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2015年7月 3日 (金)

米軍が飛行場を作る前の普天間基地の写真

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元宜野湾市長の伊波洋一氏のホームページに、宜野湾市立博物館に展示されている戦前の宜野湾村の写真が掲載されていましたので、転載させていただきます。
<宜野湾市立博物館> 沖縄戦70年企画展 「沖縄戦から70年」「-戦場の宜野湾ー」
http://www.city.ginowan.okinawa.jp/organization/shiritsuhakubutsukan/

3枚目の写真は普天間基地の写真です。博物館展示のの写真と比較できるよう、やや見難いですが原写真を90度回転しました。
(どの写真もクリックすると拡大します)

この戦前の写真だけでなく、宜野湾市のホームページ、博物館、琉球大学や民間の資料などに、
米軍に強制接収される前の普天間飛行場の土地使用状況がわかる資料は沢山あります。数日調べただけでも、かなりの情報が得られました。
百田尚樹氏や評論家の常念司氏、某大学教授などが声高に叫ぶのは、歴史の事実を歪曲するいつもの手法です。有ったことを無いことにする、矮小化する、無かったことを、有ったとする、それも汚い言葉で喚き散らす。

「福島原発は完全にコントロールされている」「東京には何の影響も無い」などと、調べるまでもなく、嘘と分かることを平然と発言する安倍首相の仲間たちは、卑怯者が多いのです。
確かに、戦前の普天間基地周辺は、現在の3枚目の写真のように市街地が密集する状況ではなかったけれど、田んぼではありませんでした。
大人や子供たちが平和に暮らす確かな生活の場だったのです。それを強制的に収奪し飛行場に変えたのは米軍であることは
、「柳瀬川通信報道部」(お久しぶりです。デスク以下作山、男川、農園寺、超美仁記者たち、皆元気で取材活動に奔走しています)が数日にわたり調べましたが、明白な事実でありました。

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月5日朝 追記
柳瀬川通信報道部でもかなり詳細に調べた普天間基地の戦前の状況について、今朝の東京新聞にも
「普天間の歴史踏まえず」との見出しでまとめられていました。
僕たちが調べた過去の資料より、東京新聞に書かれた宜野湾市立博物館の研究員の反論の方がより最新の情報と思われるので、金杉貴雄記者の書いた記事の一部転載させていただきます。
以下転載

百田氏「基地の周りに行けば商売になるということで(人)が住みだした。(そこを)選んで住んだのは誰なのかと言いたくなる」
宜野湾市立博物館の研究員は、「明らかに事実と異なる」と反論している。市史によると、現在の飛行場の敷地には十の字があった。十の字の全ての土地が飛行場の範囲内というわけではないが、十の字には市の人口(25年当時で約一万二千六百人)のおよそ八割が住んでいた。
かっての琉球国王が市北部の普天満宮に参拝した街道が通り、役場や学校、病院もある市の中心部だった。新城という集落は碁盤の目のように計画的に形成されていた。市内の田んぼは西側の海沿いだった。

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コメント

百田氏、これを見て何とうそぶきますかね~。。。

投稿: トックリヤシ | 2015年7月 4日 (土) 09時09分

>トックリヤシさま
いつもコメント、ありがとうございます。百田尚樹、事実を平然とまげて、汚い嘘をつく。唾棄すべき男です。

投稿: Souroku | 2015年7月 4日 (土) 10時35分

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