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2014年9月28日 (日)

再び日向山へ、そして御嶽山噴火のこと

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昨日(2014年9月27日)は、御嶽山から40kmほど離れた、伊那市にいました。
御嶽山が突然噴火した時間帯には、伊那の名物「ソースかつ丼」の有名店で、皆でにこやかに注文の品が運ばれるのを待っていたのです。同じ県内の山で、大変な惨事が起こっているとも知らずに。
前日は、友人たちとの集まりがある伊那市に向かう途中、山梨県白州町の日向山(1660m)に寄り道登山をしました。
日向山は甲斐駒ケ岳から鋸岳への尾根の途中から北側に派生した尾根にある(Wikipediaより引用)眺望のよい山で、頂上付近が花崗岩の風化した白砂のザレバになっていることで知られている山です。
そして下山後に、集合場所である伊那の大芝高原のコテージに宿泊し、友人たちとの楽しい夜を過ごしたのです。
日向山には、昨年登って眺望が得られなかったことから、同じメンバーの3人と、頂上に飛び出すところが劇的に良い山だ、行こう行こうと誘いをかけて友人1人を加えました。
台風16号の去った後の快晴の登山日和に恵まれて、頂上では素晴らしい眺望が待っていました。写真上、甲斐駒ケ岳の雄姿。写真下、八ヶ岳方面の大眺望)
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紅葉にはまだ早い時期でしたが、山頂へと向かう明るい落葉樹の木々の間を抜ける気持ちの良い登山道は、昨年以上に友人たちと山にいる喜びを感じさせてくれました(写真横と下)
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楽しかった登山のことを、もっと書きたいのですが、御嶽山噴火による、同じ登山愛好者の方々の日本登山史上、類を見ない火山噴火による大量遭難を思うと、胸が張りさける思いがして、書くことをためらいます。

美しい紅葉の山が一転地獄の山に変わり、驚かれたでしょう、苦しかったことでしょう。
昨年、同じ仲間で木曽駒ヶ岳に登った際、前方に雄大な姿を見せる御嶽山を見ながら、あの山にも登ろうと話をしたことを思い出し、僕たちも同じ噴火に巻き込まれることだってあったのだと思うと、何とも言えない苦しさがこみ上げてきます。

遭難によりお亡くなりになった登山者の皆様には深く哀悼の意を表します。そして再びこのような惨事が起きないよう、火山の噴火予知対策、そして登山者の安全を守る予報がより充実されることを願うばかりです。

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2014年9月23日 (火)

福島第一原発の爆発 「自衛隊によるヘリコプター放水」

今日も昨日の続きで動画です。
あれこれ書くよりも、事実をきちんと保存しておくことも大切だと思っています。
自民党の軍事に強いと云われる議員さん、福島第一原発での自衛隊ヘリコプターによる放水を見ての話。
「1番機はともかく、2から4番機、とくに2番機と4番機は、敵の95式対空砲が撃ってくるからと、爆撃目標に近づかず、爆弾を投棄しているのと同じだ。○○○○だな」

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2014年9月22日 (月)

自民党の憲法改正 石破茂前幹事長の「軍法会議設置による命令違反への厳罰発言」

「石破茂前幹事長の「軍法会議設置による命令違反への厳罰の発言」、以前のものですがネット上から消える前に残しておきたいと思い保存しました。

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2014年9月18日 (木)

ああ、温泉はいいな

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嶽温泉では、「山のホテル」に宿泊しました。従業員の対応も良く、食事も美味しくて、とても良い宿に泊まることが出来たと思いました。
特に、このホテルの温泉が良かったのです。(写真上)
木製の浴槽(青森ヒバ?)に、白く濁った湯があふれ、常に引き込まれる湯の落ちる音がして、これぞまさしく源泉かけ流しでした。
タイルやし石張りの浴槽も良いのですが、やはり温泉はこうでなくてはと思いました。
泉質は「酸性-カルシウム-塩化物・硫酸塩泉」とのことです。
温泉の泉質の種類は、以前は単純泉、硫黄泉、酸性泉、炭酸泉などと呼ばれていましたが、最近は分類が複雑になり、調べてもよくわかりません。この温泉は飲用もできるそうです。
温泉は宿近くの温度の高低がある2か所の源泉を混合して使っているそうで、季節に応じて適温にするのが、湯守の大切な仕事だと、帰りに弘前駅まで送ってくれた当の湯守でもある宿のご主人が話してくれました。浴槽の湯はまさに適温で、また訪れたくなる温泉の一つになりました。

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2014年9月16日 (火)

弘前城天主を曳屋する

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Dsc01952_1024 先日、初めて訪れた弘前城の天守です。高い石垣の上に3層ながら堂々とした構えを見せています。写真上)
この天守が下部の石垣補修工事のために曳家されることを、見学時に知りました。
この大きな建物を曳家する?。驚いたのですが天守の入口側に廻ってなんとなく納得しました。同じ3層の建物ながら内濠側から見上げた姿からは想像できない佇まいなのです。(写真左)
櫓と呼んだほうがよい建物です。(実はこの天守は櫓を改造したものと説明されていました)
間近に見これなら曳家も可能だろうと思いました。事実、曳家による石垣の補修工事は約100年前の明治年間にも行われていて、今度で2度目だそうです。
そうは言っても、建物を70mも移動するのですから大変です。10年の歳月と工事費約10億円とのこと。今年の秋には内濠が埋められ、来年のお花見時期が終わるとこの天守の曳家工事が始まり、濠に聳え立つ姿は当分見ることができないようです。そうと知らずに来ましたが、濠に姿を映す天守を見ることが出来て幸運でした。10年後といったら、僕は多分---?  
https://www.city.hirosaki.aomori.jp/kanko/shisetsu/park/ishigaki.html  弘前市HP

http://www.hirosakipark.jp/ishigaki.html      弘前公園HP
























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2014年9月10日 (水)

三内丸山遺跡の巨大掘立柱建造物

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青森市の「三内丸山遺跡」を訪ねて、ぜひ実感したかったのが、三内丸山遺跡を広く世に知らしめることになった、この有名な巨大掘立柱建造物です。(写真上と左)
(すべての写真はクリックすると拡大します)

直径2m、深さ2mにも及ぶ柱脚部分の大きな穴(写真上から3枚目と、地下水によって守られ、奇跡的に4000年以上も残っていた直径1mに近い栗の木の柱脚。
この巨大な6本の柱によって支えられていた建造物はどんな形状をしていたのか。
あまりにも諸説があり、復元した青森県としても、他の高床式建物の復元とは一線を画すしかなかったと想像します。
「青森県のHP」にも、屋根を掛けた建物として復元してほしかったとの意見に次のように回答しています。

「特別史跡三内丸山遺跡の大型掘立柱建物については、建物説や非建物説があり、屋根の有無や全体の構造、高さなども様々な見解が示され、大型木柱の発見当初から、その目的やデザインに関して大いに議論が交わされてきたところです。
 県としては、専門家や有識者から構成された基本構想策定委員会での議論を踏まえ、建物説の立場に立ち復元したものです。ただし、固定的なイメージを避けるため、あくまDsc01901_1024でも建築途中とし、完成形は今後の周辺調査の進展や研究成果の蓄積を待ち、今後改めて検討することとしております。
 また、近年の発掘調査で、遺跡北西部から同様に大型木柱が新たに発見され、大型掘立柱建物である可能性が高いものと考えられていることから、復元されている遺構についても大型掘立柱建物の可能性がより高くなっておりますが、依然として決定的な証拠に欠ける点もあるため、今後、目的やデザインについて、さらに調査研究や資料収集に努めていきたいと考えております。」




僕も現地を訪ねるまでは、資料などにより灯台、物見台的な使用を考えていました。
しかし、実際に地形や遺構を見て、今は何らかの建築物、すなわち屋根や一部外壁もある建物の可能性に傾きました。
想像に頼らざるを得ない復元に異論も多いようですが、僕は現地に復元された6本の柱を見て、全体の大きさ、実際はこんなに高い建物ではなかったかもしれませんが、それでも全体像を掴むイメージが得られて、この6本柱の復元は評価できると思いました。
今後の研究が楽しみです。Dsc01909_1024




(復元された大型竪穴建物)











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(上の写真の大型竪穴建物の内部。縄文時代前期~中期(約5900年~4200年前)とはとても想像できない、体感した僕にとっては異次元空間)









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(倉庫に使用されたと思われる高床式建物、柱はかなり太い)





























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2014年9月 8日 (月)

秀峰岩木山に登る

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Dsc01914_1024(写真上、山頂目指して)
(写真左、8合目からの登山リフトを降りると目の前に山頂が見えます)
(すべての写真は、クリックすると拡大します)

2014年9月4日(木)午前10時
日本海の海岸線が眼下にはっきりと見えます。独立峰ならではの360度、さえぎる物の無い展望が広がる山頂に立ち、長年憧れていた本州北端の秀峰、岩木山に登る事が出来ました。

昨日(9月3日)早朝、埼玉の自宅を出て、大宮駅から新幹線で新青森に到着。
すぐにタクシーでこれも長年訪れたかった「三内丸山遺跡」に。
広大な縄文遺跡を大いに興奮しつつ時間をかけて見学してから、新青森駅に戻り、奥羽本線で弘前駅へ。僕もかみさんも弘前は初めてなのです。
弘前城などの市内見学は最終日にすることにして、駅前から旅館の迎えの車に乗り登山口のある嶽温泉まで来て宿泊し、今朝一番のバスで8合目までやってきたのでした。
今回は、かみさんと一緒の旅ながら、岩木山登山、三内丸山遺跡探訪、そして弘前の古い建築物見学と盛りだくさんの計画は、すべて僕の行きたかった場所ばかりです。
岩木山は簡単に登れるよと誘った手前、「嶽登山道」、「百沢登山道」など麓からからの登山コースは選ぶわけにはいかず、嶽温泉に二泊する湯治を兼ねた豪華楽々登山です。

嶽温泉からの岩木スカイラインのバス便は少ないのですが、朝8時半出発のバスに乗れば、8合目まで約40分、そこからリフト利用で9合目に至り、そこから岩のごろごろした登山道をゆっくり登って約45分ほどで、北の秀峰1625mの岩木山山頂に立つことが出来ました。
登ってみて改めてこの山は、山頂近くの火山特有の岩場登りだけでなく、高原から森や沢、雪渓それから山稜へと、高山植物を愛でながら歩いてこそ感激できる山だと思ったのですが、登山にかける残された時間の限りあることを考えれば、こんな登り方もあるのだと自分を納得させるのでした。
かみさんは頂上もよし、登りの時間も適当だが、岩ばかりの登りにくい道は面白くないとの感想。それはそうです。山登りの苦しくも楽しい部分を省いている変則登山ですから。
でも、なんのかんの言っても山は良いですね。しみじみそう思います。岩木山、素晴らしい山でした。

岩木山は皆さんご存知のように日本100名山です。深田久弥さんの著書「日本百名山」の北海道9山の次、本州では最初になる10番目に書かれています。
深田さんは、百名山の各山の記述約1800文字の中で、ご自身が登った登山記録の様子はどの山もその3分の1程度にとどまり、ほとんどを山の様子や歴史に割かれています。

それは百名山の後記の山の選定基準にも書かれています。

○選定についてまず私は三つの基準をおいた。
その第一は山の品格である。誰が見ても立派な山だと感歎するものでなければならない。高さでは合格しても、凡常な山は採らない。厳しさか強さや美しさか、何か人を打ってくるもののない山は採らない。人間にも人品の高下があるように、山にもそれがある。人格ならぬ山格のある山でなければならない。
第二に、私は山の歴史を尊重する。昔から人間と深いかかわりを持った山を除外するわけにはいかない。人々が朝夕仰いで敬まい、その頂に祠をまつるような山は、おのずから名山の資格を持っている。山霊がこもっている。ただ近年の異常な観光業の発達は、古い謂れのある名門の山を通俗化して、もはや山霊も住み所がなくなっている。そういう山を選ぶわけにはいかない。
第三は個性のある山である。個性の顕著なものが注目されるのは芸術作品と同様である。その形体であれ、現象であれ、乃至は伝統であれ、他には無く、その山だけが具えている独自のもの、それを私は尊重する。どこにでもある平凡な山は採らない。もちろんすべいぇの山は一様でなく、それぞれの特徴は持っているが、その中で強烈な個性が私を惹くのである。
付加的条件として、大よそ千五百米以上という線を引いた。

「岩木山」については、深田さんは太宰治の小説「津軽」を引用していますので、恐れ多いのですが、僕もそれを真似させてもらいます。「青空文庫」から頂きました。

「や! 富士。いいなあ。」と私は叫んだ。富士ではなかつた。津軽富士と呼ばれてゐる一千六百二十五メートルの岩木山が、満目の水田の尽きるところに、ふはりと浮んでゐる。実際、軽く浮んでゐる感じなのである。したたるほど真蒼で、富士山よりもつと女らしく、十二単衣の裾を、銀杏(いてふ)の葉をさかさに立てたやうにぱらりとひらいて左右の均斉も正しく、静かに青空に浮んでゐる。決して高い山ではないが、けれども、なかなか、透きとほるくらゐに嬋娟たる美女ではある。
「金木も、どうも、わるくないぢやないか。」私は、あわてたやうな口調で言つた。「わるくないよ。」口をとがらせて言つてゐる。
「いいですな。」お婿さんは落ちついて言つた。
 私はこの旅行で、さまざまの方面からこの津軽富士を眺めたが、弘前から見るといかにも重くどつしりして、岩木山はやはり弘前のものかも知れないと思ふ一方、また津軽平野の金木、五所川原、木造あたりから眺めた岩木山の端正で華奢な姿も忘れられなかつた。西海岸から見た山容は、まるで駄目である。崩れてしまつて、もはや美人の面影は無い。岩木山の美しく見える土地には、米もよくみのり、美人も多いといふ伝説もあるさうだが、米のはうはともかく、この北津軽地方は、こんなにお山が綺麗に見えながら、美人のはうは、どうも、心細いやうに、私には見受けられたが、これは或いは私の観察の浅薄なせゐかも
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(うす曇りで、霞がかかっているような状態ですが、写真以上に日本海の海岸線がよく見えました。双眼鏡があれば、漁港の船まで見えそうです)



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(田澤拓也さんの著書「空と山のあいだーー岩木山・大館鳳鳴高生の五日間」で知られていて、テレビドラマ化されたこともある鳳鳴高校山岳部の4名が亡くなった冬山遭難の関係者の建てられた避難小屋です。彼らの登山コースであった百沢登山道の分岐地点近くに建てられています。遭難は昭和39年1月のことです。今年遭難50周年の慰霊祭が行われました。
この避難小屋から上部の急傾斜の岩場は「第一おみ坂」と呼ばれ落石の多い危険地帯です。後方の大岩は御倉石)


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(もうすぐ山頂)

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(岩木山山頂)

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2014年9月 2日 (火)

水の都、江戸

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今や僅かに面影を残す場所もありますが、江戸と呼ばれた頃の東京は水都でした。
東京新聞の好評連載「かぶき彩時期」2週にわたり水の都・江戸のことが書かれています。江戸の深川芸者のことなど、いつもながら興味深く読みました。(記事はクリックすると拡大して読めます)

水路といえば、我が志木市も江戸初期から大正末期にかけて、新河岸川を利用した江戸と川越を結ぶ物資や文化の交流に重要な役割を果たし発展したそうです。志木河岸に集まる荷物を満載した船や、高瀬舟などの往時を忍ばせる写真が多く残されています。

そう、江戸は水の都であると同時に、多くの山が展望できる「山都」でもあったと著書「東京から見える山、見えた山」で横山厚夫氏が書かれています。広重の「名所江戸百景」や江戸時代の終わりに出版された「江戸名所図会」にも背景に多くの山が描かれています。
水都であり山都でもあった江戸の町に立ってみたいものですね。

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