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2010年12月29日 (水)

罰があたる?---新義真言宗「ともしび」より

Dscn6100_320  このところ志木も連日のように朝の気温が0度を下回る寒い日が続いています。
冬将軍襲来、テレビの天気予報でも、裏日本は雪だるまマークがつながっています。北国のチビスケ1、2号も吹雪では遊びにも出られないでしょう。

 今年も残すところ、あと3日となりました。今年1年を振り返って昔、祖母によく言われた「罰があたるよ」という言葉、これにあたるようなことをしなかっただろうか、もういちど真義真言宗の小冊子「ともしび」9号に掲載されていた文章を読み返してみました。



罰があたる?---新義真言宗「ともしび」より

 あるご婦人より「住職さん、テレビでこんなこと言ってたけど大丈夫かしら?」という」質問がありました。
何気なくテレビを見ていたテレビで、こんなことをしていたら罰があたるとか、祟りがあると言われて不安とのことでした。
元気なときは気にしなかったことでも、病気のときや、思い通りにならないときなどは、やけに人の言うことが気になるものです。

そんなときはこう考えたらどうでしょう。
仏さまが、自分の大切な子どもや、かわいい孫が供養してくれているのに、写真の飾り方や、位牌の置く場所が悪かっただけで、身体を悪くしたり、仕事がうまくいかなくなるような罰をあてるでしょうか。
子や孫が何かに苦しんでいるとしたら、なんとかしてそれを護ってあげようと思うのではないでしょうか。

昔から、仏教では因果を説きます。
因果と聞くとちょっと難しく思われますが、物事には原因があって、結果はそこから生まれるということなのです。
この因果という考えかたは以外に論理的で、現代科学や一般常識とも、そう大きな違いはありません。
好き勝手な振る舞いをし、好きなものばかり食べて、あとは仏頼みですべてがうまくいくわけがありません。
何でもかんでも、仏さまのせいにしてはいけません。
まず自分が、よく生きる努力をし、何がいけないかを反省する気持ちが大切です。
人間関係がうまくいかないときは、自分の行いを見直してみましょう。
身体が悪いときは、まず食生活や睡眠時など気をつけてみてはいかがでしょうか。
お釈迦さまは、人の苦しみの原因を取り除き、より良い結果を得るために、八正道という教えを説きました。

正 見  自分勝手な見方で、ものを決めつけずに、素直な気持ちで、そのものの本当の姿をよく見きわめる。

正 思   自分のなかにある、うらやむ気持ちや、自分に都合の良い解釈や、不平不満を交えないで物事を考える。

正 語   嘘・二枚舌・悪口・お世辞を使わないで話をする。

正 行   むやみに生き物を殺さず、人のものを盗まず、異性によこしまな気持ちを持たずに生活する。

正 命   背に腹は代えられないと言って、人の迷惑になる仕事や、世の中のためにならない職業を選んではいけない。

正精進   自分のたてた目的のために、近道を選んだり、怠けたりせずに、正しい努力をする。

正 念   自分本位にならずに、正しい心を求め、正しくあり続ける努力をする。

正 定   心を正しい状態におけたら、それを固定して迷わないこと。

自分は一生懸命がんばっているつもりでも、うまくいかないときは、もう一度基本的なルールを見直して、それに反した行いをしていないか、自分を見つめ直してみましょう。
仏の教えや、社会のルールをきちんと守り、がんばっている人に、仏さまが罰をあてるわけがありません。
仏さまはもとより、きっと周りの人も、助けてくれるはずです。

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コメント

souroku様。私も八正道の習得を願っています。
大元密教の教主様である小島大玄氏がお書きになった万朶集という本の532ページには、八正道のそれぞれの解説を次のようにご説明されています。

正見、とは、物事を正しく見ること、どういう風に見れば正しく見られるか。間違った見方をしない。間違った見方をしないことは行に通じていくことになります。

正思、とは、正しく思義すること、正しく考えること、正しく決意することです。

正語、とは、正しく語ること、正しい言葉です。正しく考え、正しく語ることも正見によって可能なことです。

正業、とは、正しく行うこと、正しい行為です。

正命、とは、正しく生活すること。

正進、とは、正しく精進すること、正しい努力です。

正念、とは、正しく専念すること、他のことを全て忘れて専念することです。

正定、とは、心を一点に集中すること、精神を統一することです。真言宗の阿字観というのもこれに通じます。瑜伽瑜祇(ゆがゆぎ)の観法というのもこれに通じます。自分自身で努力して精神を統一し、心を一点に絞って、他の雑念の一つも浮かんで来ないように努力する形です。心を一点に集中すること即ち知見を開くことになり、それにより初めて求むる道が開かれます。このことは、猫がネズミをねらう姿を思い浮かべれば一番理解し易い。穴から出て来るネズミを待って睨んでいる猫は、雑念が微塵もない姿です。これです。この姿が、心を一点に集中して知見を開くということになります。行の経験のある方は、心を一点に集中して知見を開くという言葉を用いただけで、なるほどな、とピンとくるものがあると思う。行を余計積んだ人ほどわかりが早いと思います」

投稿: 小松梨津子 | 2011年1月 3日 (月) 17時09分

>小松梨律子さま
八正道の解説紹介をいただき、ありがとうございました。どこまでやれるかわかりませんが、八正道を日々の暮らしに生かしてゆきたいと思っています。
猫がねずみを狙う姿のこと、武道、スポーツにも通じますね。岩登りにも、この瞬間があります。

投稿: Souroku | 2011年1月 4日 (火) 10時23分

souroku様。実は八正道は、外交において、特に正語が、できていない日本の場面を、NHK 安保50年シリーズで見ました。そして、特に私、本日、1月4日の深夜0時15分から1時13分までのNHK,「同盟への道」をどうしてもsouroku様に見ていただきたくて、そのご意見とご感想とご提言をいただきたくて、ずーっと、それをお伝えしたかったのです。それが、こんな時間になってでは、もう、お休みになられたでしょうね。この日米安保50年の4回のうちの3回目です。再放送なのです。見ていただけないかな。お休みでしたら、私は全文を書き起こしたので、それを後でお送りします

投稿: 小松梨津子 | 2011年1月 4日 (火) 23時07分

>小松梨津子さま
お知らせ頂いたNHKの安保50年第3回「同盟への道」は、残念ながら見ておりません。第1回、第2回は見ました。NHKは不思議なところがあり、以前からこれはかなり偏向しているなと思う番組と、真実を求めて真摯に取り組む番組があります。
「安保50年」は後者と考えて良いと思いました。全文書き起しされたとの事ですが、今はこの番組を見ての感想を書く時間が取れませんので、せっかくのお話ですが、またの機会にさせていただきます。
番組は、下記紹介文でおおよその事は、想像できました。
「日米安保条約の文言は一言一句変わっていないが、その意味するものは50年間で、大きく変貌している。「基地提供」から「防衛協力」へ。「極東」とされた範囲は「世界」へ。「安保体制」は「同盟」とも呼ばれるようになった。こうした変貌の陰で日米関係をコントロールしてきたのは、通称ジャパンハンドと呼ばれるアメリカの対日政策担当者と日本の外務・防衛官僚たちだった。東西冷戦を背景に作られたはずの安保体制を冷戦後も維持、強化させる選択をした彼ら。その過程で国民的議論はあったのか。そこには、したたかなアメリカの戦略ときわめて限られた官僚たちの密接な連携があった。官僚中心に進められてきた日米関係の実態に迫り、あるべき日米関係の姿を探る。」

投稿: Souroku | 2011年1月 7日 (金) 08時56分

NHK日米安保50年、第三回、「日米同盟へ」
再放送も1月4日に終わりました。見た方ももう一度検証してみませんか。
●souroku様、既に見ておられて、この八正道のお話を年末に持って来られたのかなと、思うほどでした。すなわち『物事を正しく見ること、どういうふうに見れば正しく見られるか、間違った観方をしない。間違った観方をしないことは、行に通じて行くことになります。』という『正見』。騙されない国民になる正道です。ゆっくりと見てください。お答えは、おいおい学んでいくうちに多くの方から導かれていくでしょう。
●[ 戦争を起こし殺人したい側 ] と、[ 殺人外交の根を抜く国是としての憲法9条を戒めにしてきた側 ] と、今まで、どうよりあって来たのか。かやの外にあった国民にNHKが扉を開けてくれました。感謝です。
●どこで、誰を使って、どう動かしたのか。その中で、誰かが、何かを隠し、誰かを騙してもいる。また、誰かから騙され、あるいは隠されて国の進路を自分自身の持論と真逆に変えられて、なす術なくいた人々。今でも気付かない人もいる。騙され、隠された結果に平気でいる人。騙した意識が無い人と在る人と、隠した意識が在る人と無い人と、と、いる。
●日本は、選挙によって政権がどう変わろうとも関係無く、アメリカのジャパンハンドに仕えている防衛外務官僚達が、首相や政治家を手玉に取って成す術を持っているのだと、本人達自ら打ち明けている。
●こういう日本の仕組みを見通せなかった私達。ここに良く着眼し、分析と検討を重ねて、官僚政治と言わしめたものを自覚したい。そして、市民と官僚達とのパイプが必要なのでしょうか。小松記す)

ナレーター
●(冒頭は、北海道上富良野演習場で、2010年11月における『日米共同軍事演習』の実態映像です)
●自衛隊のヘリコプターから降りてくるアメリカ軍の兵士達。今、日本とアメリカは『軍事的一体化』を『同盟』の名のもとに進めています。
●リチャード・アーミテージ(元国務副長官)の発言「『同盟』とは、お互いの為に『血を流す関係』を意味します。アメリカは日本守るために『血を流す』。自衛隊も共に『血を流す。』それこそが、『同盟』なのです。」

●(『血を流す』とは、『殺人をする戦争』をアーミテージは意味しています。だが、これは、平和外交思想である憲法9条の精神と真逆の、殺人外交思想で戦争勃発因子の根っこです。小松記す)
ナレーター
●アメリカが『血を流す関係だ』という『日米同盟』
●しかし、「1960年の日米安全保障条約」でアメリカが求めたのは、「日本にある施設や区域を『基地』として使用すること」でした。(日米安全保障条約の1960年1月19日締結本文を映す
●その後、条文は、一度も書き換えられていません。
●では何故、『共に血を流すことを求められる関係へ』と変貌していったのでしょうか。

ナレーター
半世紀に亘る日米安保体制。その歩みは、軍事協力をめぐって、政治が激しく対立する波乱に満ちたものでした。(国会での議員達の乱闘が映る)
●その陰で、日米安保体制を強化してきたのが、日本の外務防衛官僚と、それに通じたアメリカの対日担当者『ジャパン・ハンド』でした。
●東西冷戦期、軍事協力に慎重だった日本が、アメリカの望んでいた或る軍用機を導入。そこにはジャパン・ハンドのしたたかな戦略がありました。
●そして、日本側との連携によって、日米安保を実質的な軍事同盟にして行ったのです。

●田中均(元外務審議官)の発言「安保条約を改定して行ってから50年の歴史というのは、基本的に日本が、安全保障政策の外縁をどこまで広げるかということをずっとやって来たわけですね。」

●安保条約の改定から50年、『日米安保』が『同盟へ』と変貌して行ったその知られざる実態です。

日米安保50年、第三回、「日米安保」から「日米同盟」へ

国谷裕子アナ
海上自衛隊とアメリカ海軍が共同で使用している神奈川県にありますアメリカ軍が管理している厚木基地に来ています。
●この夏、アメリカと日本の艦船や軍用機などから得られる機密情報をここに集約し、自衛隊とアメリカ軍が共有することで、役割分担を円滑に進めることを目的にした新しい施設が完成していたことがNHKの取材で明らかになりました。これは現在進められています日米間の軍事協力強化を示すものです。
日米安保の問題と言えば、今回のシリーズでお伝えしていますように、在日米軍の基地問題という面に焦点が絞られがちです。
●しかし国際情勢の大きな変化の中で、この国の外交、安全保障政策はいかにあるべきか、この半世紀、日本はアメリカに守られる中で、自ら議論を深めることはありませんでした。
●その一方で安保条約の条文は一字一句変わっていない中で、日米安保体制は大きく質的に変化しました。
●経済大国となった日本に対して、防衛の役割分担を求めるようになったアメリカ、そして、冷戦終結後、それまで共通の脅威が失われたことで、日米安保体制はさらに大きく変質を遂げていくことになったのです。
●日米安全保障条約と戦争の放棄をうたった憲法第9条、この二つを外交、安全保障政策の土台として来ました日本。
●日米安保50年、シリーズ3回目は、日米安全保障体制がどのようなプロセスで大きな変貌を遂げ、現在のように軍事協力関係の強化に向かっていくことになったのか、その実像に迫ってまいります。

●●安保体制の大きな変貌、その大きな流れは冷戦終結前の1981年に始まっていました。
(この分析が、日本外交の欠点を正すカギですが、どう正せば良かったのでしょう。小松記す)

ナレーター
自由民主党本部です。その玄関には歴代総裁の写真が並んでいます。
●この中に日米安保体制を実質的に変えるきっかけを作った人物がいます。
●東西冷戦期の1980年から82年まで総理大臣を務めた鈴木善幸氏です。
●日本の総理大臣として初めてアメリカとの関係を『同盟』と、公式文書に明記。
●「どのような防衛分担をするのか」、役割を明確にしました。
●「社会党の代議士として初当選し、その後自民党に所属するようになった鈴木善幸氏は鳩派として知られていました。それがなぜ重大な一歩を踏み出すことになったのか。」
●その背景に、日本に駐在していた一人のアメリカ人が深く関わっていたことが明らかになって来ました。
●アメリカ海軍の艦長だったジェームズ・アワー氏です。ジェームズ・アワー氏は、この直後に国防総省の日本部長に就任。『ジャパン・ハンド』となりました。
●●『ジャパン・ハンド』とは、ホワイトハウスや国務省、国防総省に所属し、日本に政策の提言や要求をしてきた人々です。その多くがライシャワー元駐日大使や、日本研究家のエズラ・ボーゲル氏(当時ハーバード大学教授)のもとで学び日本社会を知り尽くした人々です。

アワー氏が日本部長となった時、アメリカが直面していたのが、ソビエトの軍事的脅威でした。
1979年12月、ソビエトがアフガニスタンに侵攻。
カーター大統領は、ソビエトに対抗するため、軍事行動も辞さないと世界に訴えました。
カーター(当時大統領)の発言「ソ連はアフガニスタンの人々を支配下に置こうとしている。西側諸国の英知と能力が試されている。」
●この時、アメリカでは、経済大国となりながらも、防衛費を増やそうとしない鈴木政権に対する不満が高まっていました。
●対日政策を担うアワー氏の使命、それは鈴木政権から軍事的な協力を取り付けることでした。
ジェームズ・アワー(元国防総省、日本部長)の発言「当時アメリカは、日本に防衛面で意味のある役割を担ってほしいと考えていました。問題は『日本が果たすべき責任を認識するか』にありました。私の仕事は、その役割を提案し、それを受け入れてもらうことでした。」
●日本から、どのような協力を引き出すか、この時、アワー氏は、ある軍用機に目をつけました。アメリカが開発したP-3C対潜哨戒機です。最新鋭の電子機器を搭載したこの飛行機は、ソビエトの潜水艦を見つけ出し、その動きを長時間にわたって監視することができました。当時ソビエトの潜水艦はウラジオストックを拠点に活動していました。
●潜水艦が海峡を抜けオホーツク海や太平洋に出れば、核ミサイルでアメリカを狙うことができるだけに、その位置を把握することはアメリカにとって死活問題でした。
●アメリカは保有するP3Cを使って潜水艦を監視していましたが、その数は十分ではありませんでした。

当時日本にもP3Cを導入する計画がありましたが、配備はまだされていませんでした。
●アワー氏は、このP3Cを日本に早期に配備させ、アメリカの戦略の一端を担わせられないかと考えたのです。
●ジェームズ・アワー氏の発言「ソビエトの潜水艦の数は、当時のアメリカ海軍の哨戒能力を大きく上回っていました。(これも、嘘であると報道しているのが、弁理士の日々のブログにあった。)
もしも、日本がこの海域での活動を強化すれば、アメリカの力と合わせて強い抑止力になるのではないかと考えていました。」
しかし、これを日本政府に実現させることには、大きな壁がありました。
●この時期、国会は日米安保条約に反対する社会党と共産党がおよそ3割の議席を占め、政府が行うアメリカへの協力に激しく反発していました。
飛鳥田一雄(当時社会党委員長)の国会内発言「またアメリカに追従して、ソ連に対する経済制裁には慎重であるべきだ」
●こうした中、鈴木総理は、アジア外交を重視し、軍事大国にはならないと繰り返し発言していました。
●鈴木総理の国会内発言「日本は経済大国ではあるけれども、軍事大国にはならない。平和国家として、その経済的、あるいは、技術的、その他の面で、世界の平和と繁栄に貢献していきたい」
鈴木政権を支え、後に防衛庁長官となる加藤紘一氏です。当時は、アメリカへの防衛協力を公にすることはとてもできなかったと言います。
●加藤紘一(元防衛庁長官))「平和憲法というものも制定された経緯もあってね、『いかなる軍事的な言葉も、軍事的な行動も、使いたくない。しゃべりたくない。』という国なわけです。『その事実を言う』ということも大変憚られた国内政治状況だったわけです。」
●表立ってアメリカに協力を表明できない日本政府を、どう動かすのか。そのうってつけの理由をアワー氏はすでに見つけていました。
●実は、アワー氏は、アメリカ人として初めて自衛隊の幹部学校に留学した経験がありました。その時に見た或る地図がヒントになりました。
●アワー氏の発言「或る日昼休みに同級生と話していると、そこに地図があり線が引かれていました。一つは東京からグアム、もう一つは大阪から『バシー海峡』(フィリピンと台湾の間)へ延びていました。」
●アワー氏が見た線は、『中村ライン』と呼ばれていました。海上幕僚長を務めた中村悌次氏が示した線で、日本が目指す海上交通路の防衛範囲を表していました。
●海上交通路、いわゆるシーレーンの防衛は、貿易立国日本の死活問題だと考えていました。
中村氏のまとめていたメモが残されています。そこでは、海上交通を確保できなければ、社会的混乱を招き、国家体制の維持がきわめて困難になると指摘。哨戒機を使って敵潜水艦の行動を封じ込める必要性を訴えています。中村氏が検討していたのは二つのシーレーン。その距離およそ一千カイリ。最新鋭のP3Cならその範囲をカバーすることができます。
●アワー氏はシーレーン防衛を名目に、日本がP3Cを導入すれば、それを北方のソビエト潜水艦の監視にも使えると考えたのです。
●アワー氏の発言「日本が想定していた二つの線の防衛ならば、国民にもマスコミにも説明するのは簡単に違いないと思いました。しかも、その哨戒能力があれば、北西太平洋のどこにでも利用できるのです。」
●アワー氏が考えたプランをどう実現するのか。
●1981年4月、アワー氏が来日。赤坂の料亭に姿を現します。この時撮影された写真です。
●アワー氏は上司になったばかりのリチャード・アーミテージ国防次官補代理と共に会食に出席します。日本側からは外務省や防衛省の幹部、そして、自衛隊の海上幕僚長も出席していました。
●防衛省の参事官だった岡崎久彦氏は、アワー氏から日本がP3Cを導入するなどしてアメリカに協力してほしいと告げられたことを覚えています。
●岡崎久彦氏(元防衛庁参事官)の発言「初めっからそれを買えというのではなしに、日本の役割は何だというところからしてですね、『対潜哨戒』、それに力を入れてくれること。要するにあの頃は、ソ連の脅威が最大ですからね。日本が協力してくれることは良いと。要するに動かないのは日本だけですから。日本を動かすことが大事ですからね。」
当時防衛力を強化したいという考えは、安全保障を担当する日本の官僚達の間で共通していたと岡崎氏は言います。
岡崎久彦氏の発言「日本の安全が何よりも大事と思っていますからね。防衛力が、一貫して性能が足りなかったと思っている。私共は、少しでも日本の防衛力を増強したい。」
●アワー氏は、この日、手ごたえを感じていました。
●アワー氏の発言「防衛省も外務省も安全保障の担当者は、日本がより積極的な役割を果たす必要があることを理解していました。
●ですから残された問題は、日本政府がそのことを許すかどうかでした。」

●はたして、誰が鈴木総理の了解を取り付けるのか。
その説明役を担ったのは、防衛庁の塩田章防衛局長でした。
●●しかし、塩田氏には、対ソビエト戦略というアメリカの真の狙いは知らされていませんでした。
(ここが、政治家を絡め取る心理作戦を米国のジャパンハンドと外務省、防衛省の官僚で決行した点か小松記す)
●「旧自治省出身の塩田氏に伝えられていたのは、シーレーン防衛の予算の確保を海上自衛隊が強く望んでいるということでした。そのための了解を鈴木総理から取り付けることが重要な使命だと考えていたのです。
●塩田章(元防衛庁防衛局長)の発言「シーレーンの防衛の話は随分しました。範囲を1000カイリにしているのは、海上自衛隊がそのくらいまでしかできないというよりも、そこまでは是非やりたいという意味の1000カイリですよ。アメリカから頼まれているとか、そんなことは全然意識が無かったですね。」
(シーレーンは、南限を、中華民国台湾を超えフィリピンとの間のバシー海峡に拡大し、もうひとつの南限は、硫黄島を超えグアムに拡大している。よその国家の領域にまで踏み込んでいるのに、アメリカから頼まれない話を自衛隊が持ち込むことは在りえないと気づくのが正見。さらに、この実行が、アメリカ軍の役割分担になると認識するのが正見であった。小松記す)


●この時の塩田氏の説明が、後に大きな意味を持つことになります。


●この年の5月(1981年)就任したばかりのレーガン大統領と(ワシントンで)首脳会談に臨んだ鈴木総理。会談直後の会見で、日本のシーレーン防衛について聞かれ、次のように答えます。
●●鈴木総理の発言「シーレーン、海上交通路につきましては、約1000カイリ、1000マイル。こういうものを、憲法の条章とも照らし合わせまして、我国自衛の範囲内としてそれを守っていく。」
●ナレーターの発言・この発言について、鈴木氏は後に、アメリカから求められた役割分担を公約したとか、約束したものではないと語っています。(著書、元総理鈴木善幸、『激動の日本政治を語る』の中で)
(正見出来なかったということをただ単に言っているにすぎないと観るのか、それとも、souroku様は、鈴木総理の気持に沿って、何か警察的なものを想定されておられたと見られるのか。この下記のアワー氏との反応との差を何に起因していると考えるか、お聞きしたい。小松記す)
●●しかし、この発言は、アワー氏にとっては、まさにアメリカが求める役割分担に応えたものだったのです。
●●アワー氏の発言「わおー、私はすごいと思わず叫びました。鈴木総理の発言は、日本が、果たす役割をはっきりさせるものでした。日本の政策をこれ程明確に説明した総理大臣は初めてでした。」
●●鈴木総理の発言は、「『日本』が、『アメリカの役割と任務』を受け入れた」と国防報告(1985年)に記され歴史に刻まれます。
(鈴木総理の気持とアワーの気持ちは真逆だった。鈴木総理は危惧していたのに、シーレーンというものの本質がわかっていなかった。どういうものか、日本の国境を超え、他国の範囲も越えて、それを自衛とする言葉を使ったあたりが、アメリカの覇権主義と同根の同盟にあると捉えられたのか。小松記す)


●鈴木総理の訪米からおよそ半年後、日本に最初のP3Cが導入されました。
●●自衛隊のP3Cは、その後、アワー氏が考えていた北方にも運用されることになります。
(北方に運用していった経緯は、政府内でどう討議されたか、ここでは取り上げてはいない。小松記す)
●ウラジオストックから出たソビエトの潜水艦を何週間にもわたって追尾する役割も担いました。

●岡崎久彦氏(元防衛庁参事官)の発言「冷戦の勝利というのはね、東アジアでは日本のおかげですよ。日本の防衛力増強のおかげです。だからジェームズ・アワーがね、『知られざる成功物語』それが80年代の日米関係だと。」
●アワーの発言「P3Cは、自衛隊が保有した最高の哨戒機です。冷戦中、日米のP3Cは、ソビエトに対して素晴らしい効果を発揮したのです。」
(ここでも、岡崎氏は日本のおかげとしたが、アワー氏はP3Cのおかげ、即ちアメリカのおかげとして結論を煮詰めている。小松記す)

●アメリカの狙いを知らされることなく鈴木総理に説明していた塩田氏。P3Cの運用が始まった後、その思惑に初めて気づいたと言います。
●塩田章(元防衛庁防衛局長)の話「それがどうして初めから気づかなかったのかと思うんだけれども、これは大事なことだなと思うようになりました。『シーレーン防衛作戦というのは対潜作戦だ』ということを考えれば、その潜水艦がどこでどれだけ居るか、その潜水艦がいつどうやって来るかというようなことは、当然考えなくてはならないことだ。段々段々知識が出てくる話であって、初めから海上防衛の専門家でも何でもないしね。」

●アメリカとの防衛協力を大きく進めることになった鈴木総理。もう一つ、重要な言葉を歴史に刻みます。
●●それは、日米の公式文書(1981年日米共同声明)の中で初めて両国を『同盟関係』としたことです。
当時、『同盟』という言葉は、戦前に日本がドイツ、イタリアと結んだ三国同盟を連想させるものだとして、それを使うことはタブーとされていました。
●●1960年代に改定された安保条約でも、日本とアメリカは『友好』の関係と記されていました。それが、なぜ『同盟』となったのか。

●公式文章を作成した外務省の有馬龍夫氏(元在米日本大使館、政務班長)、『同盟』を入れたのは、アメリカからの要望だったと言います。ソビエトに対抗する上でも日本の立場を明確にしてほしいという理由からでした。(このソビエトに対抗するためという理由だが、策であった。なぜなら、ソ連が崩壊してから後もなお、同盟を、どう使ったかに、本音が出ているのではないか。小松記す)
●有馬龍夫氏の発言「若干の問題が在り得るということは、皆感じてはいたと思いますけれども、これは十分に乗り越えうる問題だと。あの時代、強調したかったことは、日米両国は、やはり自由民主主義という共通の価値を有していて、それに基づいて国際上における諸々の問題解決ための協力をするということだったのですね。」
(有馬氏の発言の『若干の問題が在り得る』の言葉が正語ではない。『日本の将来が、軍事力を志向する同盟関係になるかどうかの根底に実弾演習による莫大に重要な環境汚染問題が現われ、国民の健康を蝕んでいくのだという認識』に今もってまだ至っていない愚かな発言だった。この「若干の問題」とか、「十分に乗り越えうる問題だ」という認識は、有馬氏の中にあって、鈴木氏の中には無かった。そして、選挙で選抜されて来て全権の権限を持っている人が鈴木氏だった。だが、この危惧している鈴木氏ではなく、有馬氏の心の中の認識が、民主主義というルートを通らないで、日本の行く道を決定したこと。これが、官僚政治かと。さらに彼らに責任を負わせる術をしらない。そして、今後も、このまま続くかということに、どこをどう直すのかという問いがあるので、souroku様の御見解を伺いたい。小松記す)

●この『同盟』という言葉を入れることについて、官邸側は、軍事同盟を連想させるのではないかと懸念していました。
●旧通産省の官僚で、鈴木総理の秘書官だった畠山襄氏です。
●鈴木総理に対して、外務省は、「『同盟』には、軍事的意味合いは無い」と強調していたことを鮮明に覚えています。
●畠山襄(元鈴木首相秘書官)の発言「『同盟』関係とは、政治的、経済的、社会的、文化的、その他総合的関係を言うと。言うことであって、軍事的関係は、入っておりませんので、軍事的意味合いはありませんという説明を受けていましたね。
●しかし、アメリカ側は違う考えを持っていました。
●国防次官補代理のアーミテージ氏は、『同盟』は、日本のアメリカに対する軍事協力を明確にすることだったと言います。
●リチャード・アーミテージ(元国防次官補代理)の発言「日本が、『同盟』という言葉を盛り込むと聞いて、わくわくしました。これは、別れることのできない結婚なのだと。アメリカは、日本を守るために『血を流す』。自衛隊も共に『血を流す』それこそが『同盟』なのです。」
●日米の『同盟』に対する考え方の違い。それが、大きな混乱をもたらします。
●1981年5月8日、日本人記者との会見で、『同盟』の意味を問われた鈴木総理は、外務省の説明通りに答えました。
●●鈴木善幸(当時総理)の発言「日米全く同じ立場に価値観を持っているわけでございます。これを守っていこうという立場。私は、そういうことを含めてですね『同盟関係』ということを言っているのでありまして、軍事的な意味合いは持っていない。」
●アメリカは、この発言に耳を疑いました。
●リチャード・アーミテージの発言「私はがっかりしました。鈴木総理は、『同盟』という言葉の意味を理解していませんでした。アメリカ人にとって、『同盟』とは、共に戦うという意味以外には無いのです。

●アメリカの反応も受けて、外務省内で緊急の協議が行われます。
●発言から五日後、政府は統一見解を発表し、鈴木総理の発言を事実上修正。
●●『同盟』には「軍事的側面は在るものの、新たな軍事的意味を持つものではない」としたのです。
(こんなわかりにくい言葉、どっちにも取れる言葉でその場しのぎ外交をし、国民は騙された。『八正道の正語』でなければ正しい道は作れないと釈尊は語ったというのに。小松記す)
●●宮沢喜一(当時官房長官、1981年5月13日)の発言「いわゆる安全保障というものが両国の関係の大事な部分であることには、変わりがありません。今までと同じことですから。」
(この発言は、逆の立場の者達が聞くと、意味が双方真逆に受け取れる。日本では丸く収める手練手管が、、日本を背負う外交では、相手国を制しえない。タヌキジジイは日本人を化かせるが、米国人には食われる様だ。この結果、厳密に言えば、『同盟』という言葉を公文書に入れたのは、鈴木総理ではなくて、「嫌だという鈴木総理」を宮沢喜一官房長官が、無理やり化かせて入れさせたということかと考えるべきなのではないか。 小松記す)

●日本政府の統一見解を受けて、アーミテージ氏が国防長官にあてた報告書が残されています。(1981年5月16日付)「『同盟』という言葉が、戦後初めて日本の公式文書で使われた。これは、日本が戦時中のドイツとの関係で使って以来のことである。今や自民党の指導者達の多くは、「同盟」には軍事的な意味合いがあることを知っている。今回の騒動の最大の敗者は、鈴木総理自身だ。」
(このようにして、アメリカの意向と反対の鈴木総理をつぶして行くのがジャパンハンドのやり口で、日本人は観えていないから、丸めこむのに簡単と言われているのではないか。小松記す)
●『同盟』をめぐる発言をきっかけに、鈴木総理は、党内での求心力を失い、再選への道は断たれます。
●『同盟』という言葉に対する「認識のずれ」。それを残したまま、日米安保は、日米同盟へと動き始めたのです。


国谷裕子アナの発言「ソビエト封じ込めの一翼を担ったP3C。対潜哨戒機が、(神奈川県、厚木基地の)あちらの後ろに見えています。現在日本が保有しているこのP3Cの数は世界で2番目に多い86機に上っています。今ではごく一般的に『同盟と呼ばれるようになった日米関係。アメリカの対日担当者の一人は、『同盟』の意味について、「有事の時に互いに血を流す関係だ」と話ていました。1981年に公式文書に初めて『同盟』と表現され、日米安保体制は、大きく質的変化に踏み込んで行ったわけですけれども、ご覧いただきましたように、国民への説明は非常にあいまいで、日米関係が新たな段階に踏み込んで行ったことについての国民的認識が深まることはありませんでした。日米同盟と言われるようになった日米関係。その後、さらに大きく変貌していくことになります。そのきっかけとなったのが、冷戦終結後、それまでの共通の敵が無くなったことで、日本が日米同盟有りきの安全保障政策について、その見直しの模索を始めたことにあります。」

日米安保に対する国民の支持率を表したグラフです。この30年、支持率は大きく上昇し、現在では7割を超えて(77,3%)います。しかし過去に一度、支持率を大きく下げた時期(91年、62,4%)があります。1989年のベルリンの壁の崩壊と、東西冷戦の終結。ソビエトという共通の敵を失ったことで、日米安保体制はその存在意義が大きく揺らぎました。
日本では38年続いた自民党体制が崩れ、細川政権が誕生します。(1993年8月)
細川総理は、ソビエトの脅威が消えたとして、防衛政策を見直しの宣言をします。
●細川護煕(当時首相)の発言「冷戦構造のもとでおよそ20年程前に、防衛の基本的な在り方として策定をされた防衛計画の大綱としても、今はたして、時代の要請にそれが適合したものであるかどうか」
●細川総理は、防衛問題懇談会を(1994年2月)開催。新たな防衛政策を提言するリポートの作成を目指しました。

リポートの執筆を担当した東京大学名誉教授の渡辺昭夫氏です。渡辺氏は、アメリカ一辺倒の安保政策を見直し、多国間安全保障への転換を訴えました。
●●多国間安全保障とは、アメリカとの二国間関係だけに頼るのではなく、日本が積極的に働きかけ、複数の国と連携して安全を守って行こうという考え方です。
●●渡辺昭夫(東京大学名誉教授)の発言「初めに日米同盟ありきとか、リーダーとしてのアメリカがあって、それに対しての日本がどうついていくかというのが、「日米基軸論」であるとすると、そういうものの考え方を脱却して、新しい見地から、日米関係なら、日米関係について考え直して行く。」
●●渡辺氏が書いたリポートの草案です。(日本の安全保障と防衛力の在り方、21世紀へ向けての展望。第2稿に「一方的な行動に走らず、条約の意義を見直す必要」とある映像が出る)
●●唯一の超大国になったアメリカが、一方的な行動に走ることへの懸念を示し、安保条約の意義を見直すことを主張する内容です。

当時細川内閣の官房副長官として懇談会に出席していた鳩山由紀夫氏です。
鳩山由紀夫(細川内閣で元官房副長官)の発言「政権交代をする時に、こういう議論というものがなされるべき時であったし、しかも、あの時は東西冷戦が無くなって、新しい安全保障の在り方が世界全体で模索されていた時ですから、日本として当然そういう議論が起きて当たり前の時であったなと。」
しかし、外務省の中には懇談会の議論について、懸念も広がっていました。
●懇談会の委員だった元駐米大使の大河原良雄氏、多国間安全保障の主張は、アメリカから同盟軽視と受け取られかねないと発言しました。
●大河原良雄(元駐米大使)の発言「安全保障問題の取り扱いを、アメリカに誤解を与えるような形でまとめるということは大変望ましくない。日米条約破棄というふうな議論につながっていったら、日本の安全保障をどうやって確保していくのか。日本の防衛をどう考えるのかという問題が、現に出てくるわけですね。」
●●懇談会の議論は、アメリカにも伝わっていました。
●当時国防総省の日本部長を務めていたポール・ジアラ氏。P3Cの乗務員として日本に勤務したことがあるジアラ氏は、冷戦後も日米安保を維持すべきだと考えていました。
●●防衛庁が密かにアメリカに届けたメモです。
●●そこには、リポートの途中段階の内容(多国間安全保障)が要約されていました。
(アメリカが、国内の防衛問題懇談会を、他国に情報を横流しする人がいたら、これをスパイ罪とし、官僚としても即刻首を切るだろう。だが、日本の防衛庁の官僚が、アメリカに情報を隠密裏に横流しした場合は、首を切られず、上まで登り、日本国民に情報を正しく伝えようとした防衛自衛官は、首を切られた。この行きつく先は、どうなるのか民主主義は。そう思っていると、ウィキリークスが出現してくるようになった。小松記す)
●●ポール・ジアラ(元国防総省、日本部長)の発言「リポートが出そうとした結論は、日本の国益に沿うものではありませんでした。我々は皆深刻に受け止めました。それは無責任な意見であり、見過ごすことなどできませんでした。」
●●リポートを作成していた渡辺氏のもとにアメリカ側の懸念が頻繁に寄せられるようになります。
●●防衛庁を通じて届けられた手紙です。「多国間安全保障などという幼稚な考えは、同盟を傷つける。たとえ、日本がそれを目指しても、戦争という悲惨な歴史を忘れていないアジア諸国は受け入れないだろう。(指導力の限界と活字映像が出る)」
●懇談会の後、防衛庁職員が渡辺氏を呼びとめ、アメリカの懸念をささやくこともありました。
●渡辺昭夫氏の発言「お役所の方から、『実は、アメリカで内々にサウンドしてみた結果、こういう風な考え方がありました』というふうな形で私のところにご注進がありましてね、『先生どうしますか。アメリカの力をアメリカを袖にするということをもし考えているとしたら大間違いだよ。アメリカを無しにして、君たちが一人でやっていこうとしたら、やっていけるわけが無いのだ』と。こういうわけですよね。」
半年間の議論の末、渡辺氏が、当初意図していた内容は大きく修正されます。
●「アメリカが、一方的な行動に走らず」という単独行動主義への懸念は削除。(イラク開戦で現実化したが)●「安保条約の意義を見直す」とされた部分は「意義を再認識」と置き換えられました
●「国際的協力と日米安保体制」という見出しは、「日米安保体制の充実」に修正されました
●完成したリポートから、日米安保見直しの方向性はかき消されたのです。
●渡辺昭夫(東大名誉教授)の発言「何も問題は提起しないで、アメリカが何か言って来るまで待っていましょうという、そういうことでもし考えているとしたら、これは困ったことで、少なくともそういう悪習を打ち破る一つの石を投げたつもりなのだけれど、どうもうまくいかないのかなあ。なかなかねえ。」
毎回のように懇談会に出席し、議論を見守っていた鳩山氏。総理大臣を経験した今も、日本の安全保障政策を見直す難しさを感じています。
鳩山由紀夫(前首相)の発言「安全保障の議論というのは、ぽっと成り立ての総理に何がわかるのだという思いも彼らにはあったのではないでしょうか。すなわち、今まで数十年間積み立ててきた日本とアメリカの信頼関係をそんなに簡単に壊せる話ではないよと。外務省と防衛省が中心となって造り上げて来たわけです。そして、やはり彼らの考え方からすれば、アメリカあっての日本の防衛だというふうに思っておるわけですから。」

●日米同盟が漂流しかけたこの年、日本の外務防衛官僚とジャパンハンドが、同盟の重要性を再認識する事態が発生します。北朝鮮の核開発疑惑です。「ここからソウルまでは遠くない。戦争になれば、ソウルは火の海だ。」
この時、クリントン政権は、北朝鮮への攻撃を覚悟します。
朝鮮半島に向けて二隻の空母を含む艦隊を(神奈川県横須賀基地から1994年3月)派遣。戦争寸前まで危機が高まりました。

これを受けて国防次官補のジョセフ・ナイ氏(当時国防次官補)がまとめたのが冷戦後の新たな日米同盟の基礎となる『東アジア戦略レポート(1995年2月)』です。
●東アジアは、(朝鮮半島の軍事的脅威により)依然不安定であり、冷戦後も10万人規模の米軍兵力をこの地域に維持する必要があると明記。中でも日本は、アメリカのアジア戦略の重要な前線基地として位置付けられています。
●ジョセフ・ナイ(元国防次官補)の発言「当時、北朝鮮問題は差し迫った危機でした。日米安保条約が冷戦の遺物でないことは明白でした。その存在は、東アジアの安定に不可欠であり、アメリカ軍が引き続き日本に駐留することは重要な意味が在ったのです。
●ナイ氏が描いたビジョンをどう実現するか。
●1995年5月、ジャパンハンドと日本の外務防衛官僚達がワシントン郊外のホテルに集まりました。
ポール・ジアラ(元国防総省、日本部長)「この場所で、冷戦後の日米同盟をどうしていくのか、極めて重要で意味のある話し合いを行いました。」
参加したのは、日米合わせておよそ30人。北朝鮮有事を踏まえた冷戦後の日米安保について議論する二日間の合宿が行われました。防衛庁の秋山昌廣氏。日本の防衛に欠かせない日米安保を再確認する良い機会だと考えていました。
秋山昌廣(元防衛次官)の発言「僕らは、冷戦が終わったけれども、やはり、日本としては、この日米同盟は相かわらず大事なんだと、再確認ということで、話を進めていましたけれども、アメリカからみると、アジアにおける日米同盟は、アメリカにとっても、非常に重要な戦略であるという認識だったと思いますね。」
会議では、日本の周辺有事への対応が課題として浮き彫りになりました。
●当時、日本には、国外の有事に対処するアメリカ軍を支援するための法律はありませんでした。
●そのため、朝鮮半島で有事が起きても、自衛隊は、アメリカ軍に対し、武器弾薬の輸送は勿論、水や食料の補給、医療行為さへもできなかったのです。
●ジョセフ・ナイ(元国防次官補)の発言「日本では、世論の反対があるため、軍事面でアメリカを支援できることには限界がありました。会議では軍事的、そして技術的に、日本に何ができて、何ができないのか、何度も話あいました。

このままでは、日米同盟は破たんする。そう考えた秋山氏は、周辺有事への対応を次の『防衛計画の大綱』へ盛り込むことを決意します。しかし、大きな壁が予想されました。
社会党の総理大臣、村山富市氏、自衛隊の存在は認めたものの、アメリカ軍との協力には慎重でした。
●秋山昌廣氏(元防衛次官)の発言「村山内閣のもとで、防衛大綱をやるのかやらないのか、というのは、かなりですね、社会党政権のもとで20年ぶりの防衛大綱を見直して大丈夫なのかという心配があったのですよ。正直言って。」
ワシントン郊外での合宿から半年、冷戦後初めてとなる新防衛大綱が完成します。
そこには、朝鮮半島などの周辺有事に際しても、日米安保を効果的に運用することが盛り込まれていました。●自衛隊が、国外で活動するアメリカ軍を支援することに道を開いたのです。
●村山内閣の下で、なぜ日米安保を実質的に拡大する周辺有事への対応を盛り込むことができたのか。
●そこには秋山氏の工夫がありました。(工夫というより、村山総理への騙しと言った方がふさわしい。小松記す)
この年の1月に起きた阪神淡路大震災。村山総理は対応の遅れで批判にさらされていました。
●村山総理は、災害救助活動を自衛隊の主要な任務に位置付けるよう指示。秋山氏はそのことに着目します。
●秋山昌廣氏の発言「それは、自衛隊の災害救援活動を重要な仕事にしてくれという話だったですね。そういうことは当然入ってもおかしくない訳で」
●●秋山氏は、『大規模災害等への対応』という新たに加えられた項目の中に、『周辺有事への対応』を目立たないように、もぐりこませたのです。
(日本を牛耳るアメリカのジャパンハンドに心を寄せ忠実に従う防衛官僚は、日本の総理も利用する手段でしかないのだという例です。小松記す)
文書の映像が出る
(2)大規模災害など各種の事態への対応
ア 大規模な自然災害、テロリズムにより引き起こされた・・・・
イ 我が国周辺地域において、我が国が、……事態が発生した場合・・・・・
●村山総理は新防衛大綱を了承。
(防衛次官が案の定村山総理を思うつぼにはめた。ジャパンハンドに忠実な防衛官僚が、日本の進路を決定した。選挙も民意もどうあろうと怖くない。関係無く手玉に取る官僚政治。これは、一つの騙しでは無いのか。一つの犯罪行為では無いのか。少なくとも国家の行く末がそれで定まることを思う時、これは、民主主義の根幹を揺るがす犯罪たりえないのか教えてほしい。小松記す)
●●結果的に国外で活動するアメリカ軍の支援を可能にする一歩を踏み出すことになったのです。
新防衛大綱の内容は、アメリカ側にも満足のいくものでした。
ポール・ジアラ(元国防総省、日本部長)の発言「新防衛大綱を読み始め、ああそうか、うん素晴らしいとうなりました。完全に私達の期待通りのものに仕上がっていました。」

冷戦後、一度は漂流しかけた日米同盟。新たな防衛大綱をきっかけに再び歩調を合わせ進ことになったのです。


●アメリカとの同盟関係の強化を推し進めて来た日本。同盟はどこに向かっていくのか。

2003年、アメリカは、大量破壊兵器を保有している疑いがあるとして、イラクへの先制攻撃を行います。小泉総理大臣は、すぐにアメリカへの支持を表明します。
●小泉純一郎(当時、首相)の発言「米国は我が国のかけがえのない同盟国であり、可能な限りの支援を行うことは、我が国の責務であり、当然のことであると考えます。国会では、全ての野党が反対する中、自衛隊のイラク派遣を決定。日本は戦争状態の国へ、初めて、およそ5500人の自衛隊員を(イラク、サマワへ)送り出したのです。
●反対の声を押し切ってまで何故アメリカを支持し、自衛隊派遣に踏み切ったのか。
●それに関わった当時外務審議官だった田中均(たなかひとし)氏です。
田中均(元外務審議官)の発言「同盟関係を弱くするわけにはいかない。同盟関係を弱くすると、北朝鮮のような国との関係でも足元を見られることになる。米国の強い支持があるから、ある程度日本は日本の主権に基づいた行動が取れるということであるし、今後もそうだと思いますけれどもね。」

●●今、日本の基地は、アメリカのテロとの戦いを支援する拠点へと変貌しています。
沖縄にある海兵隊の基地(キャンプハンセン)です。イラクやアフガニスタンの市街地を想定した訓練が行われています。

●●静岡県東富士にある陸上自衛隊の演習場では、アフガニスタンに向かうアメリカ軍の演習が続いています。
●●人体への影響があるとして、使用することに国際的な批判もある白リン弾の訓練が行われています。
●●今や、日本の基地は、日本の防衛を超え、アメリカの世界戦略の一端を担う重要な存在となっているのです。
●●そして、アメリカは、海軍兵力の半分以上を、アジア太平洋地域に投入。(原子力空母ジョージ・ワシントンが映る)
●東アジアを世界で最も不安定な地域の一つだと考えているからです。
●こうした中、アメリカは、更なる役割分担を日本に求めようとしています。
●リチャード・アーミテージ(元国務副長官)「日本は飛行機の客席でゆっくりとコーヒーを飲むのではなく、コックピッドに座って操縦管を握り、離陸し飛行し着陸する。アメリカと同じ目的に向かって、一緒に飛行する。そのような役割を担ってほしいのです。」

●日本を取り巻く環境が大きく変わる中、今後アメリカとの協力をどこまで進めるのか。そして、どんな役割を担うのか問われています。

国谷裕子アナ
安保条約が国会で成立して半世紀になります。この会では、安保体制の変貌の過程をご覧頂きましたが、この変貌のプロセスについて、アメリカの軍事戦略に日本が引き込まれていく形で進んでいるという見方がある一方で、日本を取り巻く国際環境の変化に応じて「日本が取るべき安全保障政策」と「アメリカの戦略」を一体としてまとめ上げて来たプロセスであるという見方もあります。いずれにしても「変貌のプロセス」が十分に明らかにされ、議論が国民的に尽くされてきたとは言えません。先行きが不透明な朝鮮半島情勢。経済的にそして軍事的に台頭する中国、アジア地域で急速に進む経済統合。さらには超大国としてのアメリカの威信にも陰りが見えてきています。今後日本を取り巻く国際環境は、大きく変化することが予想されている中で、「日本の安全保障」と「外交の在り方」について、開かれた議論が今求められているのではないでしょうか。

資料提供、IBC岩手放送、海上自衛隊、外務省、共同通信社、時事通信社、米国立公文書館、防衛省、毎日新聞社、読売新聞社、木村秀雄、

撮影、宮崎竜夫
映像技術島根幸宏
映像デザイン,小沢雅夫
リサーチャー・ウインチ啓子
コーディネーター、野口修司
編集、榎戸一夫
取材、高井孝彰、津屋尚
ディレクタ、夏目高平、山口大介
制作統括、小野勇人、水野重理、

投稿: 小松梨津子 | 2011年1月 9日 (日) 03時28分

初めまして。

罰があたると云うことに関して私も疑問に思っていました。

神様仏様が罰をあてるのではなく、自分が犯してしまった事が自分に還ってきている そういうことなんだとわかりました。

私は、お地蔵様の御守りを入れている財布が入ったかばんを 先日癇癪を起こし何度も床に叩きつけてしまいました。

即座に謝罪をしたのですが、してしまった事は消えないし消せないので いつか必ず還ってくる自分の犯した事を受け入れる覚悟をして 罪を背負って生きていくしかないことを悟りました。

愚かな自分が情けなく恥ずかしく嫌いですが、なおせるものならなおしたい と思います。

八正道に御縁があった事に感謝いたします。

ありがとうございました。

投稿: ひつじ | 2012年10月 8日 (月) 14時29分

>ひつじさま
拙いブログをお読みいただきありがとうございます。
悔しいことがあったり、虫の居所の悪い時など、誰にでもあります。地蔵菩薩は、罪を犯した人の弁護をしてくれるそうです。一度くらい、いつも財布に入れて大切にされているお地蔵様を、粗末に扱ってしまったからといって、「ごめんね」といえば、「罪などと気にする事は無い。心の苦しさの身代わりくらいいつでもなるよ。ただ、少しお手柔らかに頼むぞ」
反省があれば、未来は明るいと思います。

投稿: Souroku | 2012年10月 9日 (火) 10時44分

souroku様
お返事大変感謝いたします。
ありがたく読ませて頂きました。
涙が溢れて止まりませんでした。広くて温かい教えに感謝をさせていただくと同時に改めて自分の愚かさを恥じました。

この教えを素直に受け取り、甘んじる事なく自分の言動行動に責任を持ち生きていきたいと思います。

本当にありがとうございました。

投稿: ひつじ | 2012年10月10日 (水) 00時41分

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