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2009年2月11日 (水)

我が町、志木に湯殿山詣での講があったのだろうか?ーー石碑に思う

Dscn3667_1024 いつもブログネタを提供してくれるS通信員、長勝院跡に湯殿山」の三文字が書かれた石碑が有ると教えてくれました。

志木市内には大山講や冨士講の碑が残り、敷島神社と浅間神社の2ヵ所には富士塚が有ります。最近も新しい大山講碑が立てられたりして、昔から今に、山岳信仰が途絶える事無く続いている事が伺い知れます。

しかし、湯殿山の石碑は、聞くのも見るのも初めてです。
早速、見学に行きました。
その石碑は、志木市の天然記念物に指定されているハタザクラがある事で知られている長勝院跡の片隅にひっそりと立っていました。この、ハタザクラは世界で1本という珍しい桜の変種です。
石碑は高さ1mほどの立派なもので、湯殿山の大きな文字が深く彫られています。
この志木から、遠く東北地方の湯殿山に出かけるがあったのだろうか?。いつ頃の建立なのだろう。石碑を調べても、書かれていたらしい文字は消えかけて判読できません。

湯殿山は月山、羽黒山と共に出羽三山のひとつです。月山、羽黒山同様に蜂子皇子によって開山されたと伝わります。
山岳信仰の聖地として知られ羽黒山、月山、湯殿山はそれぞれ、過去、現在、未来、の三世の浄土を表し、昔から関東以北から大勢の参詣者が訪れ、「西の熊野、東の湯殿」と並び称されました。

本来の出羽三山は月山、羽黒山、葉山の三山でそのうち湯殿山は三山の総奥の院でしたが、葉山が修験の道場から離脱し、代わりに湯殿山を三山に数えるようになったと伝わっています。しかしその後も湯殿山は奥の院的な性格を持ち続け、三山の各登山口は奥の院としての湯殿山に至るというものでした。

江戸時代に、六十里越街道の整備もあって各登拝口は行者で賑わうなか、湯殿山別当四カ寺(大日寺、本道寺、大日坊、注連寺)が湯殿山信仰勢力の拡大に努めたこともあり、本来「お山詣り」というのは出羽三山を回峰参拝する事でしたが、主に三山の主体は湯殿山であると考えられるようになり、いかなる難病も、一度ここに賽すれば必ず治癒するという信念から、信仰の中心が湯殿山に移り、湯殿山に参詣すれば三山に参詣したのと同じ御利益があるとされました。
そんなことから、湯殿山詣りを「お山詣り」と言うようになり、参拝者の数を増やし、文化文政期(1804年~1830年)には、もっとも賑わったとされます。
尚、湯殿山は羽黒山、月山と違い、御神体が山ではなく湯の噴出する巨大な岩であり、現在も社殿はありません。
昔から、神域内のことは「語るなかれ」「聞くなかれ」と信仰上の秘密とされたため、ますます神秘性を持ったのだろうと云われています。
       「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」   芭蕉

多分、ここにある石碑も、その頃の志木から講を組んで遠く湯殿山に向けて旅立った人達が建立したものではないかと考えます。
しかし、文献も無く、少し調べただけでは湯殿山講が どのように行われ、どんな道筋をたどって旅をしたのかなどは定かではありませんでした。
  

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コメント

この「湯殿山」石碑は戦後(昭和27年?)、文京区茗荷谷より移動したものと聞いております。
ちなみに、新座市大和田の普光明寺との関連もあるのではないでしょうか。

投稿: | 2016年4月20日 (水) 05時17分

>さま
情報ありがとうございます。茗荷谷からですか。普光明は近くなので知っております。住職さんにお聞きしてみたいと思います。

投稿: Souroku | 2016年4月20日 (水) 22時41分

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