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2017年8月30日 (水)

畑中の道を歩く

Ca390035_1024隣町のS整形外科病院に、週2度ほど通院しています。
職業病でもあり、四十肩でもある右肩の治療です。長い間、痛みに悩まされてきたのです。
かみさんに薦められて、S病院での治療をして約二年になりますが、痛みは劇的に改善し、右手が不自由なく動かせるようになりました。最近は肩の治療に加えて、白山登山中に傷めた左手薬指の腱断裂の治療も加わっています。こちらも固定装具が外れて、快方に向かっています。
通院は、隣駅なので、行きは電車、帰りは、約2.5kmの距離を歩いて戻ります。
歩道もある2車線の道路があり、その方が距離は短いのですが、あえて、西方向に畑が遠くまで続く、田舎道を通ります。(写真左2枚)
晴れていれば、富士山や奥武蔵の山々が見えます。写真の奥に見えるマンションや工場がまだ無かった頃の景色を想います。眺望はさぞ、すばらしかったことでしょう。
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(写真左下)人通りの多い道から、少し入ると、こんな家並が見られるのです。この先が畑中の道に通じます。なにかほっとする散歩道です。

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2017年8月24日 (木)

子供は泥んこ遊びが好き

今週の日曜日(8月20日)、志木ニュータウン内の館近隣公園で、泥んこになって遊ぶ子供たちの姿がありました。

Dsc02626_320これは、志木市商工会青年部の主催で、「泥んこ祭り+柳瀬川フリーマーケット」が行われ、会場の一角に泥と水が入れられたビニールプールが作られ、泥水の中に飛び込む滑り台も作られたのです。(写真左1枚目)
田植え時期には、全国で田植え祭りが行われ、男たちが泥だらけになる行事も良くみられる風景です。泥田の中で楽しんでいる男たちを見ると、日本人は泥の中で、わーわー騒ぐのが好きなのかと思います。
さて、公園の泥んこプールですが、滑り台から泥水の中に飛び込む子や、泥の中を這いずり回る子、泥を掛け合う子など、大賑わいです。
きゃつきゃと騒ぎまわる子供たちを見ていると、大人も子供も、泥遊びが大好きなんだと改めて思います。なぜかと言われても、良くわからないのですが。
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準備も後片付けも、さぞ大変だったことでしょう。
子供たちに、ふだん体験できない、素晴らしい遊びを提供してくれた志木市商工会青年部の皆さん、ありがとうございました。お疲れ様でした。

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2017年8月21日 (月)

沢田教一写真展を見ました

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日本橋高島屋で行われている<写真家「沢田教一展」その視点の先に>を見てきました。

「回顧展案内よりコピー」

ベトナム戦争の報道写真で活躍し、母子が戦火を逃れて川を渡る様子をとらえた『安全への逃避』でピュリッツァー賞を受賞した写真家・沢田教一の回顧展を開催します。

≪ベトナム戦争で世界に名をとどろかせたカメラマン≫ POINT:1
青森県に生まれた沢田は、1965年からベトナム戦争を取材。
主に米軍の作戦に同行し、最前線での激しい戦いや兵士の表情などを数多く写真に収めます。
1970年、カンボジアでの取材中に銃殺されるまでのわずか5年という本格的なキャリアの中で、ピュリッツァー賞のほか世界報道写真コンテスト2年連続大賞、USカメラ賞、ロバート・キャパ賞(死後受賞)などの輝かしい実績を残しました。米軍の重要作戦をカバーし続け、1968年の「フエの攻防」では、ベトナムの古都で繰り広げられる激しい市街戦の模様を世界に伝えました。
本展では妻・サタさんの全面協力のもと、こうした戦場カメラマンとしての業績とともに、故郷・青森を写した作品や東南アジアの人々を切り取った姿など、写真作品約150点を紹介。
カメラやヘルメットなどの遺品や愛用品も約30点展示します。

≪写真家としてのサワダ…視線の先に見ていたもの≫ POINT:2
沢田の写真に通底するのは、優しい眼差しです。疲れ果てた名もなき米兵、家を追われたベトナムの市民、故郷・青森の貧しい漁民――彼らがすがるかすかな希望や、懸命に日々を生きる姿にカメラを向けました。
沢田は、「そこに生きる人々を撮りたいんだ」と語り、戦争カメラマンと呼ばれるのを嫌っていたといいます。
ベトナムでの大活躍の先に見ていた未来とは…。サタさんをはじめ関係者の証言を紡ぎながら、34歳で殉職した「写真家」の業績をたどります。

 【沢田教一 略歴】
1936(昭和11)年2月22日 青森県青森市寺町に、郵便局員の長男として生まれる
1950(昭和25)年   青森県立青森高等高校に入学。同級生に寺山修司
1955(昭和30)年 浪人生活ののち帰郷。写真家・小島一郎が経営する写真店に勤め、その後、米軍三沢基地の小島写真店で働く
1956(昭和31)年6月   小島写真店の同僚、田沢サタと結婚。結婚生活ではサタをモデルに、撮影旅行で腕を磨く
1961(昭和36)年     夫妻で上京。12月にUPI通信社東京支局に就職
1962(昭和37)年11月   皇太子(現在の天皇陛下)夫妻のフィリピン訪問に同行取材
1964(昭和39)年     東京オリンピック取材
1965(昭和40)年2月   1カ月の休暇を取り、自費でベトナム取材を開始。地方新聞社で組織する「火曜会」特派員として記事を配信する
3月   アメリカが北ベトナムへの爆撃(北爆)を開始。米軍の介入でベトナム戦争は全土に拡大。UPIは沢田の個人的な取材活動を追認し、滞在が1カ月延長される
7月   念願だったUPIサイゴン支局へカメラマンとして正式に赴任。
9月6日 クイニョン近郊の作戦に従軍。ロクチュアン村で川を泳いで逃げる家族の写真を撮影。「安全への逃避」とタイトルされて世界中に配信される。以降、プレイメ、プレイク、イアンドラン渓谷など最前線での撮影を重ねる
12月  「安全への逃避」で第9回世界報道写真展大賞および報道部門第1位を獲得。
1966(昭和41)年1月   妻サタを伴って再びサイゴンへ。米兵2人が塹壕から引きずり出したベトコン兵士を連行する写真「敵を連れて」をボンソンで(1月29日)、米軍装甲兵員輸送車が死体を引きずる写真「泥まみれの死」をタンビンで(2月21日)撮影する
4月   「安全への逃避」が1966年度米海外記者クラブ賞を受賞
5月   「安全への逃避」を含む28点の一連の写真で、日本人としては2人目となるピュリツアー賞(報道写真部門)を受賞。8日にニューヨークでの受賞式に参加
12月   第10回世界報道写真展で「泥まみれの死」が第1位、「敵を連れて」が第2位を獲得。ハーグでの受賞式には妻サタが代理出席。ベトナムへ派遣された米軍の総数は50万人に達する
1968(昭和43)年2月   ベトコンなど解放勢力が南ベトナム各地で一斉蜂起(テト攻勢)。中部ベトナムの要衝フエの攻防戦を取材。王城の攻防戦をとらえた一連の写真が第26回USカメラ賞を受賞する
3月   ジョンソン米大統領が次期大統領選への不出馬と北爆縮小を表明
 
以上、回顧展開催案内よりコピーしました

会場は展示された写真や遺品の前を、横移動する列ができるほどの盛況でした。
来場者は若い人は少なく、高齢者がとても多いと感じました。
沢田教一さんがカンボジアで死去してから約半世紀、ベトナム戦争以後に生まれた人たちにとっては、この著名な写真家の名を知らないのも無理はないでしょう。
でも、彼の名を一躍有名にし、
ピュリッツァー賞も受賞した、川を渡る二家族5人の写真「安全への逃避」を見たことがある人は多いでしょう。確か、教科書にも採用されていました。
僕が、まだ中学生だった1954年頃、、ベトナムのディエンビエンフーで、ベトナム人民軍に包囲されたフランス軍が、「ベトナム兵に包囲された、深刻な状況だ」「塹壕内での戦闘になっている」などと戦況を打電している様子をラジオから聞くたびに、あの外人部隊で名高いフランス軍が負ける戦争などがあるのだろうかと思ったものでした。
しかし、大国フランスは破れ、一時の平和を得たベトナムが、再び米国との泥沼の戦争に巻き込まれてしまう様子は、青春時代とも重なる当時の安保闘争とも絡み、忘れることはありません。
僕は、この回顧展で、念願かない「安全への逃避」を初めて大型パネルで見ることがかないました。
この写真と共に、強く印象に残るもう一枚の写真があります。
沢田さんの「安全への逃避」と同じ、ピューリッツァー賞を1973年に受賞した写真です

1972年6月8日、南ベトナム軍と北ベトナム軍が交戦、南ベトナム軍の空軍機がナパーム弾を投下、チャンバン村は空襲を受けます。
この時、AP通信のベトナム人カメラマン、フィン・コン・ウトさんが、逃げ惑う村人らと共に裸で逃げる少女を撮影し、世界中に配信され「戦争の恐怖」と題されたこの写真は多くの人に衝撃を与えました。僕もその一人でした。撮影したフィン・コン・ウットさんは、なんと若干21歳の若さでした。
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2枚の写真の被写体になった家族が共に後日、カメラマンと交流し、平和を訴える活動をされていると報じられたことは、救いでした。
回顧展でも、「安全への逃避」に写る母親に抱かれた赤ちゃんが、沢田さんについて語る最近の姿が、会場のビデオで流されていました。
今回、回顧展で150点もの写真を見ることが出来た収穫と共に、驚いたのが沢田教一さんの生年が、僕と4年しか違わなかったことでした。
最近、僕の若い頃に活動していた著名な方たちの訃報に接することが多くなりました。そして、その方たちの年齢が、僕と同年代であったことを知り、少なからず驚くことがあります。
僕がディエンビエンフー陥落のニュースをラジオで聞いていた時、沢田さんも19歳で青森のカメラ店に職を得た時期だったのです。しかし、その10年後には、ピューリッツァー賞を受賞した写真「安全への逃避」を撮影していたとは。老いた僕が、過去を振り返り、感慨にふける事にもなった回顧展でした。

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2017年8月15日 (火)

終戦記念日 安倍首相の式辞に思う

今日の終戦記念日、テレビから流れる全国戦没者追悼式での安倍首相の式辞を聞きながら、ここ5年間変わることのなかった、「反省」の言葉が消えた式辞の文脈の繋がりに、納得できない思いがまたこみ上げてきます。
私は、先の大戦に於いて、戦場に斃れた兵士、戦禍に遭われた人たちの尊い犠牲の上に今の日本の平和と繁栄があると結ぶのは間違っていると思います。
310万人もの国民が、なぜ戦争の犠牲者になったのか、
戦争当事国の日本国の反省と国民への謝罪なくして、ただ、命を捧げた戦没者の御霊安らかにと言われても浮かばれないことでしょう。
最近の2年では、先の大戦に「苛烈を極めた大戦、戦場」との言葉が加わり、より受身で、やむを得ず対戦したのだと、戦争の当事者感が曖昧にされていると感じます。
平和を重んじ、繁栄する今の日本は、戦争を遂行した国家体制が敗戦により崩壊し、その反省から出発した戦後の国民の平和への思いと、努力により成されたものと思います。
戦争当事国、そして敗戦国とは思えない、責任感の欠落した言葉の羅列に、私は虚しさを覚えるのです。
参照が長くなるので、平成25年からの5年間の安倍首相の式辞のうち、最近3年間分を写しておきます。なに、それ以前の2年間も、ほとんど同じですから。

○平成27年
天皇皇后両陛下の御臨席を仰ぎ、戦没者の御遺族、各界代表多数の御列席を得て、全国戦没者追悼式を、ここに挙行致します。

遠い戦場に、斃れられた御霊、戦禍に遭われ、あるいは戦後、遥かな異郷に命を落とされた御霊の御前に、政府を代表し、慎んで式辞を申し述べます。

皆様の子、孫たちは、皆様の祖国を、自由で民主的な国に造り上げ、平和と繁栄を享受しています。それは、皆様の尊い犠牲の上に、その上にのみ、あり得たものだということを、わたくしたちは、片時も忘れません。

70年という月日は、短いものではありませんでした。平和を重んじ、戦争を憎んで、堅く身を持してまいりました。戦後間もない頃から、世界をより良い場に変えるため、各国・各地域の繁栄の、せめて一助たらんとして、孜々たる歩みを続けてまいりました。そのことを、皆様は見守ってきて下さったことでしょう。

同じ道を、歩んでまいります。歴史を直視し、常に謙抑を忘れません。わたくしたちの今日あるは、あまたなる人々の善意のゆえであることに、感謝の念を、日々新たにいたします。

戦後70年にあたり、戦争の惨禍を決して繰り返さない、そして、今を生きる世代、明日を生きる世代のために、国の未来を切り拓いていく、そのことをお誓いいたします。

終わりにいま一度、戦没者の御霊に平安を、ご遺族の皆様には、末永いご健勝をお祈りし、式辞といたします。

平成27年8月15日 内閣総理大臣 安倍晋三

〇平成28年
本日ここに、天皇皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、全国戦没者追悼式を挙行するにあたり、政府を代表し、慎んで式辞を申し述べます。
あの、苛烈を極めた先の大戦において、祖国を思い、家族を案じつつ、戦場に斃(たお)れられた御霊(みたま)、戦渦に遭われ、あるいは戦後、はるかな異郷に亡くなられた御霊、皆様の尊い犠牲の上に、私たちが享受する平和と繁栄があることを、片時たりとも忘れません。衷心より、哀悼の誠をささげるとともに、改めて、敬意と感謝の念を申し上げます。
いまだ、帰還を果たされていない多くのご遺骨のことも、脳裏から離れることはありません。おひとりでも多くの方々が、ふるさとに戻っていただけるよう、全力を尽くします。
わが国は、戦後一貫して、戦争を憎み、平和を重んじる国として、孜々として歩んでまいりました。世界をよりよい場とするため、惜しみない支援、平和への取り組みを、積み重ねてまいりました。
戦争の惨禍を決して繰り返さない。
これからも、この決然たる誓いを貫き、歴史と謙虚に向き合い、世界の平和と繁栄に貢献し、万人が心豊かに暮らせる世の中の実現に、全力を尽くしてまいります。明日を生きる世代のために、希望に満ちた国の未来を切り開いてまいります。そのことが、御霊に報いる途であると信じて疑いません。
 終わりに、いま一度、戦没者の御霊に永久の安らぎと、ご遺族の皆様には、ご多幸を、心よりお祈りし、式辞といたします。

平成28年8月15日
内閣総理大臣 安倍晋三

〇平成29年
天皇皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、全国戦没者追悼式を、ここに挙行致します。
先の大戦において、三百万余の方々が、祖国を想い、家族の行く末を案じながら、苛烈を極めた戦場に斃(たお)れ、戦禍に遭われ、あるいは戦後、遠い異郷の地で命を落とされました。いま、その御霊(みたま)の御前にあって、御霊安かれと、心より、お祈り申し上げます。

 いま、私たちが享受している平和と繁栄は、かけがえのない命をささげられた皆様の尊い犠牲の上に築かれたものであります。私たちは、そのことを、ひとときも忘れることはありません。改めて、衷心より、敬意と感謝の念をささげます。

 戦争の惨禍を、二度と、繰り返してはならない。

 戦後、わが国は、一貫して、戦争を憎み、平和を重んずる国として、ただひたすらに、歩んでまいりました。そして、世界の平和と繁栄に力を尽くしてきました。私たちは、歴史と謙虚に向き合いながら、どのような時代であっても、この不動の方針を貫いてまいります。

 いまだ、争いが絶えることのない世界にあって、わが国は、争いの温床ともなる貧困の問題をはじめ、さまざまな課題に、真摯(しんし)に取り組むことにより、世界の平和と繁栄に貢献してまいります。そして、今を生きる世代、明日を生きる世代のため、希望に満ちた明るい未来を切り拓(ひら)いていく。そのことに、全力を尽くしてまいります。

 終わりに、いま一度、戦没者の御霊に平安を、ご遺族の皆様には、ご多幸を、心よりお祈りし、式辞といたします。

平成29年8月15日

 内閣総理大臣 安倍晋三

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2017年8月11日 (金)

セミの抜け殻のなる木

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Dsc02608_1024我家の周りでは、早朝から夜中までセミの大合唱が聞こえます。
アブラゼミ、ミンミンゼミ、クマゼミ、それぞれ鳴き声が違いますが、一体となるとワーンという大音響になって、騒音になります。
志木ニュータウン内は、子供でも30分もあれば、20匹くらいのセミ取りが出来ることは、以前書いたことがあります。
それだけセミが多いのですが、セミの抜け殻も、あちこちの木の枝にあきれるほど見つけることが出来ます。この写真、一本の木ですが、地面の上30cmほどの枝から、3m近い高さの枝まで、まさにセミの抜け殻がなっています。20個以上はあるでしょう。木の根もとは、セミがはい出した穴だらけです。(写真はクリックすると拡大します)
木はたくさんあるのに、何故、同じ木に集中するのかがわかりません。卵を産む際に、好き嫌いがあるのでしょうか。
泥をかぶったような、ニイニイゼミの抜け殻は、見つけられないので、ニュータウンにはいないのかもしれません。
特徴のあるツクツクボウシの鳴き声は、まだ聞いていませんが、これからヒグラシと共に鳴いて、秋の近いことを教えてくれることでしょう。

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2017年8月 9日 (水)

オーストラリアで沖縄駐留のオスプレイMV-22墜落

オーストラリアで、訓練中の米国海兵隊のオスプレイMV-22が、墜落したと報道されましたので、少し詳しく調べてみました。

Photo

(写真上、強襲揚陸艦 ボノム ・ リシャールに着艦するMV-22、尾翼の竜マークは普天間基地所属の第265ティルトローター部隊を表す。14番機と思われる。
艦は違いますが、墜落した機体も、この写真より少し上空から、舷側寄りの甲板に衝突し、手摺と舷側甲板を破壊して海面に落下した模様です。墜落したのが何番機か不明です。)

 墜落事故はオーストラリアの東部クイーンズランド州ロックハンプトンに近いショールウオーターベイ沖で起こりました。
墜落したMV-22は、海兵隊沖縄普天間飛行場所属の第31海兵遠征部隊(31MEU)の第265海兵ティルトローター部隊所属です。
沖縄のMV-22が、オーストラリアまでと、驚く方がおられると思いますが、沖縄の海兵隊は半年ごとに兵員の約半数が入れ替わり、訓練も年4カ月以上はオーストラリア、フィリッピン、タイ、シンガポール、マレーシア、韓国、グァムなど、海外で行われています。
常に普天間基地に駐留しているわけではないのです。
今回の墜落も7月下旬まで行われていた米豪の合同軍事練習「2017タリスマン・セーバー」に参加し、その後の追加訓練中に起こりました。尚、オーストラリアは、米軍の恒久基地を置くことは許していないので、海兵隊基地もありません。
 8月5日、訓練に参加していたワスプ級強襲揚陸艦 ボノム ・ リシャール(USS Bonhomme Richard, LHD-6)(写真上)から発進したMV-22のうちの1機が、サン・アントニオ級ドッグ型輸送揚陸艦グリーン・ベイ (USS Green Bay, LPD-20)(写真下)に着艦しようとした際、バランスを崩して、飛行甲板舷側寄りの部分に激突、そのまま海面に落下したのです。グリーン・ベイも、飛行甲板横が大きく損傷しました。
600pxuss_bonhomme_richard_lhd6MV-22には、乗員5名、搭乗の海兵隊員21名の計26名が搭乗していました。
(MV-22の定員は乗員5名、搭乗者23名の28名)
直ぐにヘリコプターによる捜索と海上での救助活動が行われ、23名が救助されましたが、機体は水中に没し、3名が行方不明になりました。救助された23名のうち、1名は足の骨折で重傷です。
その後、機体はオーストラリア海軍の調査船により、海底で発見されましたが、その状況から3名は死亡した模様と発表され、捜索も中止されました。3名は機体に閉じ込められた可能性もあるとみられています。
機体は水中探査機を投入して状況を調べ、今後米豪が協力して改修作業を本格化させると、東京新聞が報じています。しかし機体の引き上げには、日数がかかる模様です。
死亡した海兵隊員の氏名も公表され、家族の談話なども、ネット上で発表されています。また、事故率の一番高い航空機として知られる、垂直離着陸機ハリアーに迫る事故率になりつつあるのではないかと、オスプレイの安全性に疑問を抱く家族もいるようです。
The_green_bay_lpd_20_near_new_orlea_97257924_trio3名の氏名
1st Lt. Benjamin R. Cross 中尉 ベンジャミン・ロバート・クロス 26歳
Pfc. Ruben P. Velasco 一等兵 ルベン・P・ベラスコ 19歳
Cpl. Nathaniel F. Ordway 伍長 ナサニエル・F・オードウェイ 21歳

クロス中尉とオードウェイ伍長は、第265海兵ティルトローター部隊のオスプレイ搭乗員で、ベラスコ一等兵は第三大隊第五海兵隊の兵士です。皆、若い海兵隊員たちです。オスプレイの開発段階からの事故死者は、50名近くにのぼり、今回の墜落事故による死者は米軍にも大きな衝撃を与えています。

沖縄に駐留する海兵隊のMV22の最近の事故では、2016年12月の沖縄県名護市沖で、普天間基地の24機のオスプレィの中の1機が空中給油中に墜落大破、2名が負傷した事故が記憶に新しいところです。
今回のオーストラリアの墜落で、普天間基地の24機のオスプレイのうち、2機が墜落したことになります。どちらも航空機事故の規模を示す四段階評価で最も重大な「クラスA」に当たると米海軍安全センターが発表しています。
「クラスA」は二百万ドル(約二億二千万円)相当以上の被害や機体の損傷、死者が出た場合に適用されます。
普天間基地のMV-22は、この2機を失っただけでなく、名護市沖での事故と同じ時期、別の1機も基地内で着陸時の故障により胴体着陸しました。
また17年6月6日に伊江島補助飛行場に、同10日は奄美空港に緊急着陸するなど不具合が相次いでいたのです。

訓練中の事故も多いのですが、緊張感に包まれる実戦では、その操縦性が不安視される事故が実際に起きています。
今年1月にイエメン中部でISとの戦闘に参加していたMV-22、1機が海兵隊員の収容時に着陸に失敗し、乗員3名が負傷しました。オスプレイの操縦の難しさが伝えられますが、舞い上がる砂塵の中、操縦士が動揺してしまったと報じられています。
機体が敵側の手に渡ることが無いよう、空爆で完全に破壊された写真を見た方も多いと思います。
オスプレイMV-22の事故率増加、日本の自衛隊の購入の是非については、2017年4月23日に当ブログで詳しく書いていますが、執拗に反論してくる方たちも多いのです。
http://yanasegawa.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/post-245b.html
しかし、事故率の高さなど云々より、普天間基地所属の24機のうち、一年にも満たない中で、2機が墜落してしまった現実は重く受け止めるべきです。
日本政府は、オーストラリア、ショールウオーターベイ沖での墜落事故を受けて、国内の飛行自粛を6日に要請しました。しかし、7日午前10時40分頃には普天間飛行場からMV-22の発進が確認され、要請など全く無視された状態です。政府関係者は、要請を事実上拒否されたとの考えをしめしたと、東京新聞が伝えています。
沖縄だけでなく、千葉県木更津市と県も陸上自衛隊木更津駐屯地で実施されている定期整備に伴う試験飛行の自粛を、米軍に働きかけるよう防衛省北関東防衛局に要請しました。そのほか、北海道や佐賀県、青森県でも安全性への懸念や飛行中止を求める動きが広がったとも東京新聞は報じています。
オスプレイの国内飛行は、我家から近い横田基地にも空軍仕様機CV-22の配備が決まっており、看過できない問題です。このことは、近日中に、再度オスプレイの問題として書く予定です。

「8月10日追記」
日本政府の自粛要請にも関わらず、オスプレイの飛行を続ける在日米軍側は、飛行継続の理由を次のように語ったと、報道されています。
〇シュローティ在日米軍副司令官
「安全性を確認した上で、運用上必要だと判断した」
〇米国防省のデービス報道部長
「米軍は全ての運用において安全を最優先している」
「オスプレイは日本の防衛や日米の安全保障、地域の安定のために必要だ」
米軍側に、何故こうまで強気の発言を許すのか、日本政府の自粛要請なるものを改めて検証してみると、その理由はすぐ理解できました。
要請と言っても、
「出来ましたら自粛してくださいとの、極めて低姿勢のお願いだったことがわかったのです。次の菅官房長官の発言で、良くわかります。
これでは、米側は、何の配慮も必要ない。今までどうりだと思うことでしょう。

〇菅官房長官

「防衛省から米側に対し、運用上必要なものを除いて、国内におけるオスプレイの飛行自粛を申し入れている」

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2017年8月 5日 (土)

埼玉4区 豊田真由子氏の議員辞職を求める市民集会へ

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午後6時から1時間、東武東上線の志木駅南口前で、豊田真由子衆議院議員の議員辞職を求める市民集会が行われました。(写真左)
主催は、自公政権の暴走を防ぐべく、選挙で野党が共闘しようと立ち上げた「市民が野党をつなぐ埼玉4区の会」です。
自分の秘書への日頃の暴言、暴力が暴露され、「この、はげー」「違うだろー」で、一躍時の人に躍り出た、この自民党の女性議員は、恥ずかしながら我が志木市を含む、新座、朝霞、和光市の4区の選挙地区、埼玉4区(1人区)の選出議員なのです。
1時間の短い集会でしたが、駅前に約300名の市民が集まり、新座、朝霞、和光、志木4市の市民が、それぞれ3名づつ、3分間スピーチで、リレートークし、豊田真由子議員の辞職を求める日頃の思いを語りました。
僕もスピーチの機会を与えられて、次のような話をしました
3分間スピーチは、語数にして650語~800語程度でまとめなければなりません。前のスピーチとだぶれば、話を変えなくてはならないこともあり、難しくて苦手です。
僕は、豊田真由子氏がまったく議員活動もせず、精神不安定とかで入院しているとの情報だけが流され、本人から何の説明もないまま、高額の議員報酬を得ているのは、おかしいのではないか、早く辞職すべきとの話をまとめるつもりでした。
しかし、この日の午後、豊田真由子氏の女性議員秘書が、支持者へのお詫び行脚を始めているとの報道に驚き、急遽話を変えたので、あまりうまくまとまらないスピーチになってしまいました。

〇3分間リレースピーチ
今日の主人公、豊田真由子氏は、皆さんがお持ちのスマホやパソコンで読めるホームページを持っています。テレビで何度も暴言を聞かされた「凶暴議員」とは思えない、立派な政策や理念を滔々(とうとう)と語っているんです。
ところが、6月6日日付の志木市長選挙の応援の記事を最後に何も書かなくなりました。報道された秘書への暴言や暴力の事など知らんぷり、勿論雲隠れしたことも報告していません。まあ、自分で雲隠れしていますと言う人もいないでしょうが。
ですから、ホームページにあるように、まだ自民党国会議員であることを、隠していないんです。先ほどもお話があったように、今朝のTBSのテレビでも放送されたようですが、議員辞職する気などさらさら無い。新しく雇われた女性秘書が名刺を配ってお詫び行脚を始めたと、新聞やネットニュースでも報じられています。
議員を辞める気もないが、地元埼玉4区の有権者に、何の説明もしないで、ほとぼりの覚めるのを待つというのは、埼玉県の上田知事も、一昨日の定例記者会見で、それは卑怯だと語っていましたが、まさに「卑怯者」です。
本人の発表は無いのですが、自民党には離党届を出したと報道されています。出せと言われたのが正しいのでしょうが。
ところがどうやら、自民党はまだ受理していないようなんです。この辺が自民党の汚いところです。受理という言葉の曖昧さでもあります。
本当だろうかと、今日、ここに来る前に自民党のホームページで、衆議院議員名簿を見てみました。あるんです。ちゃんとタ行の議員名簿に写真入りで豊田真由子と。女性局次長、青年局次長の役職もそのままなんです。
今、精神不安定で入院中ですって!。自民党の議員さんは、何か不祥事があるとすぐに入院するくせがある。覚えていますか。去年の甘利明前経済再生担当大臣。
怪しい金のやり取りを突かれて、やばいと思ったら、睡眠障害で2か月入院。ほとぼりの覚めた頃、ああよく寝たという顔で、ケロッと国会に戻ってきた。
今回の内閣改造で、巻き返しをはかりたいだとか。とんでもないことです。
こちら埼玉4区の豊田真由子氏は、精神不安定で入院。精神不安定!よく言うよとあきれるばかりです。「このはげ」と聞かされる度に、こちらの方が情緒不安定になります。
皆さん、豊田真由子氏には、月給130万円と通信費など諸手当165万円。合わせて毎月300万円。それにボーナスが635万円。
年収4200万円。それだけではなく、3人の秘書の年間給料2500万円。合計6700万円が支払われています。(他にJR全線が無料、月に4往復分の航空運賃が無料)すべて私たちの税金からです。国政の任はそれほど重いともいえるのです。
辞めてもらいましょう。まったく議員活動していないのですから。ごめんなさいと名刺を配った歩く秘書さんの給料まで、支払いたくありません。
豊田真由子氏の座右の銘は「艱難(かんなん)汝を玉にす」だとか。「暴言汝を無職にす」と豊田真由子氏の議員辞職を、強く願うものであります。
                                 以上


スピーチした埼玉県上田知事の、定例記者会見での発言は、埼玉県ホームページの「知事の部屋」で発表されている公式議事録の引用です。
2017年8月1日 定例記者会見
 「産経」

衆院4区の豊田真由子議員の秘書が地元自治体や支援者らにお詫び行脚に回っているというお話がありまして、それから議員辞職しないんじゃないかというようなお話も出てるんですけど、そのあたりちょっと御所見どうでしょうか。

 「知事」
私は政治の信頼を取り戻すには御本人がお辞めになって、そして、あるいはお辞めになる前にきちっと姿を現して事の内容に関してつまびらかに発表されて、そして意見交換とかをされて、その上で国政の任に堪えられるというような判断をされれば、またそれもあるのかもしれませんが、表に出ることができないような状態でほとぼりが冷めたら出てこようかというのは卑怯ではないかと思います。

4市市民12人によるリレートークの後、集会アピールが拍手のうちに採択され、みんなで豊田真由子議員、辞職せよとコールして、1時間の集会を終わりました。

「集会アピール」

「私たちは、豊田真由子衆院議員の議員辞職を求めます」
埼玉4区選出の豊田真由子議員による秘書への暴言・暴行事件が6月に報道され、埼玉4区の有権者は怒っています。
明らかに議員として失格です。
事件後1か月以上も経過し、被害届が警察に受理されているにもかかわらず、入院を隠れ蓑にして、説明も謝罪もしていません。このまま議員の椅子にしがみ続け、議員歳費だけを受け取り続けることは許されません。
直ちに、国民に謝罪し、議員辞職することを求めます。
補欠選挙を実施して、埼玉4区の有権者の声を国政に届ける新しい衆院議員を選出すべきです。
また、総選挙で公認した自民党、推薦した公明党の責任も問われています。両党がそれぞれの責任で豊田真由子氏に議員辞職を求めるよう強く要望します。  以上


豊田真由子氏が9月までに議員辞職すれば、10月に補欠選挙が行われることになります。現在、この10月に予定されている青森4区、愛媛3区の二つの補選の結果が気になる自民党としては、負け戦必死の埼玉4区の補選は、絶対に避けたいところです。
離党届を受理?しても、離党させず、9月末まではそのまま、入院させておけとの党の方針なのでしょう。
一方豊田真由子議員は、宙ぶらりんの状態のまま、日に日に高まる地元有権者からの議員辞職を求める声にたまらず、もぞもぞと動き始めたというところだと思います。
毎年朝霞市で行われる「彩夏祭」には、必ず出てきて住民と交流していた豊田議員が、よさこいで盛り上がる今年の彩夏祭に出てくるだろうかと、マスコミも注目しているようです。

 

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2017年8月 1日 (火)

白山へ---その2(下山)

 30分程過ごした白山主峰山頂に別れを告げ、登ってくる大勢の登山者とすれ違いながら、石畳、階段などで良く整備された登山道を、30分程で室堂へ戻りました。
室堂も登山者がいっぱいです。今日は7月15日(土)、そうです、金沢駅から別当出会間迄の登山バスが運行されたのです。
僕も午後15時30分の、別当出会発のバスに乗り金沢駅に戻らねばなりません。夜行高速バスが予約してあるのです。
時間は充分と思いながらも、もし足でも傷めたら、別当出会に宿泊施設は有りません。
頂上からの翠ヶ池巡りなども考えたのですが、下山を急ぐことにしました。好天に恵まれて、白山に登れたことだけでも感謝しなくては。
室堂発10時40分。
砂防新道と観光新道との分岐になる、黒ボコ岩を目指します。
すぐに室堂に至る最後の登り、五葉坂です。10分程でこれを下り、エコーラインとの分岐を左に見て、弥陀ヶ原になります。低木と高山植物が草原状に広がり、明るく開けた眺めの良い場所です。背後に水屋尻雪渓、その先に登ってきた白山主峰、御前峰がくっきりと見えます。雪渓横に、下ってきたきた登山道が、一本の線となって見えます。
都会に暮らすと、自分が歩いてきた道の軌跡を、振り返って見られることなど、まずないでしょう。それが山の稜線歩きでは、普通の事のように見えてしまいます。はるばる来たなと、感慨にふける道もあります。山登りの醍醐味の一つです。(写真下2枚)
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弥陀ヶ原から黒ボコ岩までは、短い距離です。(写真左2、3枚目)
黒ボコ岩には、大勢の登山者が休んでいました。ここが、室堂からの二つの登山道、砂防新道と観光新道の合流地点なのです。
実は、室堂で再開したMさんから、観光新道を下ることを勧められていたのですが、霧が湧き、眺望も望めないと自分に言い訳して、急坂の少ない、楽な砂防新道を下ることにしました。少し疲れが出てきていました。
実は南竜山荘で朝起きたら、左手の薬指の第一関節から先が、だらりと下がったままでした。動かそうと思ってもまったく自分の意志では動きません。痛みなどはありません。なんだかよくわからない症状ですが、腱が切れたようです。そんなことも、弱気になる原因でした。
黒ボコ岩を過ぎたあたりでは、登山道脇に高山植物がたくさん見られました。
十二曲りの急坂も、下りは楽です。登ってく
Dsc02588_1024る大勢の登山者とのすれ違いで、何度も待たされます。
今日も暑く、登りは辛そうです。明日から海の日の連休になるので、小屋は超満員だと聞かされました。
大型のザックを背負った高校山岳部のグループが、喘ぎながら登ってきます。どこまで行くのか。今日の午後から天気は崩れる予報なので、かなり厳しい登山となるでしょう。30kgの荷を背負って縦走した若き日を思い出します。一緒に登った友の何人もが、もう会うことが出来ない世界にいます。
右手の稜線に、観光新道を歩く登山者の姿が小さく見えます。やはり、あちらの方が、眺望は良さそうだなと、ちらっと後悔もしました。観光新道という名とは裏腹に、実は1000年以上も続く越前禅定道の一部だと、ガイドブックに書かれていました。砂防新道は工事用の道路を利用した、谷筋の登山道なのです。
山腹を巻くようにつけられた登山道を下ります。高山植物がたくさん咲いています。(写真4枚目)
水場のある沢、雪渓の残る沢(写真5枚目)などを横切り、相変わらず大勢の登山者とすれ違いながら、狭い登山道を下ります。(写真6枚目)やがて見覚えのある南竜分岐です。昨日、雨の中、ここで砂防新道と分かれて右に折れて、南竜山荘を目指したので
Dsc02589_1024す。
ここから先は、昨日登ってきた道です。15分程で甚之助避難小屋に到着しました。室堂から1時間半ほどで下りましたので、疲れている割には、まあ順調なペースです。
広場のベンチで、しばらく休みました。甚之助避難小屋は、水場もトイレもあるきれいな小屋です。
ここからは、約1時間強の最後の下り、かなりの急坂もあります。中飯場(写真一番下)で小休止して、別当出会には、14時30分に到着しました。着替えたりして、時間を過ごし、15時30分の最終バスに乗り込みました。補助席を使うほどの混雑でしたが、ほとんどの乗客は、15分程の乗車で、駐車場のある市ノ瀬で降りてしまい、金沢駅までの乗車は僅か8人、そのうち4人は、米国人らしい若者たちでした。
2時間半の乗車で、午後6時、バスは観光客で賑わう金沢駅に到着しました。山行の汗を流すべく、電車で金沢駅の隣駅の東金沢駅まで行き、駅近くの日帰り温泉施設「和おんの湯」で露天風呂に浸かり、白山登山を無事終わらせることが出来ました。後は、市内に戻りゆっくり食事をして、夜行高速バスで新宿バスタに戻るだけです。

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