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2009年6月 6日 (土)

連載「報道がおかしい その2」 陸軍特別攻撃隊

5月20日の続きです。
最近のマスコミの伝えたかに違和感を感じている人も多いと思います。
前回の「報道がおかしい その1」の最後に、こう書きました。
「偏向報道といった大袈裟な捉え方ではなく、報道すべき真実が隠され、政府に都合の良い方向ばかりが目立つ記事の多い現状を、少し書いていきます。」

前回は毎日新聞の記事を例として、北朝鮮ミサイル発射報道について書きました。
西松建設事件、新型インフルエンザ、海賊対処、そして東京オリンピック開催等取上げたい問題は多いのですが、今回は、戦前、戦中の報道について振りかえり、次回につなげたいと思います。

軍艦マーチ-が流れた、大本営発表を知る人は少なくなっていると思います。
当時は、政府、軍部に都合のよい事ばかりが発表され、ラジオ、新聞はそのとおりを報道することが至上命令でした。
それと並行して軍部の宣伝記事ばかりが優先し、その他は厳しい検閲により、真実が書けない状況にもありました。
それとは別に、新聞報道側にも検閲に通りやすい軍部の喜びそうな記事を書いて、軍部に迎合する、あってはならない風潮も生まれたのでした。

今、それらの、多くの記事を検証する事はできますが、なかでも随分前に読んだ髙木俊郎著「陸軍特別攻撃隊」に書かれた、特攻隊員を話題にした新聞の捏造記事の事は忘れられません。
その部分を書き写してみます
Dscn4047_320  「陸軍特別攻撃隊-上下巻」 髙木俊郎著 昭和49年、文芸春秋刊より

眠り草と特攻隊員ー序章ー
佐々木友次伍長が飛行場を歩いていると、報道斑の腕章をつけた新聞記者に行きあった。記者は大声でいった。

「いましがた、敵の機動部隊発見の情報がはいりましたよ。聞きましたか」
 佐々木伍長は、いよいよ来たか、と思ったが、それほど気持は感動しなかった。佐々木伍長は陸軍特別攻撃隊の万朶隊(ばんだたい)の操縦者であった。フィリピンのマニラ市に近いカローカン飛行場で、出撃の日を待っていた。

 記者の話しでは、ルソン島の東南三百キロメートルの海上に、アメリカ軍の有力な機動部隊が北進している、ということであった。記者はひとりで興奮して、さわがしい調子でしゃべると、すぐにいなくなってしまった。
 
このときのことが、内地の新聞には、大きな記事となって掲載された。
≪飛行場の眠り草と戯れる特攻隊員〔比島〇〇基地特電、塙、福島両特派員発〕≫という大きな見出しで、≪田中逸夫曹長がニ十七歳、生田留夫曹長が二十四歳、久保昌昭軍曹が二十一歳、佐々木友次伍長が二十二歳、みんな私(記者)どもよりずっと若い。

私どもがその出撃の情報をもって、飛行場の隅でキャッキャッといって戯れている佐々木伍長の傍らに行くと、伍長は、足に葉がさわるとスーッとしおれたふりをする眠り草の習性を、人形の泣くことを発見した赤ん坊のようにおもしろがって、そこら一面にはえている眠り草を、かたっぱしから棒でつっつき、靴でけとばしていた。
 
 私どもが電報の内容を伝え、出撃の近づいていることを話すと、佐々木伍長は、
「ハァ、それはどうも、わざわざご苦労でした。だがですな、これは実におもしろいですよ。まあ、この通り、葉にちょっとでもさわると、スーッとしおれたふりをするね。こう、このように」
 といって、私どもの目の前の一群の眠り草を棒でたたいた。
何百隻の敵機動部隊が現われようと、出撃が数時間後であろうと、そんなことは驚くにあたらんといった風に----。なんと悠々たる態度であろう≫
 
 この記事が新聞に出たのは、海軍の神風特別攻撃隊のことが、はなばなしく報道されて、特攻隊が関心を集めているときであった。
陸軍からも特攻隊が出ることを伝えたこの記事は、読者に感銘を与えた。

 
 戦後になって、私(著者)は、この記事の事実を確かめるために、その時の原稿を書いた毎日新聞社の塙長一郎記者に話しをきいた。
 私があらかじめ、用件を伝えておいたので、塙記者は自分の記事の切抜帳などを用意して待っていた。
その話しによると、飛行場に眠り草のしげっていることは、佐々木伍長と会う前から知っていたというのであった。
それを見つけたのは、生理上の必要から、草むらにはいったときであった。
 
 塙記者はカローカンからマニラ市の毎日新聞社の支局に帰ると、特攻隊を担当している同僚に、このことを話した。
同僚は、とっさに新聞記者らしい思いつき」をした。
「眠り草と特攻隊員、というのはいけるんじゃないか。なんとか眠り草を使えないか」
 
 翌日から、塙記者は飛行場に行くと、万朶隊の操縦者たちに、「こんなところに眠り草がある。さわると葉をあわせるよ」
 と、葉をたたいて、それとなく教えた。そして、何かがおこるのを待っていた。
そこへ機動部隊発見の無電がはいった。塙記者は、それを聞いたあとで、佐々木伍長と行きあった。そこにも、眠り草がしげっていた。
しかし、佐々木伍長は眠り草には、まったく無関心であった。
 眠り草と戯れる特攻隊員の記事は、このようなことで書かれた。
それが作り話であっても、塙記者を非難することはできない。
特攻隊員を救国の英雄に仕立てることは、軍の要望でもあった。
それに従わない記事は発表を許されなかった。


 私は、万朶隊についての、もう一つの報道の真偽をたずねた。それは出撃前夜の壮行会の模様を書いた記事である。 
アメリカの機動部隊が発見されたので、万朶隊の出撃は、その翌日と決まった。その夜、カローカンの町にある日本料理屋で、壮行会が開かれた。当時の新聞は、次ぎのように書いている。

≪「散るはいっしょだよ。お国のために喜んで死にますぞ、記者殿」
「元気いっぱいやってください」
 私(記者)らは万朶隊勇士に励まされた。明日が攻撃という、最後の夜の送別の宴の出来事だ。飛行場長の温かい計らいで、万朶隊勇士と会食を共にし、十一日夜の一時を共に語った。
記者として、日本人として、真実にうれしい、感激した飛行場の一夜であった。(中略)
勇士たちの出撃は早い。その疲労を慮り、ほどなく野戦の宴は閉じられたが、未練なく立ちあがった田中曹長に、「出撃にあたって、銃後の人々にいい残すことはありませんか」
 と、最後の言葉を求めたところ、それに対して田中曹長は、一体、なんと答えたか。
「いやいや何もありませんよ。銃後はみなよくやってくれていると思います。私は喜んで死ぬことができますよ」

 
 この短い言葉にこもる深い信頼を忘れてはならない。私どもは、決してよくやっているとは思わない。それなのに、田中曹長は、「実によくやってくれる」
といって、死んでいったのだ。私どもはその言葉に対して己を恥じ、そしてこの戦いを勝ち抜こう。これが勇士たちにむくいる唯一の途である≫
 
 この〔比島〇〇基地特電、塙、福島両特派員発〕とある記事について、塙記者は説明した。

 「そのようなことを質問したおぼえはないし、書いたこともない。多分、編集でつけ加えたものだろう」
 また、この記事の初めの方の、"散るは一緒だよ" "元気いっぱいやってください"という万朶隊員の言葉も、作りあげたせりふで、いかにもそらぞらしいということであった。

 しかし、この報道を読んだ内地の国民は、特攻隊員がすべて"喜んで""笑って"出撃したと信じこむことになった。多くの読者はこの記事をうのみにして、たわいなく心酔し、その裏面を推察しようとしなかった。そして、この記事のいうように、"万朶隊の勇士たちにむくいる唯一の途"とし
て"この戦いを勝ち抜こう"とする気持を高めたのは事実だった。
このようにして軍部は、特攻隊をさかんに宣伝させた。
このために特攻隊を賛美する風潮が国内を支配した。そして特攻隊は悲壮、崇高なものということになって行った。
 
 私は戦時中の新聞報道の実態を、改めて知ることができた。
「この記事などは、戦時中の記事の典型ですね。記者がひとりで感激して、新興宗教の信者みたいに、むやみに自己批判したり、誓いをたてたり」
 いつもは陽気な塙記者も、顔をくらくしていった。

「きょう、自分の記事の切抜き帳を持ってきたが、これをあけて見るのは、戦後、はじめてなんだ。開けてみる気がしなかった。これから後、当時のことを知らない人が、こうした記事をそのまま資料として引用して、戦記や戦史を書くと、うそを事実として伝えることになる」

ーーーーその3に続く

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