« 吉見町のコスモス畑 | トップページ | 我家のホトトギス »

2016年10月16日 (日)

吉見百穴と坪井正五郎博士

Dsc01121_1024_1
吉見町のコスモス畑を見に行く途中で、吉見百穴にも寄りました。
吉見百穴は国の史跡にも指定されている、全国的にも良く知られた横穴墓群です。
敷地内に埋蔵文化財センターもあり、入場料300円で見学できます。横穴の奥の暗がりに埼玉県では珍しいヒカリゴケも見ることができます。
この横穴が丘陵地の斜面に掘られたのは古墳時代の末期(6世紀末〜7世紀末)だとされています。
古墳時代の末期と言われても、分かりにくいですね。
「仏教伝来ご参拝」と覚えた538年(552年説有り)より後、「コックさだよ聖徳太子」の聖徳太子摂政になる593年頃から、小野妹子隋に行く607年、大化の改新645年、藤原京に遷都694年といった紀元600年代に当たります。
僕はこの史跡に来るたびに、この横穴群を先住民コロボックル(土蜘蛛人、小人)の住宅との説を唱えた、明治時代の人文学者にして、考古学の先駆者でもある坪井正五郎博士の事を考えます。
穴の中を覗いてみればわかりますが、常識的に、とても人間が生活できるとは思えないこの広さの空間を、人の住居と考えたのは、何故なのか。
博士が日本の石器時代遺跡を先住民であるコロボックル人の生活跡と考えていたからです。
今から考えれば、著名な人文学者がアイヌの伝説にあるコロボックル人の存在を信じていた歴史観にも驚くのですが、博士のこの先入主観はその後の諏訪湖湖底の遺跡調査にもみられるのです。
明治40年代、諏訪湖の曽根と呼ばれる湖底から、沢山の石器、土器片などが発見されました。
坪井正五郎博士は、これを日本では珍しい杭上住居とした学説を唱えられ、それに反対する学者たちとの間で、明治の曽根論争と呼ばれるまでになった論争に発展したのです。
博士の過ちは、湖底の遺跡、イコール杭上住居という先入観があったことです。
このあたりのことを書くと長くなりますが、現在の歴史観、考古学の考え方にも、同じような過ちが含まれていないか、そして今から100年後の歴史に、邪馬台国の存在地、三内丸山遺跡の評価などがどう解明されているのか、興味あることです。
吉見百穴から少し脱線しましたが、この諏訪湖湖底の曽根遺跡は土地陥没説、断層地変説、地滑り説、石器運搬中の船舶転覆説、筏上住居説など多くの反論が発表されましたが、その結末が誠に劇的です。これを知ったとき、僕はこんな事もあるのかと、その後の歴史観に少なからず影響を受けたものです。
 遺跡の年代追求、地質学的解明などをあざ笑うかのような結論、歴史学者藤森栄一氏の著書「旧石器の狩人」から引用すると「曰く――そのとき、一万年前のそのとき、湖はなかったのである――」

 

|

« 吉見町のコスモス畑 | トップページ | 我家のホトトギス »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 吉見町のコスモス畑 | トップページ | 我家のホトトギス »