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2016年2月28日 (日)

東京スカイツリー展望台からの夜景

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2月27日
東京スカイツリー展望台からの夜景を見に行きました。
夕方4時前に当日券チケット売り場の長い列にに並びましたが、土曜日とあって、かなりの混雑でした。結局、一時間半かかってチケットを購入しました。
実は東京スカイツリーを真下から見上げたことは数回あるのですが、展望デッキに登るのは今回が初めてなのです。
チケット売り場では、一人一枚の購入方式がとられ、代表が並んで複数枚購入することはできないことも初めて知りました。
東京デイズニーランドのアトラクション入場のように、チケット売り場まで、ロープに沿って行ったり来たりを繰り返すのは、高齢者にはなかなか辛い時間です。
登った感想は、さすがに地上350mからの、東京を一望する夜景は見ごたえがありました。
入場の長い列の割には、展望デッキの混雑はそれほどでもなく、回廊を廻りながら、着陸間際の飛行機の窓から眺めるような、美しい夜景を眺めることが出来ました。
でも、夜景見物にまた来たいかと聞かれれば、混雑も考え、まあ、一回見れば良いかなという心境です。多分、リピーターにはならないでしょう。
一つ、驚いたのが、分速600mという、東芝製のエレベーターでした。
地上から、350mの高さまでわずか50秒で到達する速さもさることながら、上昇、下降時ともにショックを全く感じさせず、ほとんど動いていないのではないかと思いました。
エレベーターもここまで進化したかと、大容量、日本最速エレベーターに乗って実感しました。
(写真は、残念ながらキラキラした夜景の美しさが出ていません。実際にはもっと明るく、白熱電球のような赤っぽい照明も、ハッキリと輝いていました。一見の価値ありの夜景です)

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2016年2月24日 (水)

スノーシューに行ったけど、山に雪がありませんでした

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2016年2月21日、22日
恒例のスノーシュでの雪山歩きを楽しもうと、友人達と蓼科高原に行ってきました。
入笠山、霧ヶ峰などの事前の情報で、スノーシューが使える積雪は無く、登山道は凍結してアイゼンの世界だと聞いてはおりましたが、これほどとは思いませんでした。
蓼科高原のほとんどの道路に雪は無く、ピタラス蓼科スーリゾートのロープウェイ乗り場までの道路も、雪道を走ることなく到着できます。
蓼科高原のスキー場は、人口雪で滑走可能ですが、コースの周りは芝生が見えています。
幾度か、スノーシューで登ったことがある八子ヶ峰にでもと思いましたが、快適な雪山散歩が望めそうもないので、諦めました。2月にこれほど雪の無いのは初めてです。
数年前の2月、塹壕掘りのようなラッセルを強いられた雪山はどこに行ってしまったのでしょう。(写真下)
スノシューは出来ませんでしたが、快晴に恵まれた2日間は、八ヶ岳、甲斐駒ケ岳などの眺望がすばらしく、それだけでも満足でした。
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(写真は東急ハーヴェスト蓼科からの、八ヶ岳展望。蓼科高原でも屈指の展望ポイントである。主峰赤岳以上に、手前のピラピッドのような阿弥陀岳の姿が立派に見える。右手の権現岳は、僕の好きな山。城塞のようで、貫禄がある。八ヶ岳以外の山には雪がまったく見えない)
写真はクリックすると拡大します。

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2016年2月20日 (土)

ジロボウエンゴサクとアカスジキンカメムシ

アカスジキンカメムシが昆虫の、ジロボウエンゴサクが植物の名前です。どちらもたいへん覚えにくい名前です。
2月14日(日曜日)に、いつもの西原斜面林の手入れ作業に参加しました。
その際、リーダーであるエコシテイ志木のAさんから教わりました。Dsc00264_1024

手入れ作業に加わる度に、植物、昆虫、鳥類などの勉強をすることができます。
作業も楽しいのですが、植物の名前を覚えたり出来ることも嬉しいのです。
エコシティ志木のメンバーと一緒に作業したり、観察会に参加すると、よくぞこれだけの知識があるものだと、感心するばかりです。
アカスジキンカメムシやジロボウエンゴサクなどという名が、スラスラと出てくることが驚きです。

写真上が見つけたアカスジキンカメムシの幼虫です。
成虫の姿と別種類かと思うくらい、色や縞模様が違いまるで別種のようです。成虫は緑色の体色に赤い帯模様が綺麗で、日本で最も美しいカメムシの一つだそうです。

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写真下ジロボウエンゴサクです。
斜面林の落ち葉の中に芽を出していました。
草丈10~20cmほどの小型の多年草で春に、長さ2cmほどの筒状の細長い花を数個から5~6個つけます。花色は淡紅紫色から青紫色など、巾があるそうなので、どんな色の花が咲くか楽しみです。
感じで「次郎坊延胡索」と書きます。ますます、難しいというか奇名です。でも、漢字の方が覚えやすいかもしれません。






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2016年2月15日 (月)

3万5千年前の石器---「志木の遺跡展」

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2月6日、7日の二日間、志木市いろは遊学館で「志木の遺跡展」が開催されたので、見学に行きました。
この展示会は毎年行われ、今回は「柏町地区の遺跡編」です。
志木市内でも柏町地区には多くの遺跡が発見、発掘されています。
展示会では中野遺跡、城山遺跡、中道遺跡、新邸遺跡などの発掘調査の成果がわかりやすく展示されていました。
また発掘調査の方法などを、ビデオ映像を使った講座も開かれていましたし、割れた土器の復元、拓本作りなどが出来るコーナーも作られていました。
石器類も多数展示されていましたが、その中で僕を驚かせたのが「志木最古の道具」と書かれて、3万5千年前の石器が展示されていたことです(写真上)
実は、3万5千年より以前の石器発掘には、日本の考古学界を揺るがした例の「埋められた石器」、すなわち石器捏造事件とのかかわり合いなど、いろいろと問題があるのです。

書きかけ---続く
2月18日追記


石器捏造事件や、その後の日本の考古学界の状況などを書き始めると長くなりますのでそれは無しとして、僕が驚いたわけはふたつ。
ひとつは発掘により、約三万五千年前の石器が発見された西原大塚遺跡が、我家から歩いて10分程の場所だったことです。展示説明によると、地中2メートルほどからの出土です。
驚きのふたつめは、志木市や隣接する富士見市、三芳町などのこの地域に人々が現れたのは、従来の発掘品やその発見地層から約3万年前(後期旧石器時代)と思われていて、展示品の石器を三万五千年前の物だと発表するには、考古学の世界でもなかなか勇気がいる事だろうと思ったことです。
この展示された三万五千年前の石器は、僕の調べた限り、埼玉県最古の石器またはそれに並ぶものになるだろうと思います。
もちろん、石器の型式や地層確認などから、間違いのないものとして発表したことですから、素人の僕などが年代云々を論評できるものではありません。
旧石器といえば、昭和24年(1949年)、日本に土器を伴わない石器の存在が初めて明らかになった、相沢忠洋氏発見の群馬県岩宿遺跡が知られていますが、隣町の三芳町にもこんな話があります。
まだ町が三芳村だった昭和12年、畑の開墾中に赤土の中から、黒曜石の石器や焼けた石が発見されていました。発見者の江原安信氏は戦後になって村の教育委員会に報告されたそうで、発見時に確認されていれば、岩宿以前の日本初の旧石器時代遺物の発見になってなっていたかもしれないというのです。
この三芳町には、県内でも知られた藤久保遺跡群があります。
この藤久保遺跡の東遺跡B地点と東第二遺跡から局部磨製石斧が発見されています。
この石器は約3万年前の層に限って発見される特徴的な石器で、埼玉県内でも、他の2か所でしか発見されておらず、全国的に見ても貴重な資料だそうです。
数年前、三芳町立歴史民俗資料館で行われた旧石器に関する講演会を聞きに行ったことがあります。
古多摩川の湧水地点の旧石器時代の遺跡の話でしたが、講演者は三芳町でも3万年以上前の石器、1万6千年前の土器の出る可能性がある筈と、熱く語ってくれました。
ちなみに1万6千年前というのは、日本最古の土器とされる青森県の大平山元Ⅰ遺跡から1998年に出土した土器片が、放射性炭素C14による測定で約1万6千年前のものと認められているからです。この土器片、一時は、世界最古の土器発見かとされたものです。
志木市の最古と思われる土器片は、平成4年(1992)に城山遺跡第16地点から出土した縄文草創期の爪形文系土器が約1万2千年前後、平成6年(1994)に同じ城山遺跡第21地点から出土した多縄文系土器が約1万1千年前後のものと思われるとの事です。
「遺跡展」を見て、志木市や近隣の富士見市、三芳町などで、今後行われる発掘から、どんな新しい発見がなされるだろうかと、期待が膨らんでくるのでした。

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2016年2月 8日 (月)

冬の野鳥観察会に参加---柳瀬川土手

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NPO法人エコシティ志木の主催による「冬の野鳥観察会」に参加しました。
毎年恒例の行事で、柳瀬川の土手を歩き、野鳥の観察とスタッフの説明を聞く会です。
朝9時に柳瀬川駅前のスーパー、サミット前に集合します。事前申込みの必要はなく、200円の参加費で誰でも参加できます。
この日も、スタッフも含めて、40人近い人たちが集まりました。
 柳瀬川駅横から富士見橋を渡って、左岸に移り、高橋で、また右岸に戻り、志木市役所付近で解散しました。
約2時間の観察会でした。途中、富士見橋付近から、白く光る富士山がよく見えました。
風がやや寒く感じましたが、皆さん元気に、双眼鏡で野鳥を探し、スタッフの持つスコープを覗いたり、鳥の名を質問したりしていました。高橋付近では、カワセミ2羽を発見、皆大喜びでした。
最後に、参加者全員で、今日の観察結果の鳥合わせをしました。結果は、30種類の野鳥を見つけることが出来たと報告され、野鳥観察会を終了しました。
毎年参加していますが、鳥を見てもすぐに名前を思い出せないのは、高山植物と一緒です。
〇出会えた鳥たち

カルガモ  オナガガモ  コガモ  ヒドリガモ  カイツブリ  キジバト

カワウ  アオサギ  ダイサギ  コサギ  オオバン  イカルチドリ  

イソシギ  ユリカモメ  セグロカモメ  カワセミ  チョウゲンボウ

モズ  ハシボソガラス  ハシブトガラス  ヒヨドリ  ムクドリ  ツグミ

ジョウビタキ  スズメ  キセキレイ  ハクセキレイ  セグロセキレイ

タヒバリ  カワラヒワ  

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2016年2月 4日 (木)

パンダの展示中止---運良く一昨日見ました

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一昨日(2016年2月2日)、上野の国立博物館で行われている「始皇帝と大兵馬俑展」を観に行きました。その帰りに久しぶりにパンダを見ようと動物園に寄りました。
大兵馬俑展が時間を忘れるほどの、見ごたえのある展示内容だったこともあり、動物園に駆けつけた時は、4時の入場締切時間の数分前でした。
それがかえって良かったのか、パンダ館前には数える程の見物客しかおらず、2頭のパンダをゆっくりと見ることができました。しばらく運動場をうろうろと動き回っていたパンダが室内に入ると、仰向けになって笹をバリバリと食べ始め、なんとも可愛い姿です。
オスのリーリーとメスのシンシンの見分けがつかなかったのですが、自宅に帰ってから、写真を見ながら調べてみると、この写真、上の笹を食べているのがシンシン、水に顔をつけているのがオスのリーリーではないかと思います。違っているかもしれません。
見分け方の画像がありましたので、載せておきます。
http://mainichi-panda.jp/contents/miwakekata.html

ところで、今日「ジャイアントパンダのオスのリーリーとメスのシンシンは今年に入り、ともに、発情の兆候がみられるようになっていたが、シンシンの尿に含まれるホルモンの値を測ったところ明確な発情の兆候がみられたことから発情期のピークが近いと判断し、4日から展示を中止した」との報道がありました。
なんと、今日から上野動物園の2頭のパンダは、当分見ることができなくなったのです。一昨日見ることができたのは、とても幸運でした。
かわいい赤ちゃんパンダが誕生すると良いですね。(もし、生まれたら、コアラが大好きなアイミちゃん、見にゆくかな?)

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2016年2月 2日 (火)

高麗郡建郡1300年----高麗神社宮司 高麗文康さんの講演を聞く

僕の住む埼玉県には、昔、「高麗郡」が置かれていました。今も高麗神社がその歴史を伝えています。
平成28年(2016年)は、高麗郡建郡1300年との事です。
一般社団法人高麗1300」    http://komagun.jp/ 
「高麗神社」   http://www.komajinja.or.jp/        
この記念すべき年にあたり、建郡1300年を祝おうと、いろいろの行事が行われます。

志木市でも、教育委員会、志木市人権教育推進協議会の主催で、1月30日(土)、歴史から学ぶ未来」と題する講演会が、市内の「いろは遊学館」で行われました。
以前から、同じ埼玉県にある高麗神社の由来などに興味を持っていたので、事前に参加申込みをして講演を聞きに行きました。
講師は、高麗神社祭神の高麗王若光を開祖とする高麗家60代目の当主である高麗文康さんでした。
高句麗の建国と滅亡に至る歴史と、当時の朝鮮の国情、倭国との関係と交流の歴史、渡来した高句麗の人々が武蔵の国に集まり建郡に至る過程、高句麗人を率いた高麗王若光の事、そして高麗神社のゆかりなど、高麗氏の講演はとても聞きごたえのある内容でした。
そして講師自身が、若光の子孫で高麗家当主60代目にあたるというのも、より身近に歴史を感じさせてくれるものになりました。
高麗神社は二度ほど訪ねた事が有りますが、この高麗宮司の講演を聞いて、その歴史をもっと詳しく学んでみたい、そして今年催される記念行事に合わせて、また訪ねたいという思いが強まりました。
武蔵の国の養蚕、小川町の伝統的和紙なども、帰化した高麗の人たちの技術から継承されたと学び、古くから行われてきた文化の交流を、未来に向け、お互いの文化を大切にする気持ちにしなければとあらためて思うのです。

高麗神社の謂れを神社発行のパンフレットより転載します
「霊亀二年(716)武蔵国に「高麗郡」が置かれた。その範囲は」現在の日高市、飯能市、鶴ヶ島市更には川越市、入間市、狭山市の一部に及んだ。
この郡の初代郡司に任命されたのが、高句麗からの渡来人で王族の高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)であった。若光は、高句麗人1799名を率いて高麗郡の開拓にあたった。若光が没した後、郡民がその徳を偲び、高麗郡の守護神として御霊を祀った。これが高麗神社の創建である。創建以来、若光の子孫が代々神社を守り継ぎ、現宮司は高麗家当主六十代目にあたる。」                       Youtube動画「高麗郡 建郡」

https://youtu.be/pNgR7bgoTc4

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