子供は泥んこ遊びが好き »

2017年8月21日 (月)

沢田教一写真展を見ました

Img_20170820_0001_1024

Img_20170820_0002_1024
日本橋高島屋で行われている<写真家「沢田教一展」その視点の先に>を見てきました。

「回顧展案内よりコピー」

ベトナム戦争の報道写真で活躍し、母子が戦火を逃れて川を渡る様子をとらえた『安全への逃避』でピュリッツァー賞を受賞した写真家・沢田教一の回顧展を開催します。

≪ベトナム戦争で世界に名をとどろかせたカメラマン≫ POINT:1
青森県に生まれた沢田は、1965年からベトナム戦争を取材。
主に米軍の作戦に同行し、最前線での激しい戦いや兵士の表情などを数多く写真に収めます。
1970年、カンボジアでの取材中に銃殺されるまでのわずか5年という本格的なキャリアの中で、ピュリッツァー賞のほか世界報道写真コンテスト2年連続大賞、USカメラ賞、ロバート・キャパ賞(死後受賞)などの輝かしい実績を残しました。米軍の重要作戦をカバーし続け、1968年の「フエの攻防」では、ベトナムの古都で繰り広げられる激しい市街戦の模様を世界に伝えました。
本展では妻・サタさんの全面協力のもと、こうした戦場カメラマンとしての業績とともに、故郷・青森を写した作品や東南アジアの人々を切り取った姿など、写真作品約150点を紹介。
カメラやヘルメットなどの遺品や愛用品も約30点展示します。

≪写真家としてのサワダ…視線の先に見ていたもの≫ POINT:2
沢田の写真に通底するのは、優しい眼差しです。疲れ果てた名もなき米兵、家を追われたベトナムの市民、故郷・青森の貧しい漁民――彼らがすがるかすかな希望や、懸命に日々を生きる姿にカメラを向けました。
沢田は、「そこに生きる人々を撮りたいんだ」と語り、戦争カメラマンと呼ばれるのを嫌っていたといいます。
ベトナムでの大活躍の先に見ていた未来とは…。サタさんをはじめ関係者の証言を紡ぎながら、34歳で殉職した「写真家」の業績をたどります。

 【沢田教一 略歴】
1936(昭和11)年2月22日 青森県青森市寺町に、郵便局員の長男として生まれる
1950(昭和25)年   青森県立青森高等高校に入学。同級生に寺山修司
1955(昭和30)年 浪人生活ののち帰郷。写真家・小島一郎が経営する写真店に勤め、その後、米軍三沢基地の小島写真店で働く
1956(昭和31)年6月   小島写真店の同僚、田沢サタと結婚。結婚生活ではサタをモデルに、撮影旅行で腕を磨く
1961(昭和36)年     夫妻で上京。12月にUPI通信社東京支局に就職
1962(昭和37)年11月   皇太子(現在の天皇陛下)夫妻のフィリピン訪問に同行取材
1964(昭和39)年     東京オリンピック取材
1965(昭和40)年2月   1カ月の休暇を取り、自費でベトナム取材を開始。地方新聞社で組織する「火曜会」特派員として記事を配信する
3月   アメリカが北ベトナムへの爆撃(北爆)を開始。米軍の介入でベトナム戦争は全土に拡大。UPIは沢田の個人的な取材活動を追認し、滞在が1カ月延長される
7月   念願だったUPIサイゴン支局へカメラマンとして正式に赴任。
9月6日 クイニョン近郊の作戦に従軍。ロクチュアン村で川を泳いで逃げる家族の写真を撮影。「安全への逃避」とタイトルされて世界中に配信される。以降、プレイメ、プレイク、イアンドラン渓谷など最前線での撮影を重ねる
12月  「安全への逃避」で第9回世界報道写真展大賞および報道部門第1位を獲得。
1966(昭和41)年1月   妻サタを伴って再びサイゴンへ。米兵2人が塹壕から引きずり出したベトコン兵士を連行する写真「敵を連れて」をボンソンで(1月29日)、米軍装甲兵員輸送車が死体を引きずる写真「泥まみれの死」をタンビンで(2月21日)撮影する
4月   「安全への逃避」が1966年度米海外記者クラブ賞を受賞
5月   「安全への逃避」を含む28点の一連の写真で、日本人としては2人目となるピュリツアー賞(報道写真部門)を受賞。8日にニューヨークでの受賞式に参加
12月   第10回世界報道写真展で「泥まみれの死」が第1位、「敵を連れて」が第2位を獲得。ハーグでの受賞式には妻サタが代理出席。ベトナムへ派遣された米軍の総数は50万人に達する
1968(昭和43)年2月   ベトコンなど解放勢力が南ベトナム各地で一斉蜂起(テト攻勢)。中部ベトナムの要衝フエの攻防戦を取材。王城の攻防戦をとらえた一連の写真が第26回USカメラ賞を受賞する
3月   ジョンソン米大統領が次期大統領選への不出馬と北爆縮小を表明
 
以上、回顧展開催案内よりコピーしました

会場は展示された写真や遺品の前を、横移動する列ができるほどの盛況でした。
来場者は若い人は少なく、高齢者がとても多いと感じました。
沢田教一さんがカンボジアで死去してから約半世紀、ベトナム戦争以後に生まれた人たちにとっては、この著名な写真家の名を知らないのも無理はないでしょう。
でも、彼の名を一躍有名にし、
ピュリッツァー賞も受賞した、川を渡る二家族5人の写真「安全への逃避」を見たことがある人は多いでしょう。確か、教科書にも採用されていました。
僕が、まだ中学生だった1954年頃、、ベトナムのディエンビエンフーで、ベトナム人民軍に包囲されたフランス軍が、「ベトナム兵に包囲された、深刻な状況だ」「塹壕内での戦闘になっている」などと戦況を打電している様子をラジオから聞くたびに、あの外人部隊で名高いフランス軍が負ける戦争などがあるのだろうかと思ったものでした。
しかし、大国フランスは破れ、一時の平和を得たベトナムが、再び米国との泥沼の戦争に巻き込まれてしまう様子は、青春時代とも重なる当時の安保闘争とも絡み、忘れることはありません。
僕は、この回顧展で、念願かない「安全への逃避」を初めて大型パネルで見ることがかないました。
この写真と共に、強く印象に残るもう一枚の写真があります。
沢田さんの「安全への逃避」と同じ、ピューリッツァー賞を1973年に受賞した写真です

1972年6月8日、南ベトナム軍と北ベトナム軍が交戦、南ベトナム軍の空軍機がナパーム弾を投下、チャンバン村は空襲を受けます。
この時、AP通信のベトナム人カメラマン、フィン・コン・ウトさんが、逃げ惑う村人らと共に裸で逃げる少女を撮影し、世界中に配信され「戦争の恐怖」と題されたこの写真は多くの人に衝撃を与えました。僕もその一人でした。撮影したフィン・コン・ウットさんは、なんと若干21歳の若さでした。
160912080051
2枚の写真の被写体になった家族が共に後日、カメラマンと交流し、平和を訴える活動をされていると報じられたことは、救いでした。
回顧展でも、「安全への逃避」に写る母親に抱かれた赤ちゃんが、沢田さんについて語る最近の姿が、会場のビデオで流されていました。
今回、回顧展で150点もの写真を見ることが出来た収穫と共に、驚いたのが沢田教一さんの生年が、僕と4年しか違わなかったことでした。
最近、僕の若い頃に活動していた著名な方たちの訃報に接することが多くなりました。そして、その方たちの年齢が、僕と同年代であったことを知り、少なからず驚くことがあります。
僕がディエンビエンフー陥落のニュースをラジオで聞いていた時、沢田さんも19歳で青森のカメラ店に職を得た時期だったのです。しかし、その10年後には、ピューリッツァー賞を受賞した写真「安全への逃避」を撮影していたとは。老いた僕が、過去を振り返り、感慨にふける事にもなった回顧展でした。

|

« 終戦記念日 安倍首相の式辞に思う | トップページ | 子供は泥んこ遊びが好き »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 終戦記念日 安倍首相の式辞に思う | トップページ | 子供は泥んこ遊びが好き »