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2010年7月 3日 (土)

利尻岳の初登頂者、そして熊の存在

300pxmt_rishiri28200429 本棚から何気なく手に取った深田久弥さんの「日本百名山」を開き、一番目の山である「利尻岳」を読んでいて、なんだか気になる文章が二つありました。

日本最北端のやまである利尻岳は、僕も二年前、念願かなって登ることが出来た印象に残る山のひとつなので、以前は気にもとめなかった文章が引っかかるのです。

今日はひとつめの、次の文です。

「私の眼にした最初の利尻岳紀行は、「山岳」第一年二号に載った牧野富太郎氏のそれである。
明治36年(1903年)八月のことで、この植物学者の一行は鴛泊(おしどまり)から登った。ほとんど道らしくもない道を辿って、山中に二泊している。
頂上には木造の小さな祠があったというから、土地の人は、すでに登っていたのであろう。」

これを読んで、まてよ、それでは利尻岳の初登頂の記録がなにかあるだろうかと思ったのです。
しかし、なかなか記録は見つからず、インターネットから次のいくつかの記述を見つける事ができただけでした。

「それから、利尻山の登山伝説です。アイヌの人たちは利尻山に登ると何らかの形で祟りがあると考え普通は利尻山に登ることはしませんでした。
しかし、「松前随商録」にはなぜかアイヌの人たちが登ったと書かれています。
ただ、登ったけれどいろいろなものが出てきて、すぐに引き返したということが書かれています。
この他、最上徳内や間宮林蔵が来て登ったという記録もあるのですが、この時もアイヌの人たちは賛成しなかったということが書かれています
。」---先住民である、アイヌの人たちは登らなかったとみます。

「現在、多くの登山者が訪れる利尻山ですが、その歴史を紐解くと、古くは最上徳内や間宮林蔵など江戸時代に活躍した探検家が登山を試みています。当時から、利尻山は信仰の対象として「利尻大権現」と崇められ、航海の目印あるいは豊漁を願い祀られてきました。」---登山を試みたが、登頂はしなかったとみます。

「この山に最初に登ったのは、一七九二(寛政四)年に宗谷・利尻調査を行なった最上徳内(もがみとくない)と記録されており、樺太探検で知られる間宮林蔵(まみやりんぞう)も登ったことがあるという。」---登ったが途中で下山したことが、下の記述でわかります。

「松浦武四郎は利尻島と礼文島へは弘化三年(1846年陽春9月)に渡っているがそれよりも前、寛政十年(1798年)に渡った武藤勘蔵は「蝦夷日誌」の中へ「此嶋むかしより絶頂迄到たるものなし。先年も最上徳内巡行の時蝦夷人のとゞむるをきかず半腹まで登りしに、俄かに大雨そゝぐが如く、山崩震動強く、流石の徳内も恐れて下山す。其後たれにても山頂へ登りたるものなし」と記録している。」---最上徳内は登れなかったと書かれています

利尻岳登頂:明治23年(1890年)紀州の行者、天野礒次郎が現在の港湾地区から登り不動明王像を山頂(北峰)に安置。登山道整備に3ヶ月を要したという。
不動明王像は現在鷲泊の大法寺が保管。」---
これが現在のところ、初登頂と思われます。槍ヶ岳や剣岳などと同じで、信仰は強しです。

このほかにも探せば資料があるかもしれませんが、今日のところでは、上にも書きましたが、武藤勘蔵が1798年に記録した、頂上に至った者はなく、登ったとされる最上徳内も途中で下山したと書かれていますので、初登頂者は明治23年(1890年)の紀州の行者、天野礒次郎としておきます。
深田久弥さんが眼にした記録に残る牧野富太郎氏が明治36年(1903年)8月に鴛泊(おしどまり)から登ったのは、初登頂から13年後の事だろうと思います。

*明日は利尻岳の幻の熊の存在を書きます。

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コメント

実はアイヌの伝説にもう一つあって
アイヌの古老が死ぬ前に山の頂を極めたいと
周りの止めるのを振り切って利尻山に登り戻らなかった
それ以来利尻山に登るのを一切禁止したと。

投稿: hiro | 2010年12月 6日 (月) 22時05分

>hiroさま
情報、ありがとうございます。こんな伝説が残っていたのですね。でも、アイヌの古老の、死ぬ前に登頂したいという気持ちは、あの美しい山容をみれば、わかる気がします。

投稿: Souroku | 2010年12月 6日 (月) 22時27分

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