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2009年3月30日 (月)

カワセミを見ました。そしてホタルが!我が家の近くにある自然

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我が家から歩いて15分ちょっとで、信じられないほど自然が残されている小公園に行けます。広場や遊具などは無く、丘陵地に自然散策路だけの環境が作られています。あまり知られていないこともあり、来る人も少ない場所です。

S通信員が、ここでカワセミのつがが見られるとの情報を得てきましたので、よし見に行こうと、昨日、散歩がてら訪ねて見ました。

カワセミは、2月に参加した日本野鳥の会主催の探鳥会で、これも我が家に程近い柳瀬川の河原で、ちょうど、魚を捕食するシーンを見る事ができました。
こんどは、2羽が巣作りをして、定着しているようで、ほとんど毎日見る事ができるとの話です。

しかし残念ながら、昨日は見つける事ができませんでしたので、今日、再度行ってきました。
いました!。
小川の岸辺から飛び立って行く1羽を見る事ができたのです。
カワセミが突然飛びあがったので、ブルーの美しい姿を認めただけで、とても写真を撮ることなど不可能でした。僕らが、小川の横の散策路を歩いて行くので、カワセミが警戒しているのでしょう。
よし、いる場所はわかったので、次ぎの機会には、ゆっくりと驚かせないように歩いてみることにします。

この小川はすべて涌き水で、かっては農業用水にも使われていたとの事ですが、現在は川岸が自然石で護岸されて、きれいな水が柳瀬川に流れこんでいます。
驚くべきは、カワニナを育てて、ホタルを発生させる試みがされているのです。

カワセミだけでもすごいと思うのに、ホタルまで飛んだらどんなに素晴らしいことだろう。
楽しみです。それにしても我が家はかなり田舎?
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(写真上、自然公園の一部、ここに小さな池が有り、湧水が流れ込んでいる。
近くの道路を車が通らない時など、池に流れこむ水の音だけが聞こえる静かさだ)

(写真中、小川の縁に立つ、ホタルが発生する場所である事を知らせる看板)

(写真下、同じくホタルのえさになる、カワニナを捕らないで下さいという注意看板)

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2009年3月28日 (土)

柳瀬川の桜情報その4

Dscn3811_320 今日(28日)午後3時頃の、柳瀬川土手の状況です。
写真の撮影場所が悪かったので、花見客の様子がわかりませんが、写真手前の団体さんの向こう側、小さく見える東武東上線の柳瀬川駅横の鉄橋まで、かなりの人手が見うけられました。
寒い一日でしたが、青いビニールシートを敷いて、皆さん、結構盛りあがっていましたよ。
 残念ながら、桜の開花状況は、3分咲きといったところです。
今年は開花から、気温の低い日が続き、満開までの日数が、長いようです。

明日の日曜日は、もう少し花見客が多い事でしょう。
お酒、おつまみ、弁当などの買物は、柳瀬川駅前のサミットが便利なのですが、道路反対側のペアモール商店街もどうぞよろしくお願いします。住民としては、こちらを応援したいのです。
通常営業の店の他に、お花見期間限定と思われる、「肉まきおにぎり」と「地中海ケバブサンド」の店がオープンしています。

トイレは、土手に簡易トイレガ設置されていますが、サミット内、サミットと道路を隔てたペアクレセントビル、それにペアモール商店街横の道にあります。

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2009年3月27日 (金)

海賊?に襲われた日本関係船舶はどうなったの

 「柳瀬川通信:報道部」

デスク「作山クン。商船三井の自動車運搬船が、2隻の海賊船に襲われたとの続報はまだかね。」

作山記者「デスク。それがおかしいんです。23日に、新聞各社は勿論、ネットでも数えたら、20数社が一斉報道していて、こりゃあ、大ごとになるぞと思ったのに、その後、なぜか音無しです。」

デスク
「君が、商船三井のホームページからスクープしたんだ。肝心の商船三井のホームページはどうした?」

作山記者「こちらも、おかしいんです。襲撃から逃げたとあるし、予定はケニアのモンバサ港ですが、寄港地を変えたにしても、もうどこかの港に入ったと思うのですが、なにも書かれていません。男川君、そっちはどうだ?」

男川記者
「まったく収穫無しです。国土交通省も襲撃発表だけですし、海上自衛隊、海上保安庁の海賊対処ホームページには、襲撃すら書かれていません。農園寺のほうはどうだ」

農園寺記者国際海事機構のホームページを見ているのですが、今のところ反応無しです。こちら英文ですから、翻訳が面倒です。もう少し時間を下さい。」

デスク「作山クン、さっきから何を一人でぶつぶついっておるんだ!」

作山「貴様は誰だ!?。七つの顔の男じゃよ。ある時は片目の運転手、ある時は老いた作男、ある時は建築家、またある時はインドの魔術師、またある時は報道部デスク、またある時はスポーツクラブのマネージャー。しかしてその実体は・・・・・正義と真実の使徒・・・・・」

デスク「何を馬鹿なこと云っとるんだ。報道部はおまえ一人しかいないだろう!」

作山「そう云うあなたも、屁のような」

デスク「馬鹿もん!。片岡千恵蔵の多羅尾伴内はもうわかった、仕事しろ」

作山「片岡千恵蔵って誰です?。小林旭でしょ。」

デスク「若造め、それはリメイク版だ。ところで、襲撃はガサネタと思うか?」

作山「それはないでしょう。チャンと国土交通省が発表したんだから」

デスク「海賊対策の元締めさん、海上保安庁がなにも云ってないぜ。あの国土交通省の発表もよくわかんないな。海自の護衛艦2隻が現地到着のこの時期だ、普通なら待ってましたと、読売、産経さんが飛びついて、現地へ記者派遣ぐらいの勢いだろう。
読売さんの、なんとかという記者のソマリア沖レポートは、提灯記事だぜ。作山でも、もう少しましな記事かくよな。」

作山
「あれは、デンマーク海軍が、対テロ阻止活動をしていたことを、まったく忘れてるみたいですよ。あの記事のままだと、給油の転用疑惑を証明しているようなものです。」

デスク「あのデンマーク多目的支援艦アプサロンが助けたように書いてある、ベトナムの貨物船と、こんどの商船三井の自動車運搬船だけど、襲撃は本当に海賊だったのかな?」

作山「謎を解くのは、私立探偵多羅尾伴内、じゃない「操作された嘘の情報を信じるのはバカの勝手。真実を書くのはあたしの自由。」これはきっこさん。
政府の嘘と、隠し立て、偏向報道を許さない、この柳瀬川通信がほこる、作山記者だ!ジャン、ジャーン!」

デスク「わかった、わかった。おまえさんは偉いよ。しかし、もう少しこのネタ、攻めてみようぜ」

作山「読売さんが、デンマーク海軍の多目的支援艦をフリゲート艦と呼ぶのもなんか意図的でいやだし、デンマーク海軍が去年の9月からCTF-150(テロ組織の武器、弾薬、資金源の麻薬などの海上輸送を阻止する活動を行っている第150合同任務部隊)の指揮権任務についていたのも隠してるし、最近の海賊報道もちょっとね。」

デスク「冷静に、冷静に。所詮、われわれの入手できる情報が少ないんだ。国際海事機構、NATOや米国、各国海軍のホームページを丹念に当るしかないな。意見の違いは仕方ないが、報道による世論誘導はいかんな。マスコミの影響力は恐いぞ。農園寺クンによろしくな。」
作山「ある時は農園寺記者・・・・。さて、今日も徹夜か!」

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2009年3月26日 (木)

柳瀬川の桜情報その3---残念、少し遅れ気味

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今日(26日)午後の柳瀬川土手の桜開花情報です。
上の写真の木は、3分咲き以上に見えますが、木によって開花状況にばらつきが見られ、全体で見ると2~3分咲きといったところだと思います。
前回、今週末は見頃かと書きましたが、ここ数日の低温で花は震えあがっているようです。今週末の日曜日には、良くて5分咲きぐらいかと思います。
満開は東京と同じ、4月1日くらいではないでしょうか。(お願い:お花見の日程は、自己責任で決めてください。)

それでも、土手には屋台が並びはじめました。今年はWBCでの日本チームの優勝も祝い、その余韻も味わって、楽しくお花見で盛りあがり、不景気を忘れましょう。
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(写真中、僕が勝手に決めている開花標準木の今日の様子です。1分咲きですね)

(写真下、柳瀬川駅近くには屋台も並びはじめました。残念ながら、夜桜見物のボンボリが設置されるのは、ここではなく、駅から下流の富士見橋から高橋の間です)

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作男、喜ぶ。--農園当選

Dscn3790_320 作男「てえへんだー、てえへんだー」
女農園主「どうした、八」「あら、私としたことが、ついのってしまって。どうなさったのですか」
作男「当選だ、当ったです。大当たりだよ」
女農園主「また、ロト6の1000円ですか。2億円かと思いましたよ」
作男「2億円は今日の夜だべ。そんじゃねえ、これ、これ、葉書さ来ただよ。おらの名前だよ!」
女農園主「裁判員に選ばれたのかしら」
作男「なんだ、それ。そったら難しい話は、おらには無理だよ。悪さした奴は、佐渡金山送りだべ。働かねえ奴は、棍棒でぶっただくだ。
そんなことさより、これ、これ、畑さ当っただよ」
女農園主「あら、市民農園に当ったのね。良かったわ。知らせ待っていましたのよ」
作男「見てけれ、第七農園に、当選て書いてあるだよ。どこだべ?」
女農園主「それは、今までの農園よ。」
作男「区画、使用料は後でと書いてあるだよ。使用料!。おら、金さないだよ」
女農園主「この前、お話したでしょ。名前を変えたほうが当るかも知れないと思って、あなたのお名前で申しこみましたのよ。」
作男「そんだ。そんだ。お金は農園主さまに払っていただいて、おら作男のままだ。だども、おらの名前さ、市役所で知られたべ。恥ずかしいだよ」
女農園主「市役所では、立派な農園主さまよ。がんばりましょうね」
作男「おら、がんばるだよ。これから早速、畑さ耕すべ」
女農園主「あわてんぼうね。まだ区画も決まっていませんよ。4月から農作業をお願いするわ」
作男「だども石灰と化成肥料と堆肥を買うべ」
女農園主「急がなくても大丈夫よ。また、沢山買わないでくださいね。」
作男「ヘイ、ヘイ。なに植えるか楽しみだよ」
女農園主「あなたの超ミニ農園のじゃがいもはどうなりましたか」
作男「まだ、芽が出ないだよ。心配してるさ。おら、ほじくってみるだよ」
女農園主「お止めなさい!。待つのよ、きっと芽がでますよ」

(写真上、市民農園もすっかり整理されて、区画割りも終りました。あとは区画番号を付けるだけです。)

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2009年3月24日 (火)

東京モード学園コクーンタワー

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 先日、新宿で時間がとれたので、昨年10月に竣工した東京モード学園コクーンタワーを見学してきました。
遠目にはなんどか見ていたのですが、ビル内に入るのは始めてでした。

 もっと沢山の人が出入りしていると思っていたのですが、1階入口付近には人気がありません。
建物周りに作られているプールに、工事用コーンにセフティバーをつけてガードが作られていたので、あれ、工事中かなと思ったのですが、外構設計に問題有りで、通路とプールとの境界がわかり難いので、誤まって人がプールに落ちない為のものでした。

 人の出入りがまったく無いので、入るのをちょっと躊躇しながら、自動ドアーを抜けると、それほど広くない暗い感じのホールで、そこから左側にもうひとつ入口があり、中に受付カウンターが見えました。そこからは一般の人の入場はできないようでした。
そこがモード学園の入口ホールのようで、貼られていた紙をみて、ビルが空いている理由がわかりました。
 東京モード学園やビルに入る他の専門学校は4月から授業が始まるので、現在入学願書などの受け付け業務しか行なわれていないのでした。

 ビル内の見学は無理とわかったので、他の1階周りを見てから、地下の大きな書店ブックファーストに寄ってから外に出ました。そう、2階は見ませんでしたが、コンビにが出店されている様でした。
外観写真を撮ろうと、斜向いの工学院大学前に行き、始めてタワーの全景を見上げました。
このどこからでも見えるシンボリックな建物、他のビルに邪魔されて全景が見れる場所が少ないのです。
丁度、ガラス面に日光が反射して、なんとも目立つ建物です。コクーンタワーの名のように繭をイメージしたとの事ですが、この場所から見るビルの外観からは繭の姿はイメージできません。なにか思いつくものはと考えたのですが、これといった連想も浮かばず、しいて云えば鳥かかなと思いました。香港の竹足場も頭をよぎりました。
写真で見るように、正面のガラス面を左右から鳥かごが包みこむ感じで、このあたりが繭から、なにかが生まれるといった発想なのでしょう。
工学院大学の学生が、このビルのおかげで、大学の場所を教えやすくなったと話してくれましたが、確かに新宿に東京モード学園の象徴的校舎の誕生です。

  階 数 : 地上50階、塔屋2階、地下4階  
  建物高さ : 最高部203.650m、軒高191.830m  
  敷地面積 : 5,172.27㎡  
  建築面積 : 3,509.86㎡  
  延床面積 : 80,903.43㎡  
  構 造 : 鉄骨造、一部鉄骨鉄筋コンクリート造  
 
  設計 : 丹下都市建築設計研究所  
  施工 : 清水建設  

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2009年3月23日 (月)

商船三井の自動車運搬船が、海賊に襲われた!

商船三井のホームページの今日(23日)のプレスリリースに、次ぎのように報告があります。

「自動車船“JASMINE ACE”ソマリア沖 海賊による襲撃の件 」
 
 当社が運航する自動車運搬船“JASMINE ACE”(ジャスミン エース)が、日本時間3月22日(日)22時10分ごろ(現地時間22日16時10分ごろ)ソマリアの東方480マイル(約900Km)の海上で、高速艇2隻に乗った海賊から銃撃を受け、船体に損傷を受けました。同船はスピードを上げジグザグに走るなど約40分の回避行動をとった結果、22日(日)22時50分ごろ海賊の襲撃を自力で振り切りました。

 襲撃による負傷者はなく、油等の流出もありません。また、同船は、操舵室の窓ガラス等に損傷を受けましたが自力航行に支障はなく、安全な海域に向けて航行中です。

<“JASMINE ACE”明細 > 総トン数: 13,038 トン
全長: 126.75 m
船籍: ケイマン諸島、英領(CAYMAN ISLANDS)
建造年: 1995年
乗組員: フィリピン人 18名
積荷: 中古車 377台


 本船は、3月17日(火)にアラブ首長国連邦(UAE)シャルジャ(SHARJAH)港で中古車を積み、ケニア(KENYA)モンバサ(MOMBASA)港に向け航行中でした。

国土交通省のホームページに報道資料として、次ぎのように報告されています。
(海上自衛隊、海上保安庁のホームページには、まだなにも書かれていません。)

日本関係船舶に対する襲撃事案の発生情報について平成21年3月23日

 標記について、以下の事案が発生したとの情報を得ましたので、お知らせします。
 なお、2008年の世界における海賊等事案の発生件数は293件となっており、うちソマリア周辺海域での発生件数は111件となっています。
また、3月23日現在、本年における日本関係船舶のソマリア周辺海域での海賊事案発生は、今回が1件目です(別紙参照)。
1.事案概要
 ソマリア沖にてケニア・モンバサ港に向け航行中、日本関係船舶(※)(自動車運搬船)が、2隻の小型船に追跡され、
銃火器らしきものによって発砲を受け、船橋付近等に被弾したが、該船のジグザグ航行などの回避操船により、小型船は追跡を断念した。

 乗組員(邦人船員はいない)に被害なし。船体の被害は、操舵室の窓ガラス、天井、レーダーマストに数発被弾した模様。

 該船は入港地を変更すべく検討中。

 (※)日本関係船舶: [1]日本籍船舶、[2]日本の船舶運航事業者が運航している外国籍船舶

2.発生日時(日本時間)
 平成21年3月22日(日)22:10頃(日本時間)

3.発生場所
 ソマリア沖


この事件、報道各社もこぞってニュースを流していますが、詳細はこの発表を超えていません。

20社ほどの報道内容を比較してみましたが、朝日新聞が「海賊から数発の発砲」と書き、銃火器を重火器と書いたマスコミもある程度の違いです。
 
 テロ対措法のインド洋給油で、政府や海上自衛隊の発表、マスコミ報道を、全てが正しいものとは信ずることができなくなっていますので、この海賊襲撃事件、海上自衛隊の護衛艦2隻が、ソマリア沖に向けて航行中の事でもあり、ちょっとタイミングが良すぎるのではと思って疑ってしまう悪い癖が出ています。

実は3月14日の読売新聞朝刊の一面に、「ソマリア沖ルポ」と題して、デンマーク海軍フリゲート艦(?)アプサロン」に同乗しての記事がありました。
一面に大きく掲載するほどの内容とは思えませんが、護衛艦派遣報道に熱心な読売新聞のことですから、目くじらたてていたらきりがないのですが、記事が新人記者が書いたかと思われるほどお粗末(失礼!)なのです。その記事に似たような報告があります。
 http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20090318-OYT1T00115.htm   読売記事

 漁船を装った2隻の船からロケット弾攻撃を受けているという、ベトナム船籍の貨物船からの緊急通信を受けての、対処行動が書かれているのですが、記者が乗船している艦とヘリコプターがどんな行動をとって対処したのかが、記事からはほとんど理解できません。本当に襲撃報告を受けての行動記事なのか疑問に思えるほどです。

 今日の、国土交通省の発表とその報道を聞いて、ついこの読売新聞記事を思い出してしまったというわけです。

昨年の産経新聞の海賊襲撃に関するニュースも、襲撃された状況と追跡をかわした状況が、今回とよく似ています。
<参考までに>
2008年8月25日 産経ニュース
23日にアフリカ東部ソマリア沖のアデン湾で日本の企業が運航する貨物船が海賊に襲われた事件で、同船が船橋に被弾していたことが25日わかった。運航会社の日之出郵船(東京都千代田区)が明らかにした。

 同社などによると海賊の襲撃を受けたのはパナマ船籍の貨物船「AIZU」(1万4103トン)。鋼材などを積んでシンガポールからサウジアラビアに向かう途中、日本時間の23日午後5時50分ごろ、アデン湾をイエメン寄りに航行中、高速船2隻の追跡を受けて発砲されたという。「AIZU」はジグザグ航行で追跡を振り切り、乗っていたいずれもフィリピン人の船長と船員計20人は無事だった。しかし、その後の調べで船橋付近に複数、被弾していたことがわかった。同船は現在、サウジアラビアに向けて航行中という。

「3月14日の読売新聞記事(アプサロン同乗記)については、記事はお粗末(失礼)と書きましたが、内容に間違いや、気になる事、参考になる情報も含まれていますので、もう少し続きを書いてみることにします。」

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2009年3月22日 (日)

柳瀬川の桜情報その2--開花しました

Dscn3806_320  今日、3月22日(日)の柳瀬川土手の桜開花情報です。

朝、土手に見に行くと、いつも開花の標準木にしている桜が開花していました。   
 開花宣言です。

多分、今週末が見頃でしょう。

 川畔に下りるコンクリート階段も、柳瀬川駅と上流の志木大橋間に2ヵ所完成しました。
ところが、いちばんお花見客が多いこの間に、夜桜見物用のぼんぼりがつかなDscn3807_320いようです。
柳瀬川駅下流の富士見橋から、高橋(たかばし)の間に吊るされているだけなのです。
ちょっと納得の行かない設置です。なにか理由があるのでしょうか。
尚、ぼんぼりは、少し下流になりますが、村山快哉堂横より、赤橋までも設置されています。

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2009年3月20日 (金)

真言宗のお経 「おん あぼきゃーー」

Dscn3802_320 今日はお彼岸の中日です。
僕は昨日、四谷東福院への墓参をすませました。
お彼岸ですから、いつものように寺で住職から頂いた「新義真言宗」のパンフレット「ともしび」平成21年春号に書かれていたことから書いてみます。

 昨年秋のお彼岸には、やはりこのパンフレットからお経を唱える意味について書いた覚えがあります。

「住職さん!うちは南無妙法蓮華経?、それとも南無阿弥陀?」
と聞かれることがあります。

 南無とは仏教が生まれたインドの古い言葉、サンスクリット語で「ナモ」という言葉が、中国に渡って「南無」と書かれるようになったのですが、わかりやすい言葉に直すと「私はそれを拠り所にします」という意味になります。
 つまり、「南無妙法蓮華経」とは私は「妙法蓮華経というお経をよく読み、その教えを拠り所にします」という意味ですし、「南無阿弥陀」は「私は阿弥陀さまを信仰し、拠り処にします」ということになるのです。

 長い歴史を持ち、全国にたくさん真言宗のお寺があるのに、なぜ
真言宗の宝号は、あまり知られていないのだろうと思われる方がいるかもしれません。
 お経はもともとインドの言葉で、それが中国や日本語に翻訳されてげんざいのように広まったものです。
私たち真言宗は漢訳されたお経もお唱えしますが、古いインドの言葉「陀羅尼」を大切にしている宗派なのです。
真言とは真実の言葉という意味があります。お塔婆などに見られる梵字という文字で表され、文字自体に仏さまが宿り、その音が大事とされるので、インドから中国に、そして日本に渡った後も、漢字に訳さず原語のままお唱えするすことになっています。
 真言宗でいちばん大切な真言に、
光明真言(大日如来さまの真言)があります。
「おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだらまに はんどま じんばら はらばりたや うん」
意味はこうです。 空しからざる大日如来さま,私たちを智慧と慈悲と救いの光りで照らしたまえ。
 
最初は難しく思えるかもしれませんが、言葉自体に力が宿っているので、まずは七回、そのまま唱えてみてください。
繰り返し、手を合わせ唱えるうちに心が落ち着き、目を閉じれば仏さまの姿が思い浮かべることができるようになり、もっと深く仏の世界を知りたいと思うようになるかもしれません。それが仏さまと私たちが、一体となる即心成仏の最初のきっかけとなるのです。

我家の宗派は代代、真言宗です。僕はこの「おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだらまに はんどま じんばら はらばりたや うん」を子どもの頃、祖母から教わりました。
日蓮宗などの「南無妙法蓮華経」、浄土真宗などの「南無阿弥陀」に比べると、この宝号は一般的ではありませんが、テレビドラマなどのお経を読むシーンでは、比較的よく用いられていますので、お聞きになった方もおられるでしょう。
(写真上、自分の家の仏教宗派とそのお経を知るには、この「わが家の宗教を知るシリーズ」が読みやすくて重宝する。僕も真言宗編を購入して読んでいる。)
この、「真言宗のお経」から、
おん あぼきゃーーーの意味を、もう少し詳しく書き写してみます。

「真のよりどころたる毘る遮那仏(大日如来)よ、光明が闇を除き、あらゆるものを照らすごとく、われらすべての者に慈悲を垂れたまえ。
われらが生まれながらにしてもつところの豊な喜びにあふれた生活をなし得る力、蓮の華のごとく何者にも汚されぬ清らかな美しさ、光明のごとくすべてのものに慈悲を寄せる心を、われらの心の底から引きだし、われらとともに喜びに満ちた人生を過ごさせたまわらんことを、心から願います。」

 本尊大日如来の命をいただいて、マニとはすなわち「すべてを内蔵する宝珠に恵まれ」、ハンドマ「泥中より汚れなく咲く蓮の華のような智慧」、ジンバラ「光明に包まれて」、ハラバリタヤ「さとりの境地に入ります」という意味がある。

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2009年3月18日 (水)

今年もまた、水仙の中にラッパ水仙1輪

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このラッパスイセンの花を初めて見てから、今年で3年目迎えました。
志木ニュータウンの中には今、白い水仙の花ががあちらこちらで咲いています。
その1群落のなかで、1輪だけ咲くラッパスイセンを見つけたのが一昨年でした。
昨年もチャンと同じ場所に咲きました。そして、今年は水仙がとくにきれいに咲きそろったのに、この黄色い花を見つける事が出来ませんでした。

ああ、ついにあのラッパスイセンは、淘汰されてしまったのかと心配していたのです。たかが花1輪になんと平和な事だと思われるでしょうが、白い花の先頭に立つように、りんと咲く黄色いラッパスイセンが、けなげで美しく、なぜか気になってしまうのでした。

そして、今日、咲く花を見つけました。「おまえ、生きていたのか!。ありがとう。」正直そんな感動でした。
来年も、また見せてもらうよ。頑張れよ。
季節の花の咲くのが、以前より気になるようになりました。人の死など、いつおとずれるかわからない、来年もまた見ることが出来るだろうかと思うからでしょう。
今年もまた、たぶん再び来る機会はないだろうと思いながらの、「さようなら」の山を歩きます。

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2009年3月17日 (火)

柳瀬川桜情報その1ーーー今年は夜桜も楽しめます

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 柳瀬川土手の桜の蕾もふくらんできました。

 昨年の満開は3月28日頃でしたが、今年も多分3月末頃だと思います。
これから10日間ほどの天候と気温で、開花状況が左右されます。

 今年は3月28日、29日が週末です。露天商の方のためにも、この頃、お花見が出来るといちばん良いのですが。
今年は、ここ2年ほど中止になっていた、川畔の1部(場所がまだわかりません)に、ぼんぼりが灯され、夜桜が楽しめるようになります。

 それと、柳瀬川駅上流側の、お花見客がいちばん集う河原に、土手から下りる立派なコンクリート製の階段が2ヵ所作られています。工事を急いでいますので、お花見時には間に合うものと思います。
Dscn3783_320 (写真上、今日、3月17日の桜の蕾です。少しピンク色に見えます)

(写真下、土手から川畔に下りる階段工事も進んでいます。)

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2009年3月14日 (土)

海上自衛隊インド洋給油その13(2月)----海上阻止給油活動も曲がり角

428px1_320 海上自衛隊発表の平成21年2月1日から2月28日までの給油量です。

<その前に>

1月13日に、海上自衛隊が補給支援活動をしているCTF-150(第150合同任務部隊)の指揮権がデンマーク海軍からドイツ海軍に引継がれた事は、米国海軍のホームページからの引用で2月15日のブログに書いたとおりです。
 
 2月の給油活動の考察の前に、ちょっと書いておきたいことがあります。
日本政府は、給油再開以来、昨年9月に、給油支援国にデンマークが加わったと、そっけなく発表しただけで、補給活動の全容についてほとんど公開しません。

 海上自衛隊のホームページでも、毎月の「補給支援活動の実績について」で給油回数と給油量の報告があるだけで、後はいかに給油活動が必要か、世界か800px1_320ら感謝されているか、支援活動に従事する海上自衛隊の隊員の声などしか掲載しておりません。

 米国のイラク戦争への油の転用疑惑が、国会で問題になり、野党から追求を受けた時も、政府は機密事項保持を盾に曖昧な解答しかしませんでした。
 情報源は米国海軍のホームページその他の資料に、公開されていたにもかかわらずです。
 憲法違反の判決さえ出されたイラクへの航空自衛隊派遣も、その輸送活動の実態が国民にはほとんど知らされることなく、撤退しました。

 ブログに書いたり、どう書こうか温めている情報の、CTF-150のドイツへの指揮権委譲と、CTF-151(第151合同任務部隊)の新設、ニュージーランド、カナダの撤退、海賊対策(CTF-151)への任務のシフト、護衛艦、補給艦の寄港地情報など、皆米国や各国海軍などのホームページや海外からの報道で入手した情報です。

 日本政府、防衛省は国民に知られることを、避けているかのような対応ですし、マスコミもまた、なぜか報道しません。(報道で言えば、沖縄の基地反対運動などにも同じことが云えます。)

 今日の毎日新聞夕刊に、「護衛艦、午後出航」との見出しで、呉基地を出航する予定の護衛艦「さざなみ」「さみだれ」の様子が大きな写真付きで掲載されています。
 確かに遠洋で始めて行なわれる海上警備行動で、(過去2回の海上警備行動の発令は、①能登半島沖の北朝鮮不審船事件(1999年)と②沖縄近海の中国原子力潜水艦事件(2004年))
領海侵犯以外では始めての派遣となる事態ですから、ニュースで大きく取上げられるのもむべかなと思います。
 しかし、海賊対策と今後の別の支援との複雑な問題をはらんでおり、給油支援活動に見られる情報非公開とうってかわった、タンカーを守る護衛艦といった、シーレーン防衛的発想での浮わついたマスコミの取上げが心配です。

さて、少し脱線しましたので、2月の給油活動の考察に戻ります。

パキスタンフリゲート艦     2回 (39)  350KL  (5110KL)
  フランス駆逐艦       3回 (16)  225KL  (1635KL) 
  フランス補給艦       0回 ( 1)    0KL  ( 450KL) 
  ドイツ駆逐艦                  3回 ( 8)   380KL  (1340KL)
  カナダ駆逐艦        0回 (8)     0KL  (1915KL)
  米国駆逐艦         0回 (7)     0KL   ( 4230KL)
  英国駆逐艦         1回 (5)   160KL   ( 695KL)
  ニュージーランド駆逐艦  0回 (1)     0KL  (310KL)
  デンマーク艦         0回 (4)     0KL   (1130KL)   
                                                   合計 1115KL (16815KL)

やはり、指揮権任務を離れたデンマーク海軍の、軍艦とは思えない瀟洒な外観の多目的支援艦アプサロンはCTF-150から離脱して帰国したようで、補給に現れませんでした。

 デンマークに代って指揮権を持ったドイツ艦艇が3回と多いのは、任務上うなずけます。フランス、英国艦などへの補給が増えたのは、先月も触れたように、海上阻止活動に従事していた艦が、任務を海賊対策にシフトしてきている事と無関係ではないように思えます。比較的狭い海域で行われていた、給油活動範囲が広がってきたのだと思います。
 ゆえに、毎週のように給油に現われ、海上阻止活動任務が、いまひとつつかみ難かったパキスタン海軍の2隻のフリゲート艦(P181とP185)とは、補給地点の回合場所で折り合いがつかなかった為、少なかったとみます。
 各国艦艇の任務が海賊対策にシフトしてきていると書きましたが、海上自衛隊の補給艦はテロ対策を行っているCTF-150の各国艦艇には給油は出来ても、同じCTF-150であっても海賊対策に従事している艦艇には補給できないのです
それは新テロ対措法にはっきり謳っており、法律上出来ないのです。イラク戦争時に米軍艦艇への多量の給油と同じで、転用問題になるのです。

 この辺が曖昧なまま、補給艦の活用として、海賊対策で派遣される日本の護衛艦2隻への補給も始まります。
 テロ対措法で派遣されているインド洋の補給艦の活用は、自衛隊法82条の海上警備行動の発令に基づくもので、日本の護衛艦に給油することは法制上問題はないとされています。しかし海上警備行動が、海賊対処法案に引継がれた以後の場合のことに触れた報道は見当たりません。

 海上自衛隊のソマリア沖派遣は、まず派遣ありきの政治判断が優先されています。
その派遣護衛艦との連携が、インド洋給油支援活動に求められるようになり、また、各国艦艇への給油も新テロ対措法に違反する事態も生じており、最盛期の10分の1以下となった給油量の減少とともに、いま、海上阻止行動の給油支援を再考すべき曲がり角に差し掛かったと見るべきでしょう。
(写真上、ソマリア沖海賊対策のため、今日の午後、出航した護衛艦「DD-113さざなみ」
(写真下、同、護衛艦「DD-106さみだれ」

「追記」
インド洋給油とソマリア沖海賊対策が、ごちゃごちゃになった文になってしまったようですが、ソマリア沖海賊対策については、もう少し情報が集まってから書く事にします。
今日のブログにも書きましたが、先ず派遣ありきの対応で、
自衛隊法82条に基づく海上警備行動の発令で、今日の午後、2隻の護衛艦が広島・呉基地を出発しました。
政府は閣議決定した
「海賊対処法案」をなるべく早く国会成立させ、海上警備行動から、新法に派遣の根拠法を切りかえる方針です。しかし、新法の成立もまだ見とおしが立っておらず、曖昧、なしくずしと云われている現状です。
4月上旬から、アデン湾での日本船舶の護衛を開始すると言っておりますが、
2000隻以上にのぼる日本関係船舶を、1000km以上の海域で、いったいどの様に護衛するのか、船団方式といっても2隻の護衛艦での具体的な検討もなしに出航したのですから、混乱は必至だと思います。
インド洋の補給艦との連携とからんで、今後の対テロ補給活動への影響もまた必至と思われます。
<参考>

「自衛隊法」
(海上における警備行動)
第八十二条  防衛大臣は、海上における人命若しくは財産の保護又は治安の維持のため特別の必要がある場合には、内閣総理大臣の承認を得て、自衛隊の部隊に海上において必要な行動をとることを命ずることができる。


「海賊対処法案の要旨」
一、この法律は海上輸送の安全確保のため海賊行為の処罰を規定し、海賊行為に効果的に対処することを目的とする。

 一、海賊行為とは、船舶に乗り組み、または乗船した者が公海またはわが国の領海・内水で行う次の行為をいう。

 (1)暴行などをして、航行中の船舶を強取したり、船内の財物を強取したり、船内の者を人質にし、第三者に対し財物などを要求する行為。

 (2)(1)の目的で航行中の船舶に侵入するなどの行為。

 (3)(1)の目的で航行中の船舶に著しく接近するなどの行為。

 (4)(1)の目的で、凶器を準備して船舶を航行させる行為。

 一、(1)の行為をした者は無期か5年以上の懲役。(2)か(3)の行為をした者は5年以下の懲役。(4)の行為をした者は3年以下の懲役。(1)を犯した者が人を負傷させたときは無期か6年以上の懲役、死亡させたときは死刑か無期懲役。

 一、海賊行為への対処は海上保安庁が実施。

 一、海上保安官または保安官補は警察官職務執行法7条(正当防衛、緊急避難)の規定により武器を使用する場合のほか、海賊行為を行っている者が制止措置に従わず海賊行為を継続しようとする場合に、船舶の進行を停止させるために他に手段がないと信じるに足りる相当な理由のあるときには、合理的に必要と判断される限度で武器を使用することができる。

 一、防衛相は、海賊行為に対処するため特別の必要がある場合には、首相の承認を得て、自衛隊に海賊行為への対処を命じることができる。

 一、首相は(1)(自衛隊派遣の)承認(2)自衛隊の海賊対処行動が終了したときは国会に報告しなければならない。

 一、武器使用の規定は自衛官に準用する。

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2009年3月13日 (金)

こんな遊歩道があれば、徒歩旅行も楽しいだろう

Dscn3782_320  先日、梅の花を見に行った武蔵丘陵森林公園までの道は、歩道と自転車道が分離していて、まさに理想的な遊歩道です。
東武東上線の森林公園駅から、森林公園南口までの、約2.8kmが、車道と一緒になる事はありません。

 前にも書いたことがあったと思いますが、カメラマン石川文洋さんが、北海道の稚内から、沖縄まで歩きとおした記録、「日本縦断 徒歩の旅」でも歩道の無い道路や、トンネルでの自動車や排気ガスの恐怖が書かれています。
Dscn3777_320自転車旅行で、命を落とした人も大勢います。

 もし、日本の主要道路に並行して、こんな自転車道や、歩道があったらどんなに素晴らしい事だろうと思います。
 所々に休憩所やトイレがあり、、一日の行程の終わりにはキャンプ場や宿泊施設もある。東京から青森までとか、東海道や中仙道、または日本海沿いをずっと歩けるなどが出来たら、小学生でもグループで徒歩旅行が出来るでしょう。

 必要性の少ない道路や橋を作るのなDscn3778_320ら、その予算をこの全国の自転車と徒歩の為の遊歩道建設にまわす。
急ぐ事はなく、長期計画で少しずつ完成させていく。そんな夢のようなことが実現できたらと、森林公園までの道を歩きながら考えます。

写真上、森林公園駅前の遊歩道の入口。)
(写真中、歩道と自転車道がはっきり別れている。所々に東屋風の休憩所も設けられている。)
(写真下、道の両側には、植栽がある。)

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2009年3月12日 (木)

中川昭一前財務・金融担当相の選挙区、北海道11区とは?

Tokach1_320  西松建設の違法献金事件で、民主党の石川知裕衆議院議員が検察の事情聴取されるらしいとの報道です。(厭きれるほど次ぎから次ぎへと出てくる、検察関係者の話が根拠です)

小沢代表が、衆議院議員選挙が近いこの時期に参考人として、事情聴取するのは、選挙妨害ではないかと発言していますが、(報道されたこの発言は、していないと小沢代表が否定しました)

なぜか、あまり報道されない石川議員の選挙区である北海道11区(帯広市を含む十勝支庁)について、書いてみます。

前回、平成17年の第44回衆議院議員総選挙 の北海道11区の選挙結果です。
当選 107、056  中川昭一        自由民主党 前
次点  84,626    石川知裕        民主党 新
     16,145    長谷部昭夫     日本共産党 新

そうなんです。あの中川昭一前財務・金融担当相の選挙区なのです。
前回の選挙では、22、430票差で、中川氏が当選しましたが、当の中川議員の泥酔?よれよれ記者会見と、その後のアルコール依存症報道で、今回の選挙はわからないぞと云われていたのです。いやもっと厳しく、今回は落選だともささやかれていたそうです。(地元関係者の話)

 西松建設事件で、対抗の民主党候補である、石川議員が、5年前まで小沢代表の秘書だった前歴から、事件の関与を疑われての事情聴取が大きく報道されてしまいました。
これは、中川陣営に追い風だ、これで選挙がわからなくなったとも思われているようですが、こんな話も聞きました。
地元選挙関係者の話というのは、嘘で音更町に住む知人です

「そうでないんでないかい。中川さんによかれと思ってこんなことしても、同情票が石川さんにいくんでないかい。中川さんは、アルコール依存症を治すのが先でないかい。みんな、もう恥じかかせないでくれと云ってるよ。」


 ところで、選挙で次点だった石川氏が衆議院議員になったのは、2007年の北海道知事選挙に、同じ民主党の荒井 聡議員が出馬した事による議員辞職での比例区の繰り上げ当選です。
  (写真は、帯広市の十勝支庁舎)

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2009年3月11日 (水)

武蔵丘陵森林公園の梅

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今年も、武蔵丘陵森林公園の梅の花を見に行って来ました。
いつものように東武東上線の森林公園駅から、公園入口まで往復約6kmの遊歩道を歩き、ウォーキングを兼ねての観梅です。
梅は越生梅園が有名ですが、僕は梅の花を見るなら、この森林公園の広い梅林をお薦めします。
平日とあって、写真で見るように、来園者も少ない静かな丘陵を歩いて、梅の開花を満喫してきました。風もなく、暖かな春の日差しのもと、梅の木の下で「お花見弁当」を食べて、少し昼寝もしてしまいました。
花は、満開を過ぎていて、多分、見頃は今週末までだろうと思います。
満開の菜の花もとてもきれいでした。

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2009年3月10日 (火)

荒船と神津牧場付近その4---大島亮吉

 荒船と神津牧場付近
三回にわけて書いてきましたが、この(四)で最終章となります。

あんまり牧場のことばかり書いてしまったようだが、大体初めのつもりはこの神津牧場のぐるりの、ごくやさしく小さい山歩きについて、書いてみるつもりだったのだ。

一体私はこのあたりで、初めて日本の低い、小さな山歩きのおもしろさ、たのしさを知った。

そしてそれは私の山歩きの前途に、その時全く払暁的な新しさと望みとをあたえてくれた。私はここで、ただ私のあてもなく、いくたびか歩きまわって、しかも自分には少しもあきることのない、このあたりの山歩き、谷歩きについて、なんの秩序もなく書きつづってみる。

 神津牧場へくるには、軽井沢からがいちばん近い。半日でこられる。軽井沢高原から雨宮新田へ出て、和美峠をこえて上州側へ下り、初鳥谷(はつとや)から高立(たかだち)の小さい谷あいへ入る。高立から少しゆくと一本岩といってドロミーテンのフェルストゥルムそっくりの岩峰が谷のまんなかに立っている。なかなかこのあたりではめずらしいものだ。だがのぼってみようという気はおこらない。そこまでは沢沿いの路だが一本岩からのぼるともう牧場となっている、ひろい山腹があらわれてくる。

これはごく普通の路で、もっと近いのは和美峠より右手の日暮山(につくらやま)の裾の峠をこして、すぐと高立へ山る路である。もっと変化のある路では、軽井沢から上発地(かみほつち)へ出て、そこから八風山(はっぷうさん)へのぼり、やさしい、歩きよい、はばびろな尾根を歩いて牧場のうえの志賀峠の道へ下りてくるやつである。信濃の佐久側や、上州側はこれよりずっと遠い。

 牧場のあたりは、いたるところ、私の好きな、草や笹の、短くて、歩きよく、そしてひろびろとだだっびろくて、あけっぱなしで、眺望のいい、あかるい山頂ばかりである。また谷も、あさく、あかるく、落葉松や白樺の林や、古びた、杉の匂いにしめった村のかげのある、このましいものが多い。八風山(一三一五・二米)、香坂峠(こうさかとうげ)(一一六五米)、物見山(一三七五米)、寄石山(よりいしやま)(一三三四・九米)、熊倉峰(くまくらみね)(一二三四米)、内山峠(うちやまとうげ)(一〇六六米)とこれらの山頂と峠とをつなぐ尾根尾根と内山川の谷々、志賀、香坂(こうざか)の明るい、浅い谷あいとが、すなわちそれなんだ。そしてこのなかでも、物見と寄石と八風のあかるい早春の日の山上展望はことに私をよろこばせた。

 東京から持って来たフランスパンに、牧場でつくったバタとを入れた、かるいリュックザックを背に、私は、半日、または一日のさまよい歩きのために、これらの頂き、尾根、峠、山腹、山窪、谷あいに、うす青い径(こみち)を求めたり、笹原のなか、草ぶかいなか、雪のうえ、流れのほとり、林のなか、村の道といたるところ歓会(かんかい)を足先にひろうては、ほっつきあるいた。

 春はやくにここへやってきた時に、牧場の小屋に泊っていて、私は毎日持って来た本もよみあき、牧夫の手伝い仕事にも疲れた時には、いつも、空気のいろが明るく、雲の流れも淡くひく、午前の透明な気圏の印の展望のために、これらの発感的な山の頂きにのぼって、眼は風の流れる蒼穹のいろをそめて、そこにやわらかい草座を求める。とおい山脈の雪の光が、その時の私のぜいたくな倦怠と孤独とにこたえてくれる。エクスターズの一時間、また一時間。私は山の持つバッシィーヴな魅力というものを、ほんとにその時感覚できた。

 ぼんやりと空想でもしていたり、本でも拾い読んだりするのには、たとえ西風のつよくふく日でも牧場小屋の後ろと、牧場小屋を少し下へおりた牧場の、ぐるりのうす青い落葉松の林のある斜面がとてもいい。日の光は滋養物のように身にあたたかく、風もあたらず、静かで、ただとおい川瀬(かわせ)のひびきだけが耳にほかほかとやわらかだ。

 それから好きな山窪(やまくぼ)は、寄石の、山腹の日の光線がひろびろとかかる笹原の窪みで、牧場小屋からそこへやってくるにはかなりにとおいにしても、日のうららかな、あたたかい日の午前には、どうしても私はそこの笹ごしらえの寝椅子へねころびに出かけてしまう。笹原のなかにとっぷりと身をうずめてしまって、うっすらと笹原をわたる風の韻(ひびき)を耳に、青い眼の下の志賀の谷あいにのぼる山畠をやく、ほの白いけむりをでも見ていることだ。志賀越えの峠道を、牧場がよいの馬の鈴の音がしゃんしゃんと、それに馬子の唄声(うたごえ)がかすかに風のように斜面をのぼつてくる。

 谷で、小さくて、可愛らしく、流れと落葉松とのポエジイを持っているものは、初谷鉱泉の谷あいだ。牧場から物見の尾根をどこでもこせば、もうこの谷だ。草ぶかい小径を下りて、さやかな落葉松のなかの林径をゆけば、初谷の鉱泉宿がたった谷あいの一軒家となって、つつましやかに、いつもうす青い、湯をわかす煙を尾根にはわせている。こんな谷あいの、都会もとおい田舎のひとびとしかゆかない、春には蕗味噌(ふきみそ)と裏山からとってきたうす青い筍とをたべさせてくれるほかには、なんの御馳走もないというような、そんな鉱泉宿の持つ、言いようもないデリカナなシャルム、ある清新なたのしさ、やすらかさについては、全く実際こんなところへ一度でも泊ったひとでなければ理解できないことであろう。私はそこで、ただ湯につかり、本を読んだり、このあたりの田舎の湯治客と、湯宿のひとたちと、湯槽(ゆぶね)のけむりのなかで、雲のいろを見て、山の風をきいて、愚にもつかない、けれど飽きることのない山のはなしや土地のおしゃべりをしたりしてくる。ここは湯宿のひとがてずから薪を割って、湯を沸かすほどに、小さな鉱泉宿なのだ。

荒船、内山峠などへの山歩き、またはあてもなく、谷みち、村の道などのプロムナードのために、私はこの小さな、かわいらしい谷を愛して通ることにしている。

 牧場から、笹原ばかりの尾根すじに、ターゲスワンデリングをするのには、私はいつも志賀越えの峠道をゆるゆるとのぼって、峠のうえにつき、それから幅のひろい、尾根とも思えないくらいのゆるい笹原をかさかさと歩いてゆく。西風の吹かない、春の日向には、ここいらを歩くのは、全くちょうどいいくらいのあたたかさだ。わかい午前の日の輝きと匂やかなそよかぜは、私の影をきよらかにめぐり、半身に日を彩りつつ、眼の向けるどこにもは、うっとりとした、はるかな、はるかな春の山々のうすい山影。さすがにこんな日には、北アルプスの雪も、するどくは光らない。まるで夢をみているようなおだやかさだ。それをみるものも、また夢みて歩いているんだ。枯草は残雪のあいまに金いろに光ったり、紫の蔭に安らったりしている。そして私は香坂峠から八風の頂きをすぎて、もっと先までもしらずしらずに行ってしまう。そしてついには、もうはる風の流れている信濃の村々をぼんやりと谷あいにながめながら、一一五五.五、の富士山という香坂の村の上の草山あたりまで、尾根のうえについた小径を歩いて行ってしまう。そして今度は、谷の村々のひそやかな青紫の木立の影をめざして、尾根を下りてくる。草の斜面から、林、藪、小川、畑、百姓家とだんだん村のなかへ近づいてくる。そしてこれから信濃の山ふもとの春さきの、麦と落葉松と水車の村々を歩みぬけては、志賀の谷あいをのぼって、また山上の牧場へと、静かな夕暮れのいろこめたなかを帰ってくる。そして峠のうえでふりかえれば、きょうもことなく暮れた平和な谷の村々が、遠ざかってゆく私を山裾や谷あいで見送つているようだ。

そしてそんな時私は、ああ、よくも散歩し、よくも歩きまわったその日一日の快いのびのびとした軽い心持と、疲れたのどをうるおす、新しい搾りたての牛乳の味とを、いつも心からたのしむのだ。香坂の谷も志賀の谷も、あさく両側のなだらかにひらけた、ゆたかな村々のある、谷問だ。ことに志賀越えの峠道は、村から山畠、雑木林、草っ原、落葉松林、笹原と、上へゆくにしたがってかわる、ゆるい斜面をゆっくりのぼってゆく、趣きのある道だ。牧場への物資もみなこの峠をこえて、岩村田から馬背ではこばれるのである。牧場からは毎日のように馬が鈴をならしてこの道を通っている。それをきくとなんだかまだ往昔の街道の峠のような気がしてならない。

牧場の近くにある山村でいいのは、西牧(さいもく)の谷へ牧場から下りてゆくと、すぐある、山腹のテラッスのうえにわずかばかりの畑と木立とでかこまれた屋敷という小村だ。曲りくねった、急な折れまがりの岩道を下りてゆくと、この村の古びた、苔ぶかい石屋根と白い障子が見える。そこも牧場とおとらぬ平和なくらしぶり。玉蜀黍をずらりと軒につるした人のいい村の家の黒光りの縁側でついでくれる、うれしい土瓶の茶の匂いに私はいつも感謝する。

屋敷から更に下って市野萱、中萱、三ツ瀬など、内山峠の街道沿いの村々へと下りれば、これらの黒ずんで、家のなかのくらい街道の村々の屋根のうえに、全く巨きな難破船の朽ちたように、または屏風をめぐらした。古びた城墟のように、怪奇な荒船の山姿がのしかかるように高い。ことに内山峠へ向かって、あの平らな頂上の突角が突如直角に落ちて、ほんとに船の舳のようになっているところを見ると、たしかに荒船という名のふさわしいことを知る。

私は三ッ瀬の小さい旅舎の暗い庇の下の二階の窓から、三月の夕暮れにこの荒船の蒼い雪と黒い岩とで眼のうえに突き立った姿を見た。そして、それには夕日の薔薇がまだちらちらしていた。低いけれど、なんとなく高く、おそろしく見えた。このように船のように見えるのは上州側から見た時のみで、信州側から見れば、この荒船もただ頂上が一直線に長い、あまり見栄えのしない山だ。

三ッ瀬から荒船へのぼった時は、また三ッ瀬から相沢の村へはいった。前にも書いた通り、西風のつよく吹く、すばらしい天気の日だった。相沢の村を遇ぎると、途は小さくなって、すぐ雪が硬く凍りついていた。細い道は尾根のようなところを急なジッグザッグでのぼっていた。地図にはない径だ。朝の紫水晶いろをした空に、風のびゅうびゅううなるなかに、この岩の船が雪にあおあおと光って立っていた。径はしばらくして雪で埋まってわからなくなってしまったので、私は硬い、朝の凍った斜面をただ上へ上へとのぼつて行った。その時幸い鋲靴をはいていたので、この雪の斜面はあまりてこずらなかった。けれどいよいよ頂上へのぽりきる最後の雪の斜面は、おそろしく急であった。とても初めはのぼれなかったけれど、ついに持っていた鉈で一歩一歩足場を切って這いのぼった。舳の突角の岩壁のそばであったから、非常に急であった。のぼった時はうれしかった。上州側からのぼったのはこの時だけで、その後はいつも信州側からのぼっている。

 頂上にのぼれば、まともに吹きつける西風は眉にしみて、そこは全くの兎の足痕のみの雪の原で一ところどころに牧草が金色に光り、岳樺がさびしく立つていた。私はその足のぽくぽく潜る雪原を足を歩くにまかしてなんの制限も加えず、風のなかに、眼の輝くままに展望をほしいままにし、よろこびにひたされてめちゃにこの頂上高原への尊敬と愛清とを、そこら中へふりまいて歩いた。頂上高原の南端には一四二二・五米のぽっちりと小高い円錐状の頂きがある。そこへのぼれば、南の方に重なり、うち重なる黒木山、更に黒木の山ばかりが、雪をかぶつた、清らかな自然色をもって、連なっているのが、いきいきとした午前申の大気のなかにのぞめる。けれど私はその時は、まだ北から西への皚々たる高い山脈に、ずっと心を惹かれていたから、この南の、これらの低い、午前の日のうすむ山山にふかく印象もされなかった。

 けれど、二度、三度と、春はやくに、または夏晩くに、秋の初めに、この頂きに座し眺めるたびに、私はこれらの、低い中部日本の山々の古雅な、静かな、日に光り、日に影する山隅(やまくま)や谷影をもまた愛するようになった。こんな低い、ちいさな、名もない山々。こんな山々にさえも、またそこには私らにとって決してくみつくせぬ多くのものがある。そこにはまず、私みずからの心胸内に、以前とちがったものが、あることをみとめなければならない。もうその時には、私はこの荒船の頂きに座って、これらの山々をみおろしていては、あの低いバイエルンの故郷の山々をかぎりなく愛して、生涯そこをたえず歩いたひとりの登山者の精神を、まるで鎮静な香炉からのぼるひとすじの煙りのように、匂いふかく思念せずにはいられなかったのである。私はこの日本のミッテルゲビルゲを、また彼のごとくに愛したい。

 信州側から荒船の頂上へのぽるには、星尾峠(一三〇〇米)へ内山峠の街遣からのぽってくる。いい道を、峠の頂上までくれば、そこからはほそい経が荒船の頂上へ通じている。星尾峠は上信のさかいになって、春には雪のかたい谷道が、信濃側へくれば落葉松の林のなかについている。

私はいつもこの道をのぼってくる。道の途中には小さな百姓家の二、三より集まったところと、荒船不動の杜がある。

 とにかく荒船は、私にはたびたびのぼりたい頂きだ。ことに早春、それが雪に光った古い城壁のように見える時にそうだ。それから、この秩父裏になっていて、また神流川、西牧川、南牧川の上流になっている、上信の国境の低い、錯雑している山地は、山の奥ふかくまでも、古い、小さな村々が、古くから人問生活の根をおろしている。そこには決して高い、顕著な山頂もなく、一帯に低い山が折り重なっているだけだ。だから交通も開けなく、文化の風もふかず、村々はまるで動きのない平和な生活をしている。荒船から見たこの山地の蒼古な山すがたに心ひかれて、私は昨年(大正十三年)の、夏に、とうとう、峠越えをして歩いてではあるが、この低い山々のなかを上信国境に沿うて歩いた。

 この神津牧場のあたりが、軽井沢の高原へ続いて多く明るい草山なのに比べて、内山峠の街道から向うは殆んど黒木山ばかりで、感じも湿って、くらく、陰気だ。けれどまたいい草山や、草原の峠もある。余地峠と矢沢峠がそうだ。それから栂峠も美しい草山が続いている。一体にここいらの低山地は、交通も不便だし、目立って高い山もないためか、また東京の近くの丹沢山塊や道志山塊、御坂山塊、多摩川と相模川との分水山脈のように、低い山を歩くことの好きな登山者にも、まだそんなに詳しくは歩かれてはいないようだ。またここいらの山歩きの記文もあまり私は見ない。「山岳」の奥上州号には高畑さんの「晩春の神流川上流へ」など、また近頃の「山岳」の荒船近くの記文と民話は素敵に私はうれしいものだった。たしかにこのあたりの低山地は、古いだけに、いろいろの歴史、伝説、民話にとんでいるらしい。その点でもおもしろそうだ。けれどまだそこは私にとっては

Liebingsgebietではない。私のCherished Hauntはどうしても、神津牧場をまんなかにして、八風から荒船までの間だ。こんなつまらないところだけれど、私にもひとつのこんな、何度でも行って少しもあきないというところを持っていることはうれしい。そして私がこのあたりに時たまの遊行をなすことは、じつに私にとって山への愛を高めるひとつの手段なのだ。私の山への静かな小さな考えが、いかにここいらの枯草の山頂と落葉松の谷あいによって、ここ幾年、愛せられ、まもられ、慈しまれてきたことだったろうか。そして、それによって、ほんとに山への、どんな熱情を私はとりもどしたことか。書くだけ気障かもしれないが、私はここの牧夫部星の窓枠ががたがたと西風に打ち鳴るような日など、ひとりそこに居残って、太い松薪のちらちら燃える暖炉の前で、静かに、本気になってある時はThe Englishman in the alpsにどんな幾篇を、またある時はあのジャヴェル遺著の幾頁を、ほんとに自分のために読みふけった。

 ここいらはたしかに日本でも、低い、そして小さな山や谷だ。そしてなんのその土地に対しての知識もなしに、らくらくと地図をたよりに、自由にひとりで歩ける程度のところだ。だから私は決してここいらを、そんなようなことのために書いたのではない。ただ、自分にとって、たのしい、そしてまたいろいろの小さい山歩きのおもしろさを与えてくれ、それによってまた山へのひとつの別な愛をとりもどすことのできた、いろいろの点で自分の忘れがたいところなので、ただ思い出すままに書いたのだ。それからまた、これによって、日本の低い山をのぼるうえで、自分の気質のやや鮮明に生きてきたことを感じて、ひとりよろこぶのだ。そして私にとって、その山上の牧場は、またそこの持つ明るい、きよらかな自然と、そのなかに生きている美しい、平和なひとつの人生との、その一箇完全な調和の光景が、私をして実にここ数年来そこを傾倒すべく、愛すべく、かつ美しからしめ、たのしからしめているのである。

 私はこれを東京の高台の兵営の、またその牧夫部屋とあんまりちがわないような装飾もない質素な部屋のなかで、もう九ヶ月以上も山での生活とはなはなだしくかけはなれた兵営生活をしているあいまあいまに、心たのしくこれまでのことを回想の筆に托しながら書いたのだ。

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2009年3月 9日 (月)

荒船と神津牧場付近その3---大島亮吉

荒船と神津牧場付近

 

 三

こんどは牧場のことについて言ってみる。この牧場はまず、実にいい場所にある。きよらかな、透きとおった場所だ。標高は千米から千三百米までの問にある。

山のうえの高いところに、よくもこんな、緩傾斜の広い場所があったものだと感心するくらいだ。物見の頂きまで、夏には牛たちが草を喰べにあそびにゆける。そして小さい流れが、このひろい山腹をほどよくうるおして家畜らに飲水(のみみず)をあたえつつ熊笹のかげ、木の根っこ、草のなかをよろこんで流れている。夏にはこの牧場は一面かぐわしい牧草の匂いにみちる。ところどころに小高い斜丘があって、牧場の小屋の後山(あとやま)は岩塊と草との斜面と落葉松の疎林になつており、そのうえには円みを帯びた頂きが続いている。

 牧場からやってきて、落葉松のまばらに、立っている枯草の斜丘にのぽってきてみれば、春まだ浅い牧場の眺めはまだらまだらに山窪(やまくぼ)谷隅(たにくぼ)に雪をのこしている。ここでも春は蕗の薹から芽ぐむ。そして、ここへくる時通ってきた上州のうすい青い谷々や、淡紫色の低い山の遠景を見ていると、春は平原からのぼってくるのだということが、つくづくと感じられる。そして、そこの落葉松山(からまつやま)もまた冬さびてはいるが、それでいて柔かになにか芽ばんで、かすんできた風物を見ると、もうそこにもやがて遠い地平から輝く春がさきぶれを送ってほのかにやってきているのに気がつく。

 もしも物見か寄石(よりいし)の頂きまでのぼって行ったら、そこのぐるりにひらける山上展望に私はよわずにはいられない。雪ふかぶかに、西風に洗われて、水晶のように透明に光っている北アルブスをもっともとおくに、八ガ岳から続いた蓼科(たてしな)は老い朽ちた死火山の影をはなち、浅問は吐くけむりもほのかに、みな雪にしろく、秩父は屋根くろぐろと高く、それとこことの問にある折り重なった多くの黒木山(くろきやま)の林層(りんそう)のあいまには、ところどころ白く雪が光って見える。右は八風山に続いて起伏する斑雪(まだらゆき)山。のぼってきて後ろには妙義の黒い、骨ばった峰々。そして更に視線をとおく上州の平原へと延ばすと、それに続く低い山々の折り畳みが、まるで固体の海の波涛ででもあるかのように眺められる。私はこの物見と寄石との三月のある午前の山上展望によって、一度はとおざかっていた北アルプスに、つよくまた惹きよせられた。そして、その時急いで私は家に帰り、すぐさま友を誘ってそこへ出かけて行った。それから蓼科へも、そこからの展望によって誘惑されて、牧場を下りて行ったことがあった。おそらくここの展望は、この早春のころと、そして晩秋のころがもっとも私はいいであろうと思う。

 それは牧場全体のことだけれど、こんどは牧場のうちの小さいことを言うと、まず牧場の建物や小屋のことだ。ここの家畜小屋の構造(つくり)は全くカラームやゴオの絵や写真で見る通りに、アルプスのシャレエそのままだ。緩勾配の低い板葺きの屋根には雨や風に曝された、くろい石をのせて、白塗りの玻璃窓(ガラスまど)のはまっているあたりはことにそっくりだ。牛舎、秣小屋、肥料小屋、物置小屋、牧夫小屋、牛酪つくり場、など、みなこのあたりの風景にふさわしく、無秩序のように、それでいてうまく、最も都合よく建てられてある。大体この牧場の建物や小屋は決して、アルプスのシャレエをまねて建てたのではない。外部を普通の信濃の山家(やまが)の構造(つくり)そのままをとって、ただ内部を牧舎や、それぞれの小屋の用途に適するようにかえただけである。日本の山のなかの百

姓家とアルプスのシャレエとが外観のはなはだしく似ていることは、誰でも知っていることだ。

ここの牧場の建物や小屋だけが特にシャレエに似ているというのではないのだけれど日本の山のなかの百姓家は外観こそ、シャレエには似ているが、その内部にいたっては、全く採光の点では劣っていて暗く、湿っぼく、陰気でおまけにストーヴでないから、けむく、くすぶっていて、あまり感心しない。

 けれど私のいつもこの牧場へ来て泊る牧場の炊事場と食堂をかねて、それに牧場への御客も泊るようにできている小屋は、極めて気に入った内部のつくりだ。厚い一枚板の、頑丈で大きな食卓、その上で牧夫たちがおどろくべき健啖さを発揮して、いつも質素な食事をする。室のなかにはなんの飾りもないが、片隅の暖炉のそばのホップのうえの湯沸しはいつでもやさしく、つつましやかな歌をうたい、明るい玻璃窓(ガラスまど)はひとつの立派な戸外の風景をそのまま額椽のように篏めこみ、そのうえ青い山上の朝霧の網をふるわして、薔薇いろの日光がその室のなかに斜めに太く射しこむ時、その明るい窓ば全く、この部屋にとって最もふさわしい生きた装飾となる。そうして暖炉のそばには毛並のつやつやした、鼻先のとがって、いかにも怜悧そうな顔つきの羊飼い犬がおとなしく座っている。部屋は食事と食事の間は、如何にもこざっばりと快適にまるでゴッホの素描のように、きっぱりした明暗と生気とをうけてととのっている。そして食事時(しょくじどき)の鐘がなれば牛舎からも、秣小屋からも、牛酪つくり場からも、仕事を置いて牧夫たちは、日にやけた、まっかな太い腕をまるだしにして、集って来る。綿の厚く入った和製テルシャツの仕事着で着肥ったそれらの人たちの体は、若さと健康とにはちきれるばかり。そして牛たちが草をたべるのと同じように、さもうまそうに、最も質素な食事にむかう、同じ慈しみの空気は、彼らのうえにただよって、にぎやかな談笑が湧くようにそれらの人たちのなかからまきおこる。

 この牧場はもとは、この物見山の信濃側の麓にある志賀村の豪家、神津氏の経営にあって、それで神津牧場と呼ばれているのだが、この土地では物見山牧場の方がよく通じる。神津バタの名はよくきくだろう。それほどここはよいバタをつくる牧場としても知られているんだ。

 牧場では年中乳を搾っては、それでバタをつくっている。牧場の生活は単調だ。牧夫のうちには、それぞれ乳を搾る役日、秣をきざむ役目、バタをつくる分離器を廻す役目、薪をつくる役目などときまっている。毎日それを、おのおのが繰りかえしているんだ。そして毎日の仕事が同じなのと同様に、毎日の食物も全く同じだ。朝から晩まで終日(いちにち)、三度三度が味噌汁と飯っきりだ。

そして午後三時にはおやつに、小さい子供の頭ぐらいの大きさの握飯をこんがり焼いて、それに味噌をなすったのを一人が二つずつ喰べることになっている。実にそれっきりである。そして文句はでない。だから牧夫はみなおとなしく、正直で、無邪気で、からだがつよい。そして子供のような好奇心にとんで、話ずきである。またそれだからとて決して仕事を怠けやしない。おそろしいほどはげしい労働を平気で、長い間続けている。牧夫たちはみなこの牧場の麓の村々の者で、永くそこで仕事をしている者だ。だからその人たちは全く他の生活というものを知らない。私はなによりこれらの素直な、不平なく愉快に働いている人々が好きだ。そこでは休息と団欒とのあいまの労働がそれほどにも、ひとつの美しい、正しい世界を形づくっているんだ。私はこころからこれらすべて労働する人たちの明るい、やさしい心をたたえたい。

 私がこの牧場へきて、これらの牧夫たちと一緒になって、面自半分にやった仕事というのは、いちばんやさしい秣切(まぐさぎ)りとエンシレーズかつぎだ。春には秣切りを、夏と秋にはエンシレーズかつぎをやる。その新米の秣切りの相手は、いつも「松」という、少し薄馬鹿な、涙の出るほどボン・ノンムである若い牧夫だ。秣小屋のなかで、手のあいた一人が藁を挾んで、二人で交る交るに秣切りの機械のハンドルを手でぐるぐると廻すと、ザックンザックンと歯ぎれのいい音をして秣が切れる。「松公」はこうして、いつも尻切れとんぼに終るわけのわからないような歌の初めを、鼻でうたいながら働いたり歌を歌ったりし続ける。私もまた口笛に歌の譜をうつしたりなどして、同じように仕事をし続ける。こうしてある日の午前が送られることがある。

 エンシレーズかつぎは、なかなか苦しい。夏と秋の初めには、牧場は最も生産力の旺盛な時で、牧場の人々全部が、朝から夜まで活動する。牛たちもみな朝から、ひろい物見の上まで目由に放しっぱなしにし夕暮れにはまた牧舎までつれ帰ることをしなければならないし、それに乳搾り、牧草刈り、牛乳の運搬などと、春や冬にはない仕事がふえてくる。

 夏と秋とには、そのように牧場は静かななかにも、幾分と忙しいところがある。それから夏にはこの牧場あたりは毎日霧の日が多い。この山上の灰色の霧が、またこの牧場の風景をなんとも言えなく、しめりふかく、ふかみずける。そんなような日に、霧のなかを、笹原や牧草の敷いたようにやわらかな、ゆるい尾根続きを歩きまわった時、私はその笹をヘザーにたとえて、本で読んだスコットランドの低い山々のヒル・ウォーキングを思い起し、スウイスはカントン・ド・ヴァレエの高い谷の傾斜面にあるPaturageをたのしくも想像した。そこには、霧のなかにソンネーユの朗らかな音のひびかないのが、なによりの物足りなさではあるが、この中部日本の、山上の牧場にも霧のなかで姿は見えずに、時々、牛に食わす草を刈つている牧夫が歌う、この信濃の山国(やまぐに)のひな唄をきいていると、それは、ひとつのまた日本的な牧歌的情緒を生みいだすではないか。

 夏のタベの牧場の光景もまたそうだ。この山上の牧場の夏の夕べはから静かに、煙りのようにのぼってくる。そしてそれは山の中腹を這っている。するととおくであそんでいた牛の群は、牛舎の前の、乾いた石を積んでかこった囲いのなかにひとりでに帰ってくる。乳牛たちはいまは黎明(あさあけ)から日没まで終日(いちにち)、暑い太陽に焼かれた、花と牧草の匂つている、ひろい牧場で草を喰べたり、流れの水をのんだりしているんだ。乳を搾る時間がいま来たわけなのである。乳牛たちはちゃんとそのことを知っているらしい。あるやつは起きたまま、じっとおだやかな、どんよりとした眼で私をみつめているし、また別のやつは、ながながと寝そべり、肢(あし)をのばし、大きな腹を溢れ出し、まるで乳房を圧しつぶしてはしまやしないかと思われるほどにして横になっている。みんなねむそうだ。長い睫毛(まつげ)のふさふさと陰った下で、おとなしい眼を半ば閉じたり、つぶったりしている。そして、みんな規則的な、ものうい格好で、反芻している。淡薔薇色の鼻面からは、涎がゆらゆらと糸をひいて、ゆられている。

 すると炊事場の方から、カラン、カランという鐘(かね)の音がひびいてくる。乳を搾れの合図だ。乳搾りの牧夫がやってくる。つよい、大きな頭がひとりでにみんな起きあがって、大好きな塩をねだっている。牛たちがぺちゃぺちゃと湿った音を立てて、塩をしゃぶっている問、牧夫はしゃがんで、ニュームのバケツのなかへ、雪のように白い、乳をチュウチュウ搾り出す。その搾る手先の連動は、ひとつのリズムを持っている。泡立って乳はバケツにたまるんだ。

 からのぼって来た夕は、空から降りて来たすみれ色のヴェールと、この山上で一緒になってしまったようだ。コリイ種の牧羊犬の吠え声が、牧場の夕の平和をわずかにやぶる。炊事場の青い煙が、屋根のうえにただよっている。ようやく乳搾りのすんだ牛たちは、おだやかな、重みのある歩きっぷりで、一匹ずつ、囲いのなかから、牛舎へと連れこまれる。あっちこっちの牛小屋のなかで、低音のもうがきこえてくる。そして、とても静かにこの山上の牧場に暑い一日のあとの平和な夕暮れが完全に来る。ここの、こんな夏のタベの平静な光景は、たしかにエキゾチックな、そしてピットレスクなものだ。ひとつのミレーの小画板である。私はこんな時、うれしくなって思わずも、アルプスの牧人らから生れたヒルテンリートなどを、夕栄の山頂にうつして、口笛にうつしなどして、その素朴な歌の調子をたのしんだりする。そんな風に夏に来てはここのあかるい夕景と霧の日の灰色画とが、最も私のふかい感興を染める。

 この牧場へ来て、牧牛者のなかにいる時や、大きな牝牛たちの前に座っている時に、初めて私はあのフィリップ・アルボオのLA vie pastorale dens les Alpes Francaisesのシャルマンな頁を想い浮べることができる。頑丈なシャレエと荒れさびた山上の牧場のベエイサージュを眼にすると、ジャヴェルの愛したル・サレエヴの山谷をしのぶ。

 まだ晩秋に、ここへやってきたことはないが、おそらく、他のいずれの季節にもましていいところがあるであろう。きっと、十月の終りから十一月の初めの、あたたかい、よく晴れた一日か、あるいは、ほんとにサン・マルタン祭にあたる十一月十一日前後の小春日和をえらんで、ここにきたならば、その山の中腹にひろびろとひろげられた牧場の、レンブラントの素画めいた風景は、おそらく私の瞳をあらうように、きよらかで、うつくしかろう。ことに、そのころの、あくまで澄んで、深遠な蒼弩(あおぞら)のもとに、水晶のように冷たくて透明な西風に吹きさらされた、あの国境の山脈(やまなみ)の雪の光るのを眺めるにいい、晩秋の午後の座席が、あの尾根の笹原にはいたるところに見出されよう。日本の低い山を歩くにいいのはどうしても早春と晩秋だ。

 また、そんな暖かい日だったら、牧場の例の牛たちもきっと、牛舎の前のあの柵の内には連れ出されて、いつものように、乾草を食いながら、たのしそうに鼻息をつき、あちこちと重そうに歩きまわり、そうして始終長い尻尾で、脚や腹にたかる、年の最後の蝿たちを払っていよう。私の好きな、たびたびスケッチのモデルになってくれた、あの班ら茶色のゼルシイも、私の傍へ寄って来て、また大好物の塩でもくれるのかと思って、反芻動物特有のうらがなしい眼付きで私を見、それから頭をさし出して、捲毛の生えたぼんの窪をさすって貰おうとするのにちがいなかろう。(三)終り

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2009年3月 8日 (日)

荒船と神津牧場付近その2---大島亮吉

春の初めには、この牧場はまだ雪が斑々と残って、きよらかな、すきとおった自然色のうちに静かに眠っている。ぐるりの山も雪でふかく、つよい西風が毎日尾根で晴天の笹原をざわざわと鳴らして吹きわたる。牧場の仕事もいたって閑散だ。牧夫たちは戸外へ出ては、殆んど働くこともない。家畜はみんなあたたかい小屋のなかにいて、よほど暖かい、よい天気の日でないと、小屋の外には出されない。私はここの早春のころにいちばん愛を感じる。

 この春あさい頃には、毎日よく晴天の日が続く。そしてここへきては、私は毎日、この牧場の近くの、なだらかな山上の傾斜面や丘窪(おかくぼ)に残雪と枯草とを踏んでの散歩者となり、あかるい、落葉松林(からまつばやし)の谷あい沿いの細径を歩き、雪の硬い山道をよじのぼっては、このあたりの山々の頂きを訪れる一日の山上の彷徨者となる。そして、またそのような散歩と山歩きとの問のある日には、この牧場の平和な、おだやかなペエイサージュのなかに入りまじって、牛舎の前の日当りのいい

囲いのなかの牝牛ののどかな、ながい啼き声を、あるいはまた私の胸のなかへねむいまでの、のびやかさで平静を歌う牧夫部屋の暖炉続きの側面架(ホップ)のうえの湯沸しのふつふついう音を、またあるいは日の当る斜面の牧柵に背をもたせて、秣(まぐさ)小屋から洩れる秣をきざむザックン、ザクンという音と、秣を切りながら歌っている牧夫の鼻唄などそのほかのどかにも心を魅するこの牧場のさまざまなもののひびきをうつつのうちにききながら、ただわけもなく、全く憂心もなく、不安もなく、ひとり無為をたのしんだりするこれらのことが、私が早春にここへやって来ての殆んど毎日の日課なのである。

 それから、もうひとつそれに是非ともつけ加えて置かねばならないのは、この牧場でのめる、新鮮な牛乳の味である。

 この山の牧場の乳搾り場はちょうど、牧場のいろいろの建物のちらばっているまんなかに牛舎と並んである。そこへ朝むっくりと起きて、すぐさま高い山上の冷たく、さわやかな朝の空気を呼吸しながら、まあたらしい、搾りたての牛乳を飲ませて貰いにゆくのは、またおそろしく自分にとって悦ばしい、そうして健康なことなんだ。三月にはいったばかり、まだこの山の牧場のあちこちには消えきらぬ残りの雪の斑らな時分には、この牧場の朝はすばらしい寒さだ。空気は氷のように冷えて、肺臓に泌みわたるようだし、吐く息は虹(にじ)になるくらい。凍りついた路が、重い鋲靴の下できちきちいう。

 枯れた草や畑や小屋の石屋根(いしやね)のうえには、霜がしろくきらきらと輝いている。荒船続きや、物見の頂きのあたりの雪が光り、金の羊毛のような朝雲のたなびくなかに、とおい黒藍色の山影がうかび、そして牧場から信濃へこえる志賀越えの路傍(みちばた)の、りっぱな落葉松のすらりと立った並木の枯枝は、まっかな朝口を浴びている。

 牛酪製造場の煙突からはすっと柔かに煙りが流れて消えてゆく。石を敷きつめた低い屋根の牛舎の問の幅広い通路にはいると、もう家畜特有の匂いがする。乾草の香がせまる。

 どこかの牧舎のなかで声高に話し合っている、健康そうで、快活な牧夫たちの話し声、遠くで吠えるあの羊飼い犬のなき声などとうちまじって、そば近くの牛舎の白いラック塗りの、窓からは、人なつこい、甘えたような、乳牛たちのもうが聴える。牛舎の間の中庭も、そこいらに散らかった寝藁(ねわら)くずも、水たまりもみな凍っている。みかけは燻んだ百姓家づくりで、屋根に石をのせた牧舎も、その内部はみな、さっぱりとして、明るい感じのする西洋風の白ラツク塗りになっている。そしてほのぐらい、むんむんと鼻をつくような牛舎特有のこんがらかつた匂いのする内部には、栗いろ、白、黒、ぶちなど、すべて小山のようなゼルシイ種の多産なおとなしい獣たちが、でっぱった臀の先にぼんやりあたる薔薇いろの朝日をうけて、立ったり、前足を折ったり、座ったり、反芻したり、涎をながしたり、生温かい呼吸をもうもうと吐いている。

 搾乳係りの牧夫が手馴れた手つきで、淡薔薇いろの大きな乳房からアルミニュームの大きなバケツのなかへ、チュウチュウと白い線をほとばしらせて乳をしぼっている。彼女たちはその間温順な眼つきをしてもぐもぐとただ乾草(ほしぐさ)をたべている。甘ったるい臭気の中を、こんな寒さにも蝿がぶんぶん飛びまわっている。

 ニュームのバケツから、この搾りたてのままを厚手のガラスの大コップヘ一杯になみなみと注いでくれた牛乳の、なんという新鮮さ、なんという芳醇さ、冷えた身体に生あたたかい牛乳のほんとうのうす甘い味をもって、のどをぐいぐいとおる時のうまさ。

 ああ、美しい、きよらかなこの信濃境いの山上牧場の春浅い朝に飲む、この芳醇廿美な一ぱいの牛乳! 私は都会にいては米のとぎ汁みたいな牛乳はのまない。けれどこの牧場へやってくると、いつも毎朝、毎夕搾り立ての牛乳を、二合ばかりはいる大コップに一杯ぐっとのむ。それも朝は、はれやかな散歩や、一日のさまよい歩きに出かける前、夕は終日の山歩きから、ほどよく疲れて帰ってきて、すぐ渇いたのどに夕食まえをのむ。

また晩夏のある暑い口の夕暮れだった。堆肥かつぎを手伝ってかなり疲れ、のども渇いた時に、私はまたそこの牛乳のうまさを知った。こんなことを私はその時に思い出した。それはテオフィーユ・ゴオチェが、彼のRecits et Croquisという山歩きのスケッチのなかで書いたことだ。彼が暑い夏の日に、ピレネエの山中を終日さまよい歩きまわって来た夕暮れに、とある谷間に降りてきてそこの小さな牧場小屋の傍らの氷のように冷たい流れのなかに冷やしてあった乳の一杯を貰ってのんだ時、それが彼の生涯での忘れがたい美味のひとつだということなのである。

私のこの山の牧場をこのんでくるいろいろな理由のひとつは実にこのまあたらしい牛乳の味を忘れかねてである。ただそこへ乳をのみにゆくことだけでも、それはじつに私にとって悦ばしい健康なことだ。
)終り

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荒船と神津牧場付近ーーー大島亮吉

少し余裕が出来たので、前に書いた「星尾峠」、「涸沢の岩小屋のある夜のこと」に続き「荒船と神津牧場付近」を書き写してみました。
 読むだけより、書いてみるとより深く心に残るようなので、自分の為にやっている事ですが、興味ある方は、読んで頂ければ幸いです。先ずは(一)だけですが、続いて書き写していきます。
大正末期の日本の山岳界をリードし、昭和3年3月、29歳で前穂北尾根に散った若き登山家、大島亮吉の作品で、「涸沢の岩小屋のある夜のこと」とともに、古くから岳人に親しく読まれてきた伝説的作品です。
尚、今回から大島亮吉作品をカテゴリー「大島亮吉」にまとめました。

   荒船と神津牧場付近            大島亮吉

 中部日本の低い山あるきのひとつとして

  一

 その上信国境の山上の牧場というのを、初めて私の訪れたのは、全く偶然のことからだった。

たしか大正七年の、まだ三月にはいってからわずかしかたたない早春の日に、ひとりで荒船にのぼるために、私は荒船の上州側にある三ツ瀬という山村の小さな旅宿(やど)を朝早くに出発した。

 
 
冷たい西風のつよく吹いている、よく晴れて、雲ひとつない、表日本の冬から春の初めにかけての特有な天候の日だった。

 
 元来その時、私は越後の関温泉へスキーをやりにゆく途中を、廻りみちしてわざわざ下仁田からその荒船の麓の村へやって来たのだった。荒船という山をわざわざめざして来たのだ。私はそのずっと前に、荒船という山を妙義から見て、ほんとに陸上の朽ちた船のような面白い形の山だと思っていた。そしてそいつに登って、あの平らな、ひろい頂上を歩いて見たかったのであった。そしてその時初めて、まだ雪のふかい荒船の頂上高原に、ようやく急な雪の硬い斜面に鉈で足場を切ってのぼりついた。私は忘れない。その時そこから見た山上展望の印象を。それは実によかった。雪にあおあおと輝いている遠い山脈の波が、西風に洗われてするどい透明色に光っていた。私は登山者の貪欲を眼に輝かして、むさぼるようにこの山頂のぐるりにひらける山上展望に眼をみはったのだった。それ以来ますます私は荒船が好きになって、たびたびその後、この山上の牧場にくるたびに、私はそこへ行く。荒船のことは、別にあとでまた書くとして、とにかくその時、私は長く頂上に休息し、頂上高原の雪原を歩きまわってから、自分ひとりのさみしい足痕をそこにのこして、信州側の方へ星尾峠に路を求めて下りて行った。

 
 そして内山峠の富岡街道に出て、こんどは初谷(しょや)鉱泉の路を行った。ほそぼそとした路の奥の初谷鉱泉は谷あいのごく小さな鉱泉宿で、湯宿もたった一軒しかない。ここへもその後たびたびこの山上の牧場へくるごとに泊まった。そこまで、みちみちはうつくしい、ほのかに芽ぐんでいるような落葉松の林のなかを通っていた。この鉱泉宿を過ぎると、短い草原のなだらかな斜面の両側に続いた、あかるい谷にどこまでもかぼそい山路が続いていた。


 私はその時もこの山上の牧場へ行くために途を求めていたのだった。どうしてこの牧場ゆく気になったかというと、ただ漠然と地図のうえで「神津牧場」と書いてある。山のうえの平らな高原らしいところに興味をひかれていたにすぎない。もっとも私は一体に、あかるい山上の草場のような、あるいは牧場のような、ひろい、異国風な風景がかなり好きである。そんなことからしてこの牧場をまだどんなとこかも知らないとこを、しかも午後も晩くに山をこえて行こうとしていたのだった。早春のあたたかい日ざしを受けた、あかるい谿問をのぼりきると、なだらかな草山のだるみについた。こんどは一層ひろびろとした緩傾斜の笹原を敷きつめたような頂き続きの尾根なりに、牧柵が続いて見えたこへ行って、そこからこんどは向う側を見た。牧場をつまり見わたしたのだ。私がこの山上の牧場を初めて見たのはこの時だった。


 ひろい、山上のゆるやかな傾斜地のやや凹んだなかに、眼の下とおく、小さく、黒ずんで、ひとかたまりに牧場の小さな建物が、所属の畑のまん中に、静かに平和に、つつましやかに見えた。建物のガラス窓はキラリキラリと夕日に光ったりなどした。小さく、黒い人の姿が、その建物のぐるりにうごいていた。とにかく私はぼんやりとその尾根のうえで、笹原にふかく腰を下ろしたまま、この山上の牧場の、エキゾティックな、まったく私の心をとらえてしまった風景にみとれた。

たしかにこの風景はひとつの明るい色彩にとんだ、ゆたかな階調を持つ、非常に美しい、童話風なものである。そしてその時から、私はこの牧場をたびたび訪れるようになったのだ。

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2009年3月 6日 (金)

僕の確定申告とeーTax

 昨日は、確定申告書を提出して来ました。
提出先の朝霞税務署では例年見られる風景ですが、確定申告相談窓口に大勢の人が並んで順番待ちををしていました。
今年少し違っていたのは、相談後に確定申告書を作成するのに、手書きとe-Taxが選べると書かれていた事です。

 国税庁のホームページの「確定申告書作成コーナー」にアクセスして、パソコンで申告書を作成するのであれば、同じ事を税務署に設置されたパソコンを操作して、書類を作成し、プリントアウトして提出する事は可能だと思います。
 税務署設置のパソコンにプリンタが接続されていて、個人が使用できるようにして刳れていればの話ですが。
僕の場合は、自宅でパソコン入力し、プリンタを使用して印刷したものを税務署に提出にきたわけです。

 e-Taxの場合は、電子納付ですから、いちいち提出に税務署に出向く必要がありません。考えてみればとても楽です。それでは、税務署でe-Taxが可能とはどういうことなのか?
 パソコンで国税庁の「確定申告書作成コーナー」にアクセスして確定申請書を作るまでの過程は同じでも、それを印刷出力せずに直接送信して処理しようとすると簡単ではないのです。

 簡単に手順を書くと、こうなります。
1.利用者識別番号を取得する。
これは、e-Taxホームページからオンラインで届け出れば、オンラインで発行されます。
書面で所轄税務署に届け出れば、通知書は郵送で受け取れます。

2.電子証明書を取得する。
これは、申告データーを送信する前に、電子署名を行う必要があるので本人確認の為に必要なのです。
 勿論、税務署が作ってくれるわけでなく、個人が市役所等に行き、「住民基本台帳カード」の発行申請をして、発行してもらいます。
このカードだけでは駄目で、住民基本台帳カードに、電子証明書を組みこんでもらう必要があります。この発行を申請しなくてはなりません。

我が志木市の場合を調べたら、市役所の総合窓口課に行き、台帳カードの申請に500円、電子証明書の申請に500円と計1000円で、即日発行してくれるとの事でした。

3.今度はこの電子証明書ををパソコンから登録しなくてはいけません。パソコンに電子証明書を読み取らせるためには、ICカードリーダライタが必要で、これを購入しておく必要があります。価格はネット販売で2700~3000円程度でしょうか。
4.これで始めて、直接送信する準備が出来たというわけです。面倒でしょう。

このあたりの説明は、国税庁のホームページに書かれているのですが、説明が下手というか、難解で理解し難いのです。

僕は、こんな手間や費用ををかけるより、だいいち、他に使い道のないICカードリーダライタなるものを購入するのもいやで、いつものように「確定申告書作成コーナー」で入力し、作成した確定申告書を印刷して、朝霞税務署に提出したというわけです。

そうそう、この確定申告書作成のホームページが毎年変わり、あまりわかりやすいとは云えないのです。
 申告書は、以前はPDFファイルで作成されたのですが、2年前から国税庁のソフトにアクセスして読みこめるDATEファイルになりました。これによりパソコン環境による、制限も増えました。
国税庁は、ホームページでの確定申告書作成を、なるべく分かり易くしようという姿勢は見て取れるのですが、いまひとつ納税者に使いやすくするための努力が足らないと思います。

 さて、話は最初に戻って、朝霞税務署で、この場でe-Taxでの申請が出来ますとかかれていたので、あれ、電子証明書などが無くても、何らかの本人確認でe-Taxでの直接申請が出きるのだろうかと、作成コーナーを覗こうとしたのですが、プライバシー確保のためとかで、近寄らせてくれませんでした。

 どうも,気になるので、帰宅してから電話で朝霞税務署にたずねたら、やはりe-Taxでの申請には事前に電子証明書を準備しておき持参する必要があり、どうやらカードリーダーライタは、税務署のパソコン近くに設置してあるので、その場で初期登録が出きるという事のようでした。
それなら、チャンと書いておくなりして、分かり易くしなさいと思うのですが、どうも電子申請をさかんに奨励しているわりには、なにかちぐはぐで普及が進まないのも無理からぬ事と感じました。
 e-Taxを利用して申告すると、所得税額から最高5000円の税額免除、添付書類が提出不要、還付金が早期処理されて早く戻るなどの利点があるので普及すれば良いと思うのですが。

最後に、僕の場合は電子作成した申告書を、印刷して提出するので、源泉徴集票やら、もろもろの資料の添付が必要ですが、「確定申告書の提出をe-Taxを利用して行う場合、次に掲げる第三者作成書類については、その記載内容を入力して送信することにより、これらの書類の税務署への提出又は提示を省略することができます。」とあります。(実際現物をインターネットで送付するすべがありません。)

給与所得、退職所得及び公的年金等の源泉徴収票
雑損控除の証明書
医療費の領収書
社会保険料控除の証明書
小規模企業共済等掛金控除の証明書
生命保険料控除の証明書
地震保険料控除の証明書
寄附金控除の証明書
勤労学生控除の証明書
特定口座年間取引報告書
その他あり


 手書きや印刷出力した申告書には必要で、e-Taxでの電子送付は必要無いということは、実際には添付書類はいちいち確認していないということで、それならe-Taxと同じく確定申告期限から3年間は提示を求められたら提出するというルールにして、一律添付しなくても良い事にしても良いのではないかと思ってしまうのです。

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2009年3月 4日 (水)

作男、ジャガイモの植付けをする

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 本家農園の女農園主さまから、自宅待機を命ぜられた作男さん。
「しかたねえべさ、お声がかかるまで、おらの超ミニ農園で精だすべ」とばかり、せっせと掘り返し石灰をまいていました。
 さて、今年は何を植えるのかと思いきや、「ジャガイモだ、食料難がやってくるだで、ジャガイモさ植えるべ」と独り言。
まって、作男さん。1㎡もない畑にジャガイモを植えるの?。
よほど、一昨年の秋植えジャガイモで、チビスケ1号、2号に喜ばれたのが忘れられないのか、天の声などには耳もかさず、いつもの苗販売店へ飛んでゆきました。
箱に入って売られているダンシャク、メークイーン、キタアカリなどの種イモの中から、おら、これにするべと選んだのがビタミンC豊富なキタアカリ。
「1kgで300円か、1キロもいらないな、今日はパイロットファーム用だで、4個だけで良いかな。」とわけの解らないことを苗屋のご主人に言いながら、150円でお買い上げ。
種イモを半分にして、切り口に灰をまぶすと聞かされて、それも買うべと灰のお値段を見てびっくり。
「それはねんべさ、種イモが150円で灰が一袋400円ちゅうのは、釣り合いがとれねえべさ」
種イモは、切らずにまるごと使っても構わないと聞いて、それだそれだと手を打って、灰はお求めにならずに店を出ました。
戻るとすぐに、超ミニ農園に、深さ15cmの溝を掘ります。
その後、溝の中に30cm間隔で、買ってきた種イモを置きます。そして、種イモと種イモの間に、堆肥と化成肥料を施します。秋植えのジャガイモを体験しているので、慣れたものです。「去年はミニトマト、その前はピーマンがよく育ったで、ジャガイモさんよ、しっかりしてくれよ」と土を軽く戻して植付けは無事終了しました。さて、無事、芽が出ると良いのですが。

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(写真上、超ミニ農園に植え込むために溝の中に30cm間隔に置かれた種イモ)

(写真下、種イモの間には、元肥として、移植ゴテ1杯程度の堆肥と、ひと握りの化成肥料を施しました)

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2009年3月 3日 (火)

日経平均も6700円に!

遂にNYダウが6700ドル代に下落しました。
先々週末に「株価を考える夜」と題して、こんな手もあったかと驚くような施策がなされない限り、米国経済は心肺停止状況になると書きましたが、どうやらその状況にいたったようです。
脳死に至らないように、懸命の蘇生処置が施されるはずなのですが、いかんせんその処置が出来ないのです。6000ドル割れも考えられます
負の連鎖と言うものが、現実に起こってくると、手の打ち様が無い無力感に付きまとわれます。
米国政府の財力をもってしても、とても救済できないほど、天文学的な負債が明らかになってきています。もだまだ、発表されない底無しの負債が隠されています。さりとて、何らかの救済策を打ち出さない限り、米国経済の崩壊がせまるジレンマに、青ざめる米国首脳の苦悩が読み取れます。

今日の日経平均は、こちらも連動して7000円割れでしょう。かなりの公的資金投入での下支えが行なわれる結果、一気に大暴落の事態は食いとめられるでしょうが、少し長いスパンで見れば、小手先の公的資金の買支えなど一蹴されるだけでしょう。
どうも公的資金投入を躊躇せざるを得ない、すなわち誰が責任を取るのだという、危機感を持ち始めている感があります。
このまま、株価下落が続けば、今年の年金資金の運用が20兆円近くの損害を出す事は避けられない事態でしょう。
今までの運用益を全て帳消しにする非常事態です。
麻生総理は、一時金を受け取る、受け取らないなどの論議に時間を使っている暇は無いのです。
このままでは、日本経済が米国より早く脳死に至ります。日本発の経済危機がちらつき始めました。日本の首脳達、少し脳天気ではありませんか。

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2009年3月 1日 (日)

作男、自宅待機!

Dscn3730_320 農園主さまと、畑の整理しただよ。おら、泣く泣くだ!。
強い農園主さまでも、お役所にはかなわねえだよ。
お上からお借りしている田畑は3年で、契約更新とかいう難しい決まりさあって、この春でいったんお返しするだよ。
おら、ほんとのところ納得いかねえだよ。農園主さまの畑さ、おら、肥料たんとやって、やっと土に力さついてきただよ。お召し上げとは血も涙もねえんでないかい。
女農園主「しかたが無いのですよ。最初からの約束ですし、皆さんがお借りしたいと申し込んでおられるのですから。」
作男「今年もお借りできるだべか?」
女農園主「抽選に当たればですけれど。今年は皆さんが農業志向で、申込みが多いそうですよ。」
「新聞に、食いもんが足りなくなるかもしんねえと書いてあっただよ。おら、子供の頃から、慣れてるだで驚かねえよ。だどもきっと当選するだよ。」
女農園主「そうだといいのですけれど。そこで、今年は作男さんのお名前で申し込みましたのよ。いつも、おら、運が強いだとおっしゃっているでしょ。」
作男「げげ!。おらの名前ですか!」
女農園主「いけなかったですか。」
作男「とんでもねえ。だども抽選に当たるとおらが農園主で、農園主さまが、うーんと、言いずれえけんども「さくおとこ」ーーでねえ、作女さまとなるだか」
「あら、それは違いますよ。お借り賃は私が払いますから。作男さんが、お払いになれば別ですよ。」
作男「げ!。おら、生活が苦しいだで、とても払えねえだよ。」
女農園主「あら、ブルーノとかの素敵な外国製の自転車にお乗りになっているそうね。お高かったのでしょう。」
作男「ありゃ。お耳に入りましたですか。あれは、畑さいったり、苗を買いに
行くだでーー、前の自転車が壊れたでーーむにゃむにゃ。」
女農園主「荷台も無いそうですね。 ウフフ。 いいのですよ。それでは、作男兼副農園主というのはいかが。」
作男「うーん。なんか、めんどうくせえ事さ起こりそうだで、やっぱおら作男でええだよ。」
女農園主「それでは、抽選結果が出るまで、自宅待機ということね。よろしくお願いしますよ。」
作男「なんか派遣社員になったような気分でござる。」

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(写真上、きれいに整地して、返却を待つ農園主さまの畑。3年間ありがとう。いろいろの農業体験が出来ました。)

(写真下、周りの農園も片付けられて、さっぱりした。この後、敷地全体が掘り起こされて、再度、分割されて新しい区画割がされる。)

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