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2009年3月10日 (火)

荒船と神津牧場付近その4---大島亮吉

 荒船と神津牧場付近
三回にわけて書いてきましたが、この(四)で最終章となります。

あんまり牧場のことばかり書いてしまったようだが、大体初めのつもりはこの神津牧場のぐるりの、ごくやさしく小さい山歩きについて、書いてみるつもりだったのだ。

一体私はこのあたりで、初めて日本の低い、小さな山歩きのおもしろさ、たのしさを知った。

そしてそれは私の山歩きの前途に、その時全く払暁的な新しさと望みとをあたえてくれた。私はここで、ただ私のあてもなく、いくたびか歩きまわって、しかも自分には少しもあきることのない、このあたりの山歩き、谷歩きについて、なんの秩序もなく書きつづってみる。

 神津牧場へくるには、軽井沢からがいちばん近い。半日でこられる。軽井沢高原から雨宮新田へ出て、和美峠をこえて上州側へ下り、初鳥谷(はつとや)から高立(たかだち)の小さい谷あいへ入る。高立から少しゆくと一本岩といってドロミーテンのフェルストゥルムそっくりの岩峰が谷のまんなかに立っている。なかなかこのあたりではめずらしいものだ。だがのぼってみようという気はおこらない。そこまでは沢沿いの路だが一本岩からのぼるともう牧場となっている、ひろい山腹があらわれてくる。

これはごく普通の路で、もっと近いのは和美峠より右手の日暮山(につくらやま)の裾の峠をこして、すぐと高立へ山る路である。もっと変化のある路では、軽井沢から上発地(かみほつち)へ出て、そこから八風山(はっぷうさん)へのぼり、やさしい、歩きよい、はばびろな尾根を歩いて牧場のうえの志賀峠の道へ下りてくるやつである。信濃の佐久側や、上州側はこれよりずっと遠い。

 牧場のあたりは、いたるところ、私の好きな、草や笹の、短くて、歩きよく、そしてひろびろとだだっびろくて、あけっぱなしで、眺望のいい、あかるい山頂ばかりである。また谷も、あさく、あかるく、落葉松や白樺の林や、古びた、杉の匂いにしめった村のかげのある、このましいものが多い。八風山(一三一五・二米)、香坂峠(こうさかとうげ)(一一六五米)、物見山(一三七五米)、寄石山(よりいしやま)(一三三四・九米)、熊倉峰(くまくらみね)(一二三四米)、内山峠(うちやまとうげ)(一〇六六米)とこれらの山頂と峠とをつなぐ尾根尾根と内山川の谷々、志賀、香坂(こうざか)の明るい、浅い谷あいとが、すなわちそれなんだ。そしてこのなかでも、物見と寄石と八風のあかるい早春の日の山上展望はことに私をよろこばせた。

 東京から持って来たフランスパンに、牧場でつくったバタとを入れた、かるいリュックザックを背に、私は、半日、または一日のさまよい歩きのために、これらの頂き、尾根、峠、山腹、山窪、谷あいに、うす青い径(こみち)を求めたり、笹原のなか、草ぶかいなか、雪のうえ、流れのほとり、林のなか、村の道といたるところ歓会(かんかい)を足先にひろうては、ほっつきあるいた。

 春はやくにここへやってきた時に、牧場の小屋に泊っていて、私は毎日持って来た本もよみあき、牧夫の手伝い仕事にも疲れた時には、いつも、空気のいろが明るく、雲の流れも淡くひく、午前の透明な気圏の印の展望のために、これらの発感的な山の頂きにのぼって、眼は風の流れる蒼穹のいろをそめて、そこにやわらかい草座を求める。とおい山脈の雪の光が、その時の私のぜいたくな倦怠と孤独とにこたえてくれる。エクスターズの一時間、また一時間。私は山の持つバッシィーヴな魅力というものを、ほんとにその時感覚できた。

 ぼんやりと空想でもしていたり、本でも拾い読んだりするのには、たとえ西風のつよくふく日でも牧場小屋の後ろと、牧場小屋を少し下へおりた牧場の、ぐるりのうす青い落葉松の林のある斜面がとてもいい。日の光は滋養物のように身にあたたかく、風もあたらず、静かで、ただとおい川瀬(かわせ)のひびきだけが耳にほかほかとやわらかだ。

 それから好きな山窪(やまくぼ)は、寄石の、山腹の日の光線がひろびろとかかる笹原の窪みで、牧場小屋からそこへやってくるにはかなりにとおいにしても、日のうららかな、あたたかい日の午前には、どうしても私はそこの笹ごしらえの寝椅子へねころびに出かけてしまう。笹原のなかにとっぷりと身をうずめてしまって、うっすらと笹原をわたる風の韻(ひびき)を耳に、青い眼の下の志賀の谷あいにのぼる山畠をやく、ほの白いけむりをでも見ていることだ。志賀越えの峠道を、牧場がよいの馬の鈴の音がしゃんしゃんと、それに馬子の唄声(うたごえ)がかすかに風のように斜面をのぼつてくる。

 谷で、小さくて、可愛らしく、流れと落葉松とのポエジイを持っているものは、初谷鉱泉の谷あいだ。牧場から物見の尾根をどこでもこせば、もうこの谷だ。草ぶかい小径を下りて、さやかな落葉松のなかの林径をゆけば、初谷の鉱泉宿がたった谷あいの一軒家となって、つつましやかに、いつもうす青い、湯をわかす煙を尾根にはわせている。こんな谷あいの、都会もとおい田舎のひとびとしかゆかない、春には蕗味噌(ふきみそ)と裏山からとってきたうす青い筍とをたべさせてくれるほかには、なんの御馳走もないというような、そんな鉱泉宿の持つ、言いようもないデリカナなシャルム、ある清新なたのしさ、やすらかさについては、全く実際こんなところへ一度でも泊ったひとでなければ理解できないことであろう。私はそこで、ただ湯につかり、本を読んだり、このあたりの田舎の湯治客と、湯宿のひとたちと、湯槽(ゆぶね)のけむりのなかで、雲のいろを見て、山の風をきいて、愚にもつかない、けれど飽きることのない山のはなしや土地のおしゃべりをしたりしてくる。ここは湯宿のひとがてずから薪を割って、湯を沸かすほどに、小さな鉱泉宿なのだ。

荒船、内山峠などへの山歩き、またはあてもなく、谷みち、村の道などのプロムナードのために、私はこの小さな、かわいらしい谷を愛して通ることにしている。

 牧場から、笹原ばかりの尾根すじに、ターゲスワンデリングをするのには、私はいつも志賀越えの峠道をゆるゆるとのぼって、峠のうえにつき、それから幅のひろい、尾根とも思えないくらいのゆるい笹原をかさかさと歩いてゆく。西風の吹かない、春の日向には、ここいらを歩くのは、全くちょうどいいくらいのあたたかさだ。わかい午前の日の輝きと匂やかなそよかぜは、私の影をきよらかにめぐり、半身に日を彩りつつ、眼の向けるどこにもは、うっとりとした、はるかな、はるかな春の山々のうすい山影。さすがにこんな日には、北アルプスの雪も、するどくは光らない。まるで夢をみているようなおだやかさだ。それをみるものも、また夢みて歩いているんだ。枯草は残雪のあいまに金いろに光ったり、紫の蔭に安らったりしている。そして私は香坂峠から八風の頂きをすぎて、もっと先までもしらずしらずに行ってしまう。そしてついには、もうはる風の流れている信濃の村々をぼんやりと谷あいにながめながら、一一五五.五、の富士山という香坂の村の上の草山あたりまで、尾根のうえについた小径を歩いて行ってしまう。そして今度は、谷の村々のひそやかな青紫の木立の影をめざして、尾根を下りてくる。草の斜面から、林、藪、小川、畑、百姓家とだんだん村のなかへ近づいてくる。そしてこれから信濃の山ふもとの春さきの、麦と落葉松と水車の村々を歩みぬけては、志賀の谷あいをのぼって、また山上の牧場へと、静かな夕暮れのいろこめたなかを帰ってくる。そして峠のうえでふりかえれば、きょうもことなく暮れた平和な谷の村々が、遠ざかってゆく私を山裾や谷あいで見送つているようだ。

そしてそんな時私は、ああ、よくも散歩し、よくも歩きまわったその日一日の快いのびのびとした軽い心持と、疲れたのどをうるおす、新しい搾りたての牛乳の味とを、いつも心からたのしむのだ。香坂の谷も志賀の谷も、あさく両側のなだらかにひらけた、ゆたかな村々のある、谷問だ。ことに志賀越えの峠道は、村から山畠、雑木林、草っ原、落葉松林、笹原と、上へゆくにしたがってかわる、ゆるい斜面をゆっくりのぼってゆく、趣きのある道だ。牧場への物資もみなこの峠をこえて、岩村田から馬背ではこばれるのである。牧場からは毎日のように馬が鈴をならしてこの道を通っている。それをきくとなんだかまだ往昔の街道の峠のような気がしてならない。

牧場の近くにある山村でいいのは、西牧(さいもく)の谷へ牧場から下りてゆくと、すぐある、山腹のテラッスのうえにわずかばかりの畑と木立とでかこまれた屋敷という小村だ。曲りくねった、急な折れまがりの岩道を下りてゆくと、この村の古びた、苔ぶかい石屋根と白い障子が見える。そこも牧場とおとらぬ平和なくらしぶり。玉蜀黍をずらりと軒につるした人のいい村の家の黒光りの縁側でついでくれる、うれしい土瓶の茶の匂いに私はいつも感謝する。

屋敷から更に下って市野萱、中萱、三ツ瀬など、内山峠の街道沿いの村々へと下りれば、これらの黒ずんで、家のなかのくらい街道の村々の屋根のうえに、全く巨きな難破船の朽ちたように、または屏風をめぐらした。古びた城墟のように、怪奇な荒船の山姿がのしかかるように高い。ことに内山峠へ向かって、あの平らな頂上の突角が突如直角に落ちて、ほんとに船の舳のようになっているところを見ると、たしかに荒船という名のふさわしいことを知る。

私は三ッ瀬の小さい旅舎の暗い庇の下の二階の窓から、三月の夕暮れにこの荒船の蒼い雪と黒い岩とで眼のうえに突き立った姿を見た。そして、それには夕日の薔薇がまだちらちらしていた。低いけれど、なんとなく高く、おそろしく見えた。このように船のように見えるのは上州側から見た時のみで、信州側から見れば、この荒船もただ頂上が一直線に長い、あまり見栄えのしない山だ。

三ッ瀬から荒船へのぼった時は、また三ッ瀬から相沢の村へはいった。前にも書いた通り、西風のつよく吹く、すばらしい天気の日だった。相沢の村を遇ぎると、途は小さくなって、すぐ雪が硬く凍りついていた。細い道は尾根のようなところを急なジッグザッグでのぼっていた。地図にはない径だ。朝の紫水晶いろをした空に、風のびゅうびゅううなるなかに、この岩の船が雪にあおあおと光って立っていた。径はしばらくして雪で埋まってわからなくなってしまったので、私は硬い、朝の凍った斜面をただ上へ上へとのぼつて行った。その時幸い鋲靴をはいていたので、この雪の斜面はあまりてこずらなかった。けれどいよいよ頂上へのぽりきる最後の雪の斜面は、おそろしく急であった。とても初めはのぼれなかったけれど、ついに持っていた鉈で一歩一歩足場を切って這いのぼった。舳の突角の岩壁のそばであったから、非常に急であった。のぼった時はうれしかった。上州側からのぼったのはこの時だけで、その後はいつも信州側からのぼっている。

 頂上にのぼれば、まともに吹きつける西風は眉にしみて、そこは全くの兎の足痕のみの雪の原で一ところどころに牧草が金色に光り、岳樺がさびしく立つていた。私はその足のぽくぽく潜る雪原を足を歩くにまかしてなんの制限も加えず、風のなかに、眼の輝くままに展望をほしいままにし、よろこびにひたされてめちゃにこの頂上高原への尊敬と愛清とを、そこら中へふりまいて歩いた。頂上高原の南端には一四二二・五米のぽっちりと小高い円錐状の頂きがある。そこへのぼれば、南の方に重なり、うち重なる黒木山、更に黒木の山ばかりが、雪をかぶつた、清らかな自然色をもって、連なっているのが、いきいきとした午前申の大気のなかにのぞめる。けれど私はその時は、まだ北から西への皚々たる高い山脈に、ずっと心を惹かれていたから、この南の、これらの低い、午前の日のうすむ山山にふかく印象もされなかった。

 けれど、二度、三度と、春はやくに、または夏晩くに、秋の初めに、この頂きに座し眺めるたびに、私はこれらの、低い中部日本の山々の古雅な、静かな、日に光り、日に影する山隅(やまくま)や谷影をもまた愛するようになった。こんな低い、ちいさな、名もない山々。こんな山々にさえも、またそこには私らにとって決してくみつくせぬ多くのものがある。そこにはまず、私みずからの心胸内に、以前とちがったものが、あることをみとめなければならない。もうその時には、私はこの荒船の頂きに座って、これらの山々をみおろしていては、あの低いバイエルンの故郷の山々をかぎりなく愛して、生涯そこをたえず歩いたひとりの登山者の精神を、まるで鎮静な香炉からのぼるひとすじの煙りのように、匂いふかく思念せずにはいられなかったのである。私はこの日本のミッテルゲビルゲを、また彼のごとくに愛したい。

 信州側から荒船の頂上へのぽるには、星尾峠(一三〇〇米)へ内山峠の街遣からのぽってくる。いい道を、峠の頂上までくれば、そこからはほそい経が荒船の頂上へ通じている。星尾峠は上信のさかいになって、春には雪のかたい谷道が、信濃側へくれば落葉松の林のなかについている。

私はいつもこの道をのぼってくる。道の途中には小さな百姓家の二、三より集まったところと、荒船不動の杜がある。

 とにかく荒船は、私にはたびたびのぼりたい頂きだ。ことに早春、それが雪に光った古い城壁のように見える時にそうだ。それから、この秩父裏になっていて、また神流川、西牧川、南牧川の上流になっている、上信の国境の低い、錯雑している山地は、山の奥ふかくまでも、古い、小さな村々が、古くから人問生活の根をおろしている。そこには決して高い、顕著な山頂もなく、一帯に低い山が折り重なっているだけだ。だから交通も開けなく、文化の風もふかず、村々はまるで動きのない平和な生活をしている。荒船から見たこの山地の蒼古な山すがたに心ひかれて、私は昨年(大正十三年)の、夏に、とうとう、峠越えをして歩いてではあるが、この低い山々のなかを上信国境に沿うて歩いた。

 この神津牧場のあたりが、軽井沢の高原へ続いて多く明るい草山なのに比べて、内山峠の街道から向うは殆んど黒木山ばかりで、感じも湿って、くらく、陰気だ。けれどまたいい草山や、草原の峠もある。余地峠と矢沢峠がそうだ。それから栂峠も美しい草山が続いている。一体にここいらの低山地は、交通も不便だし、目立って高い山もないためか、また東京の近くの丹沢山塊や道志山塊、御坂山塊、多摩川と相模川との分水山脈のように、低い山を歩くことの好きな登山者にも、まだそんなに詳しくは歩かれてはいないようだ。またここいらの山歩きの記文もあまり私は見ない。「山岳」の奥上州号には高畑さんの「晩春の神流川上流へ」など、また近頃の「山岳」の荒船近くの記文と民話は素敵に私はうれしいものだった。たしかにこのあたりの低山地は、古いだけに、いろいろの歴史、伝説、民話にとんでいるらしい。その点でもおもしろそうだ。けれどまだそこは私にとっては

Liebingsgebietではない。私のCherished Hauntはどうしても、神津牧場をまんなかにして、八風から荒船までの間だ。こんなつまらないところだけれど、私にもひとつのこんな、何度でも行って少しもあきないというところを持っていることはうれしい。そして私がこのあたりに時たまの遊行をなすことは、じつに私にとって山への愛を高めるひとつの手段なのだ。私の山への静かな小さな考えが、いかにここいらの枯草の山頂と落葉松の谷あいによって、ここ幾年、愛せられ、まもられ、慈しまれてきたことだったろうか。そして、それによって、ほんとに山への、どんな熱情を私はとりもどしたことか。書くだけ気障かもしれないが、私はここの牧夫部星の窓枠ががたがたと西風に打ち鳴るような日など、ひとりそこに居残って、太い松薪のちらちら燃える暖炉の前で、静かに、本気になってある時はThe Englishman in the alpsにどんな幾篇を、またある時はあのジャヴェル遺著の幾頁を、ほんとに自分のために読みふけった。

 ここいらはたしかに日本でも、低い、そして小さな山や谷だ。そしてなんのその土地に対しての知識もなしに、らくらくと地図をたよりに、自由にひとりで歩ける程度のところだ。だから私は決してここいらを、そんなようなことのために書いたのではない。ただ、自分にとって、たのしい、そしてまたいろいろの小さい山歩きのおもしろさを与えてくれ、それによってまた山へのひとつの別な愛をとりもどすことのできた、いろいろの点で自分の忘れがたいところなので、ただ思い出すままに書いたのだ。それからまた、これによって、日本の低い山をのぼるうえで、自分の気質のやや鮮明に生きてきたことを感じて、ひとりよろこぶのだ。そして私にとって、その山上の牧場は、またそこの持つ明るい、きよらかな自然と、そのなかに生きている美しい、平和なひとつの人生との、その一箇完全な調和の光景が、私をして実にここ数年来そこを傾倒すべく、愛すべく、かつ美しからしめ、たのしからしめているのである。

 私はこれを東京の高台の兵営の、またその牧夫部屋とあんまりちがわないような装飾もない質素な部屋のなかで、もう九ヶ月以上も山での生活とはなはなだしくかけはなれた兵営生活をしているあいまあいまに、心たのしくこれまでのことを回想の筆に托しながら書いたのだ。

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