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2012年9月14日 (金)

2万年前の土器発見に驚くその2---志木市埋蔵文化財保管センターにて

中国での2万年前の土器発見に対し、日本の最古の土器片は、青森県外ヶ浜町にある大平山元Ⅰ遺跡(おおだいやまもといちいせき)で1998年に発見されたものです。
放射性炭素C14による測定で約1万6千年前のものと認められ、一時は、世界最古の土器発見であったことは前回書きました。
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(左写真、大平山元Ⅰ遺跡で発掘された1万6千年前のものとされた土器片。
全て土器片ばかりで形を復元できるものは発見されなかった。
文様は無く
「無文土器、かなり厚手の土器である)

日本国内最古の土器が、現在のところ1万6千年前とすると、我が志木市で発見されたものはどのくらい前のものだろうか。
急に知りたくなって
志木市埋蔵文化財保管センターを訪ねることにしました。
事前に電話で開館されていることを確認してから行きました。我家から自転車で約15Ca390001_320分の距離です。
実はこの埋蔵文化財保管センターの存在は知らなかったので、先ず郷土資料館に行こうとしてネットで調べたらこの施設の存在を知り急遽行先変更をしたのです。

(写真左、柏町にある埋蔵文化財保管センター。2年ほど前に竣工したようだ。正直なところ想像したより立派な建物だったので驚いた。左側の建物が展示スペースになっている)

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この埋蔵文化財の保管センターは、収集した石器、土器などの保管と整理、復元や調査報告書の作成業務などを行っているのですが、施設の一部に発掘品の展示もされています。
応対してくれた市役所の生涯学習課の担当者は次のように話してくれました。
現在、一般開放しているとはいえ、資料館のようにいつでも見学できるのではなく、9時~16時ぐらいの間に、職員が在席している時に見学が出来るそうです。
ただ、最近の市内のマンション建設や宅地造成、建物
新設が急増している事により、発掘調査に手一杯で見学に対応しきれないところもあると、申し訳なさそうに話されました。

さて、それでは
志木市最古の土器の調査結果はどうなったか。
僕の疑問は解決したでしょうか。
応対してくれた生涯学習課の担当者は実に丁寧に教えてくれました。
最古と思われる土器片は、平成4年(1992)に
城山遺跡第16地点から出土した縄文草創期爪形文系土器(写真上)約1万2千年前後、平成6年(1994)に同じ城山遺跡第21地点から出土した多縄文系土器(写真上)約1万1千年前後のものと思われるとの事です
なんと志木市でも約3万年ほど前から人々が活動し、1万2千年前の縄文土器が発見されていたのです。

参考までに
日本の縄文時代は次のように分類されます。(年代は目安)
草創期(1万65
00年~11500年前)縄文文化的な形式の変遷が定着するのは草創期後半から---ウイキペディアより」
早期(11500年~7200年前)
前期(7200年~5500年前)
中期(5500年~4700年前)
後期(4700年~3400年前)
晩期(3400年~2950年前)

それでは
草創期の土器様式の編年は、現在のところどのようになっているかと言うと。
1.無文土器(大平山元Ⅰ遺跡など)
2.豆粒文土器(長崎県泉福寺洞穴など)
 隆起線文系土器群
3.爪型文系土器群(現在まで志木市最古の土器と思われる城山遺跡の第16地点の土器片はこれに当たる)
4.多縄文系土器群(城山遺跡第21地点の土器片はこれに当たる)
    (1)押圧縄文系土器群
    (2)回転縄文系土器群

志木市最古の土器が発見された城山遺跡など、志木市の遺跡は、どのくらいあるか調べてみました。(志木市の文化財第45集-志木市遺跡群19から転載)

以下転載
志木市内遺跡の大部分は、柳瀬川・新河岸川右岸流域の台地縁辺部に帯状に分布している。史跡は柳瀬川上流から順に、
西原大塚遺跡
新邸(あらやしき)遺跡
中道遺跡

城山遺跡
中野遺跡
市場裏遺跡
田子山遺跡
富士前遺跡
大原遺跡
と名付けられている。また、荒川・新河岸川が形成した沖積低地でも、馬場(ばんば)遺跡、宿遺跡、関根兵庫館跡のように自然堤防上に存在する遺跡も明らかにされつつあり、
将来的には新たな遺跡が相次いで発見される可能性がある。なお、現在市内の遺跡総数は、前述した12遺跡に塚の山古墳、城山貝塚を加えた14遺跡である。
*2012年(平成24年)9月19日追記 2遺跡が追加されているようです。
1.市場遺跡
2.氷川前遺跡



ここに書かれているように、志木市でも今後の遺跡発掘により、多くのあらたな埋蔵文化財が発見されると嬉しいですね。
3万年前の石器が発掘されているのですから、土器も1万2千年前を超えてより古い土器が見つかる可能性もあるでしょうから。
実は、僕が縄文式土器に興味を持ち、少し勉強などをしたのは40年前以上前になります。
あらためて今度ブログを書くにあたり、調べてみると新事実の多い事驚くばかり、はっきり言って知らない事ばかりなのです。まさに浦島太郎の心境です。確実に学問は進歩していたのです。
それでも、
この最古の縄文式土器については、どのようにして、また、どこから日本に定着するようになったか(藤森栄一著書より)については、いまだ解明されていないことが多いようで、まだまだこれからの研究を待つことになりそうです。

僕が尊敬している考古学者の故藤森栄一さんが、やはり今から40年ほど前に書かれ、当時の僕の教科書でもあった
「縄文式土器」の一部を転載して、こんどの中国での2万年前の土器発掘の驚きを締めくくることにします。

以下、
藤森栄一著「縄文式土器」より転載

「そこで、問題となるのは、そうした最古の土器群が、どのようにして、またどこから日本に定着するようになったかということである。
南の九州では、古い隆帯文土器や細隆線文土器、さらに爪形文土器までが、細石器を伴っていることから、福井洞穴第三層下部の隆帯文土器を最古として、アジア大陸からの伝播と考える説が有力のようである。
隆帯文土器にしろ細隆線文土器にしろ、一見、始源の土器とは思いにくい成形、焼成上の完璧さが気になる。
そのことは、さらに古い母型の土器が、大陸の未調査のどこかに秘められているとも考えられる。
先史考古学の緻密さにおいて、日本はかならずしも大陸の学会におくれてはいない。
むしろ、日本からこうした古い土器が見出されて、暫時、これにならって大陸の研究が進むということも十分あり得ることで、事実そうした意味から、日本の縄文土器とその年代は世界の考古学会の注目をあびているといっていい。」

以上転載終わり

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写真左上、埋蔵文化財保管センター入口)
(写真左中、展示室の一部、発掘された沢山の土器が復元されて、資料棚に陳列されている)
(写真左下、入口ホールに飾られていた、見事の造形の土器。西大塚遺跡108号住居跡から発掘されたもの。展示してあるが、まだ未整理、未発表との事)
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