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2008年2月29日 (金)

柳瀬川図書館の書庫を見学

Dscn2222_320  昨日は、「書庫見学してみませんか!!」のチラシに誘われて、柳瀬川図書館の書庫の見学をしてきました。
この図書館の地下書庫は普段は公開されていませんので見る事が出来ません。
 我が志木市には、柳瀬川図書館、いろは遊学図書館、宗岡公民館図書館、宗岡第二公民館図書館と4つの図書館が有り、4館全部の蔵書数は約32万冊(平成18年4月現在)です。
その中でも我家から徒歩数分の距離に有る柳瀬川図書館は、蔵書数17万7千冊で4館で最大の規模があります。
 さて、普段見る事が出来ない地下室の書庫がどうなっているのか、また、5万冊の書庫とはどの程度の規模なのかを知りたくて、柳瀬川図書館を訪ねました。
別に団体で見学するわけでなく、1階のカウンターで申込みをすると、係りの方が地下書庫に案内してくれました。
地下書庫に向う途中、事務室をみると10人ほどのスタッフが忙しげに仕事をしているのが見うけられました。
1階の受付カウンターには、常時3人ほどのスタッフしかいませんが、小さい図書館とはいえ裏方ではかなりの人数がバックアップしていることを知りました。
階段を降りると、中地下1階、そこには閉架式の移動書庫がずらりと並び、一般書が保管されていました。
更に階段を降りると地下1階の書庫で開架式の書架に児童書が並んでいました。
そうか、5万冊とはこのくらいの物量か、なんとなく掴めた感じです。
それにしても、新刊書との入換え、他の図書館からの依頼による貸出しサービスなど、少ない市の予算の中で限られたスタッフでは、大変だなと感じました。
財政破綻した夕張市では、図書館も閉鎖されました。我が志木市も財政危機宣言は終了させたとはいえ、地方財政の厳しさに変わりはありません。
そんな中で図書館予算は、あまり削って欲しくないなと思っています。

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(写真上、書庫見学のお誘いチラシ)
(写真中上、中地下1階の閉架式書庫。この移動式書庫は、ハンドルを廻す事により、嘘のように軽く移動する。開けた状態で閉めて挟まれないように、ストップ装置がついている)

(写真中下、移動式書架を動かして、中に入った状態)
(写真下、地下1階の開架式書庫。ここには児童書がぎっしりと詰まっている)

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2008年2月27日 (水)

RAKUTEN EAGLES OFFICIAL STORE

Dscn2204_320  仙台駅で楽天イーグルスのオフィシャルストアを覗いてきました。
3年前の楽天球団創設と同時にオープンした仙台駅構内のストアは、なかなかの賑わいでした。
2年連続の最下位から、昨年は4位に浮上したチーム同様、このアンテナショップも元気に4年目を迎えようとしているようです。
今度の雪遊び会「ファミリーアドベンチャー冬・Ⅱ」に参加した、子供や親は皆、楽天イーグルスを暖かく応援するファンでした。
チームは、しっかりと仙台に根づいたようです。
ところで、雪遊び会に参加した親のひとりから聞いて、この店にも使われているチームカラーのクリムゾンレッド(深紅、えんじ)は、初代オーナー三木谷浩史が卒業したハーバード大学のスクールカラーがクリムゾンレッドであることに由来していることを始めて知りました。
(写真は、仙台駅西口の楽天イーグルスのオフィシャルストア。左側通路には3月、4月の試合の入場券を購入する人の行列が見られた)

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2008年2月26日 (火)

雪遊び三昧

Dscn2173_320 チビスケ2号(小3)と仙台市泉ヶ岳少年自然の家主催による「ファミリーアドベンチャー冬・Ⅱ」に1泊2日で参加してきました。
参加の予定だったチビスケ2号のお父さんの都合が悪くなり、遠路、埼玉から代役爺さんの出動です。
親子で冬の野外活動を楽しむ集いで「親子でどっぷり雪遊び三昧」と「元オリンピック選手とクロスカントリースキーを楽しむ」など盛りだくさんの企画でした。
22日、23日は全国的に天候は大荒れで、ここ泉ヶ岳スキー場も地吹雪模様でしたが、不思議に行動中は小康状態が続き、そり遊びや雪像作り、そりタイムレース、そしてクロスカントリースキーなどを楽しみました。僕も久しぶりのクロカンスキーに、新雪のパウダースノーを堪能しました。
 施設は宿泊棟、体育館、研修室などがある立派なもので、野外活動用のクロカンスキーなどが貸し出せるように準備されています。
そして施設の熱意あるスタッフや協力ボランテイア達により、子供と親達は雪の中での2日間を多いに楽しんだのでした。
夜のナイトファンタジーと名付けた、スノーランタン作りも、子供と親が雪で作りあげた灯篭像にローソクを入れ火を灯すと、その幻想的な景色に歓声があがりました。
このような季節を通して、いろいろな野外活動が計画できる立派な施設と、行事の計画や運営スタッフがもてる仙台市が羨ましいと思いました。施設が有っても、使いこなす活動が出来ないところも多いと聞きます。
我が志木市には、NPO法人「クラブしっきーず」という組織があります。
その活動は「子供から大人まで、地域の人が共に、スポーツ・レクリエーション活動を楽しみ、交流できる機会、場所を提供する事によって、心触れ合うまちづくりの一翼を担うことをめざしています」とうたっています。
経験してきた、今度の仙台市の雪の野外活動などは多いに得るところがあり、今後の行事に生かせると感じました。

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(写真上、良く整備されたそりそり遊び会場で、そりに乗って楽しむ子供達。スタートとゴールの横断幕を準備してタイムレースなども行なわれた。こういった仕掛けも、気分を盛り上げるために大事なことだ。)

写真中、元オリンピック選手の指導による、クロスカントリースキーの講習会)

(写真下、時折、地吹雪模様になるが、子供達は皆元気だ。さすが仙台ッ子、アルペンスキーを経験している子供達はクロカンスキーの上達も早い。この後、林の中の散策や、競技会なみの本格的な計測器を持ちこんでタイムレースなどが行なわれ、表彰式などで多いに盛りあがった。)

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2008年2月22日 (金)

雑誌「国産名車コレクション」

Dscn2171_320 隔週発売のミニチュアカー付き雑誌「国産名車コレクション」も、60号で終了するらしいという話しを聞きました。
今までに発行された雑誌に付いていたミニカーを時々こうやって眺めていると、発売年代が書かれているので、それぞれ時代背景が思い出されて懐かしい気持になります。それにしても1960年代は、魅力的な車が生産されましたね。

 今日から、仙台市泉ヶ岳少年自然の家で開催される「「ファミリーアドベンチャー冬・Ⅱ」に参加の為、ブログを4日ほど休みます戻りましたら子供達との雪遊びや、クロカンスキーの事などを書きます。来週末はもう3月ですね。春がそこまで来ています。
(写真は、上からマツダのコスモスポーツ(1968)、トヨタ2000GT(1967)、ホンダS800(1966))

「0時30分追記」 今知ったのですが、海上自衛隊によるインド洋での給油が昨日〈21日)から再開されたようです。
案じたとおり、やはり最初の給油は例のパキスタン駆逐艦で、給油だけでなく給水も行っています。(今までも、給水はパキスタン海軍のみ)
国内の政情不安もあり、かつ海上阻止活動の実務に、とかくの噂のあるパキスタン駆逐艦ではなく、日本政府が国際貢献を強くアピールしたいなら、せめて最初だけはパキスタン以外のフランス海軍などに実施したほうが良いと、先日書きましたが駄目なようでした。防衛省って、まったく世論に無神経というか、無策ですね。また、週刊誌に書かれますよ。

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2008年2月20日 (水)

イージス護衛艦「あたご」

177_3 イージス護衛艦「あたご」とマグロはえ縄漁船「清徳丸」の衝突事故が大きく報道されています。
イージス艦が最近話題になったのは、昨年の12月に、ミサイル防衛(MD)システムの海上配備型迎撃ミサイル(SM3)を搭載した海上自衛隊のイージス護衛艦「こんごう」(7、250トン)が、ハワイ沖でカウアイ島から発射された弾道ミサイルに見立てた中距離標的の迎撃試験に成功し、米国以外のSM3の試射と迎撃成功は初めてと報道されたときでした。
数兆円にものぼるイージス艦建造とミサイル防衛システムを早く構築したい防衛省にとって、せっかくミサイル迎撃訓練が成功したという時に、最新鋭の大型イージス艦の事故は晴天の霹靂、なんという事をしでかしてくれたと大慌てです。
ここで、イージス艦について、フリー百科辞典ウイキペデイアの記述を写しておきます。

「イージス艦」とは、イージスシステムを搭載したあらゆる艦艇を指す総称である。したがって駆逐艦や巡洋艦などとは異なり、軍艦の種別の1つではない。

イージス艦は、イージス・システムを搭載することによって、特に防空能力について非常に優れている。このため、艦隊において防空の要として活動することが多いが、多数を保有するアメリカにおいては、汎用艦としての活動も多い。その防空能力はいずれもイージス・システムによってもたらされたもので、遠くの敵機を正確に探知できる索敵能力、迅速に状況を判断・対応できる情報処理能力、一度に多くの目標と交戦できる対空戦闘能力によって支えられている。これらの能力は、対空戦闘以外にも応用され、イージス艦の戦闘能力を全般的に優れたものにしている。

現在ではミサイル防衛(BMD) においての使用も計画されているほか、強力なレーダーや情報処理能力、ネットワーク能力を持つことから軍事における情報革命(RMA)などにおける海軍作戦の重要な要素ともなる。

その一方で、武装の搭載量や抗堪性などは、従来の艦と比べて特に優れているわけではない。従って、かつての戦艦に相当するような万能艦と誤解することは避けるべきである。また、建造費や運用コストなどが高くつくことも欠点のひとつといえよう。

現代の艦載防空システムとしては、イージスシステムが世界最高峰の防衛機能を有していると言われているが、大量の経空脅威に対処するのが第一義の任務であり、海軍の任務としてそのような仮想敵の攻撃を想定しない、もしくはできるほど敵に航空戦力やミサイル戦力がない、またはイージス艦の能力では脅威に対して性能過剰となり経費が無駄になるような国も少なくないため、導入する国は限られる。

記述の最後に、導入する国は限られると書かれているように、このシステムの開発、製造国である米国以外で、この超高額兵器を装備している国は次ぎのとおりです。
  日本 5隻+1隻(最新鋭艦あしがらが今年3月就航予定- 世界最大のイージス艦
  スペイン  4隻+1隻(建造中)
  ノルウェー 2隻+1隻(建造中)
  韓国        1隻(建造中)

世界の先進主要国は持っていないの?。そうなんです。建造費、運用経費があまりにも高額の為、対費用効果及び実戦での有効性に疑問があり、検討中の国はあっても、装備している国は無いのです。
日本は、米国の防衛システムに協力し、防衛構想の一端を担いつつ、高額兵器購入の大得意先であるわけです。
日本はすべてにおかしな事がまかり通る国です。軍備は持たない建前なのに、世界有数の海軍力を持ち、年間5兆円という高額の軍事予算を持っています。
昨年12月、艦に持ちこんだ私物のカンコーヒーの卓上保冷温庫からの出火というあきれた原因でへり搭載護衛艦「しらね」が火災を起こし、戦闘指揮所が全焼した時も、原因究明以前に、この艦を修理するには300億円かかるから、新造するほうが良いなどという議論がまかり通るのです。
今、防衛省が最も恐れるのは、沖縄基地反対闘争の盛り上がりと、守屋前防衛事務次官がらみで発覚した、装備品の不当な高値購入や、インド洋の海上給油に絡む隠蔽、火災、衝突など海上自衛隊の艦艇の相次ぐ不祥事が多額の税金の用途として適切かといった、防衛費に飛び火する事です。
3月就航予定の6隻目のイージス艦「あしがら」の建造費が1500億円、年間維持費だけで一隻あたり20億円、今回帰港途中だった「あたご」の迎撃ミサイル発射実験の航海に35億円とまさにいくら予算があっても足りないのです。
防衛省が進めるミサイル防衛システム(MD)は2003年12月の閣議で米国からの導入が決定されました。
攻撃が予想される弾道ミサイルに対し、イージス護衛艦で迎撃し、撃ち漏らした場合、地上配備の地対空誘導弾パトリオット(PAC3)で撃ち落とすという2段階対処です。

 海上自衛隊は、ハワイ沖でミサイル迎撃の成功した護衛艦「こんごう」に続き、あと3隻のこんごう型イージス護衛艦を改修してSM3を搭載し、いずれもハワイで迎撃試験を行う予定です。PAC3は航空自衛隊入間基地(埼玉)と習志野基地(千葉)に配備され、市街地での発射訓練のため、都内に持ち込まれたのも最近の出来事です。

 MDは初期配備だけで1兆円かかり、費用対効果が疑問視されているのです。米国以外で導入したのは日本のみで、収賄容疑で逮捕された守屋武昌前防衛事務次官が防衛局長当時、導入へ向けて自民党国防族などに積極的に働きかけた経緯があります。

このところ、何度も書いていますが、聖域といわれる防衛予算への多額の税金使用を、真剣に再検討する時期にきています

 (写真上、漁船との衝突事故を起したイージス護衛艦「あたご」)
 (写真下、左よりイージス護衛艦群、こんごう型の「173こんごう」「174きりしま」「175みょうこう」「176ちょうかい」 あたご型の「178あしがら」)
 NO.177はあたご、178あしがらは今年3月に就航予定の
世界最大最新鋭大型イージス艦。
 こんごう型はハワイ沖でミサイル迎撃をした「こんごう」に続き、残り3隻もSM3を搭載する予定ですが、あたご型の2隻は、SM3ではなく、日米で共同開発中の
次世代型SM3を搭載するので、当分の間、ミサイル迎撃能力は持たないとい中途半端な計画です)
173 174 175 176 178ashigara
(クリックすると、拡大します)

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2008年2月19日 (火)

火災感知器を付けました

Dscn2165_320  我家にも火災感知器を設置しました。平成18年6月施行の消防法の改正により、新築の住宅だけでなく、既存の住宅にも火災感知器の設置が義務づけられ、埼玉県の場合は今年、すなわち平成20年の6月までに設置する事が定められました。
我家は既存の集合住宅ですから、管理組合により全戸一斉に設置されたというわけです。
埼玉県の場合は、寝室に使われている部屋と階段室の2階部分に煙感知器の設置が義務づけられています。
これが東京都ですと、全居室と台所及び階段と設置基準が厳しくなっています。
住宅密集地が多い事も配慮したのでしょうか。
気をつけなくてはいけないのは、台所やDKのように炊事の煙が発生するところは、煙感知器ではなく、熱感知器にしなければなりません。
 最近報道される火災事故は、高層住宅などでなく、目立つのは2階建ての住宅火災の焼死者の多い事です。
就寝中で、高齢者や子供が犠牲になる事例が多いのですが、住宅の設計・建設に関係するものとして何故、脱出できないか、どういう配慮をしたものか常に疑問に思っています。
この火災感知器の設置義務は、現在、法規により住宅に設置され、僕はその必要性を多いに疑問に思っている24時間換気の為の、各室の多数の換気扇設置などよりはずっと有効な設備だと思っています。
有毒ガスの吸引により、意識があっても身体が動かないという悲劇が、煙を少しでも早く感知することにより、脱出の機会が増えることになればよいと思います。
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(写真上、和室天井に設置された電池式の煙感知器)
(写真下、洋室の壁に設置された煙感知器、本来は天井付きがよいのだが、取り付け易さから壁取りつけとなっている。取り外しは簡単なので、家具などの取合いによる移動は可能である)          

2月20日追記
 埼玉県の場合の、設置基準をもう少し詳しく書いておきます。

設置する場所(青字は、本文中に書いた場所)

  1. 寝室
  2. 寝室がある階の階段 (注:2階に就寝中で、1階が火災になった場合階段から煙が昇ってくることを想定したもので、階段の上の天井に設置します。最も大事な場所です)
  3. 寝室が3階以上にある場合、住宅用火災警報器をつけた階から2階分下の階段(3階建てなら1階)
  4. 寝室が1階のみにある場合、3階以上に部屋のある住宅で最上階の階段(3階建てなら3階)
  5. 1つの階に7m²以上の居室が5室以上ある階の廊下

                                    

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2008年2月18日 (月)

涸沢の岩小屋のある夜のこと  大島亮吉

 昨日の続きです。いよいよ、山での死についての会話になります。

    「涸沢の岩小屋のある夜のこと」  大島亮吉 (昨日の続き)

 自分たちの四人はみな黙っていた。けれどみなこういう気持でいることはよくお互いに知りきっている間柄だけにおのずとわかっていた。
そしておのおののいま黙って考えていることが、ある一部の山を登るものにとっての必ず出っくわす大切なことも知っていた。
自分たちは先刻夕餉を終えた後での雑談の間に、ふとその年の冬、自分たちの仲間とおなじようによく知り合っていたひとりの山友達を山で失っていて、その友達がその前の年の夏に自分たちと一緒にこの岩小屋へやってきて愉しい幾日かをすごして行った時のことが、ちょっと出たのだった。
そして自分たちはそれっきりで言い合したようにその話は避けてしまったのだった。それから黙っているのだった。自分たちは外にでて岩に腰をかけたのだった。そしてその時までも黙っていたのだった。
 
その時まで自分たちお互いは心のなかで、光の焦点のように各々の心の中に現れている、あるひとつの想いについて寂しい路を歩いていたのだった。
ふと涸沢岳のあの脆い岩壁から岩がひとつ墜ちる音がした。カチーン・・・カチーン・・・と岩壁に二、三度打ちあたる音が、夜の沈黙のなかにひびいた。
そしてそれがすんでしまうとまたもとのような言いあらわしようもないほどの静かさだった。
 
その時だった、ひとりが考えにつかれたかのように、自分たちの前にひとつの問を投げだした。――
「おい、いったい山で死ぬっていうことを君たちはどう思ってるい」
 
自分たちはみんな同じような気持ちで同じことを考えていて、誰かが話の緒口(いとぐち)をきるのを待ち遠しく思っていたかのように見えた。
そこへ、この言葉が落ちてきたんだ。勿論それは反響した。
全く先刻(さっき)から自分たちお互いの心はお互いにこの高い山の上の、しかも暗いなかで、自分たちのなかからその大切な仲間をいつ、誰かもわからずに、失わしめようとしているこの山での不幸なゲファーレンというものについて、結局は自分たち自らさえも山で死ぬかも知れぬということについて、新しい信仰をうちたてるようにと言いなやんでいたのだった。

ひとりがそれに対してすぐに答えて言った。――
「それは山へなんか登ろうって奴の当然出っくわす運命さ」
「うん、そうか、それじゃ山へ登ろうって奴はみんなその運命にいつかは出っくわすんだね」
「そうじゃないよ。みんなとはかぎりゃしないさ。運のいいやつはそれにもであわなくってすんじまうよ。それから山へ登る奴だって、そんな運命なんかに全然逢着(あわ)ないように登ってる奴もあるもの」
「じゃその逢着(あう)ような奴っていうのはどんな奴さ」
「まあ、言ってみりゃあ、結局ワンデーみたいな奴さ。
俺はワンデーの兄貴が、あいつがやられた時に富山へ行く時、途中を一緒に行ったが、その時言ってたよ。うちの弟は私によく言ってましたよ、俺はきっといつか山でやられるって、俺はそいつを聞いて感激したね。
もっともその時はいくらか興奮もしていたがね。
そしてその時すぐにマンメリイのあの言葉を思いだしたよ、ほら、なんていったけなあ、よく覚えていないけれど、
It is true the great ridges sometimes demand their sacrifice, but the mountaineer would hardly forgohis worship though he knew himself to be the destined victim とか言ったやつさ。
そうして一晩中寝ないで
Hと話し続けちゃったら、そのあしたへたばったよ。・・・・・だからさ、ワンデーやマンメリイみたいなやつは、まあたとえてみればさ、そういうような運命に出っくわすのさ。実際ふたりとも出っくわしちゃったがね。
けれど山で死ぬやつはみんなこんなやつばかりじゃないだろう。
無鉄砲をやって死ぬのや、出鱈目に行ってやられるやつもいるさ。だけれど、そういうのは
問題にはならないよ。注意し、研究もしてみて、自信があってやってさえ、やられたというのでなくちゃね。
マンメリイは先刻(さっき)の言葉を、
Penalty and denger of mountaineering っていう章のところで、山登りの危険を詳しく論じてから言っているんだぜ、山登りにはかくかくの危険がある。そしてそれはかくかくして避け得られるし、勝ち得られる。けれどなお登山者の不幸は絶対には避け得られない、と言ってその後へ先刻の言葉を持って来ているのさ。
ワンデーだってそうだろう。
「山とスキー」に、「人力の及ぶかぎりの確かさをもって地味に、小心に一歩一歩と固めてゆく時に初めていままで夢にも知らなかった山の一面がじりじりと自分らの胸にこたえてくる」って書いていたじゃないか。
おそらくそうやって行って、それでもやられちゃったんだ。そこまでゆけば、あとは運命さ、なんて言ったって俺は運命だと思うよ。だから、そういうようなやつらにとっちゃあ、山登りは趣味だの、またスポーツだのって思ってはいないかも知れないぜ」
 
答えたひとりは、熱心に疲れることなく言った。
「スポーツ、趣味、勿論そうじゃないだろう。俺だっていま現在、俺の山登りはスポーツだともおもってやしないし、趣味なんかでもないや、なんだかわからないが、そんなものよりもっと自分にピッタリしたもんだ」
新しいひとりが暗いなかで、すぐその前の言葉を受けて強く言い放った。沈黙がしばらく続いた。
すると、「とにかく、人間が死ぬっていうことを考えのうちに入れてやっていることには、少なくともじょうだんごとはあんまりはいっていないからね・・・・・・」と多くを言わずに、あとの言葉をのみこんでしまったように言ったのは、その死んだ友とその時行をともにした自分たちの仲間のひとりだった。
彼こそは自分たちの仲間で最も異常な経験をその時にしたのだ。
だから山での災禍ということについては最も深い信念をば、彼は特に自分たちに比して持っているわけだ。
けれど彼はそれを自分たちに語りはしなかった。
彼のおもい秘めたような心を自分たちへあえて開こうとはしなかった。
けれど彼はただこいうことだけは言った。
「俺はその時以来一層山は自分からはなしがたいものとなってしまった。立山は以前から好きな山だったが、あの時からはなお一層好きになってしまった。」
そしてそれ以上はなんにも言わなかった。話しはまたとぎれてしまった。
各々の想いはまた各々の心のなかをひとりで歩まねばならなかった。

自分自身の心胸にもその時はいろいろのことが想い浮かんだ。
暗い、後ろめたい思想が自分を悩まし、ある大きな圧力が自分の心を一杯にした。
そしてついに山は自分にとってひとつの謎ぶかい吸引力であり、山での死はおそらくその来る時は自分の満足して受けいれられるべき運命のみちびきであると思った。
そしてその時自分のたましいのウンタートーンとして青春の輝かなほほえみと元気のあるレーベンスグラウベとが心にひろがってきた。
死ということをふかく考ええもそれを強く感じてもなお青春の輝かしさはその暗さを蔽うてしまう。
わけて自分たちにとっては、山での死は決して願うべく望ましき結果でなけれ、その来る時は満足して受け入れられるべき悔いのないプレデスティナツィオーンであるからだ。
そしてその時夜はますます自分たちの頭上に澄みわたっていた。
かずかずの星辰は自分たちにある大きな永遠というものを示唆するかのように、強く、燦らかに光っていた。
ひとつの人間のイデーとひとりの人間の存在というようなものがおのずと対照して思われた。
すると、その時だった。ふと夜空に流星がひとつすっと尾をひきながら強く瞬間的にきらめいて、なにかひとつの啓示を与えたかのように流れ消えた。万有の生起壊滅の理。
突然その時ひとりの友の声が沈黙の重みをうちこわして、おおらかに放たれた。彼はそのほのみえる顔に、溢るるような悦びの色をたたえて言ったのだった。

「おい、俺たちはいつかは死んじまうんだろう、だけれど山だってまたいつかはなくなっちまうんじゃないか」

  終り

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2008年2月17日 (日)

涸沢の岩小屋のある夜のこと―大島亮吉

Karasawa 「星尾峠」に続き、「涸沢の岩小屋のある夜のこと」を書き写しました。
読むだけより、書いてみるとより深く心に残るようなので、自分の為にやっている事ですが、興味ある方は、読んで頂ければ幸いです。
大正末期の日本の山岳界をリードし、29歳で前穂北尾根に散った若き登山家、大島亮吉の作品で、古くから岳人に親しく読まれてきた伝説的作品です。

「涸沢の岩小屋のある夜のこと」  大島亮吉

 
 自分たちの仲間では、この涸沢の岩小屋が大好きだった。こんなに高くて気持ちのいい場所はあんまりほかにはないようだ。
大きな上の平らな岩の下を少しばかり掘って、前に岩っかけを積み重ねて囲んだだけの岩穴で、それには少しもわざわざやったという細工の痕がないのがなにより自然で、岩小屋の名前とあっていて気持がいい。

そのぐるりは、まあ日本ではいちばんすごく、そしていい岩山だし、高さも二五〇〇米以上はある。
これほど高くて、自由で、感じのいい泊まり場所はめったにない。人臭くないのがなによりだ。
穴のなかに敷いてある偃松の枯葉の上に横になって岩の庇の間から前穂高の頂きや屏風岩のグラートとカールの大きな雪面とを眺めることができる。
そのかわりいつもしゃがんでいるか、横になっていなければならないほどに内部は低い。

景色といっては、なにしろカールの底だけに、ぐるりの岩山の頂上と、カールの岩壁と、それに前に涸沢の谷の落ちてゆくのが見えるだけで、梓川の谷も見えない。そしてそれにここにはあんまりくるものもいない。実にしずかだ。そこがいいんだ。そこが好きなんだ。
米、味噌、そのほか甘いものとか、飲物の少しも背負い込んで、ここへやってきて四、五日お釜を据えると、全くのびのびして、初めて山のにおいのするとこへ来たような気がする。

 天気のいい時は、朝飯を食ったらすぐにザイルでも肩にひっかけて、まわりの好き勝手な岩壁にかじりつきに行ったり、またはちょっとした名もないようなNebengipfel や岩壁の頭に登ったりして、じみに Gipfelrastを味わってきたり、あるいはシュタインマンを積みに小さなグラートツァッケに登るのも面白い。
そうしてくたびれたら、岩小屋へ下りて来て、その小屋の屋根になっている大きな岩の上でとかげをやる。
とかげっていうのは仲間のひとりが二、三年前にここに来て言いだしてから自分たちの間で通用する専用の術語だ。
それは天候のいい時、このうえの岩のうえで蜥蜴みたいにぺったりとお腹を日にあっためられた岩にくっつけて、眼をつぶり、無念無想でねころんだり、居睡したりする愉しみのことをいうんだ。
その代り天気の悪い時は山鼠だ。穴へはいりこんで天気のよくなるまでは出ない。出られないのだ。
しゃがんでいてもうっかりすると頭をぶっけるくらいに低いところだから、動くのも不自由だ。だから奥の方へ頭を突込んで横になったきりにしている。
標高があるだけに天気の悪い時はずいぶん寒い。雨も岩の庇から降りこんだり、岩をつたわって流れこんだりする。風が岩の隙間から吹き込む。
だがこれほど気分のいいとこはちょっとないようだ。天気でもよし、降ってもいい。自分たちはそこで言いたいことを話したり、思うままに食って、自由に登ってくる。ヒュッテらしい名のつくようなヒュッテも欲しいとかねがね思っているが、それは冬の時や春の時のことだ。
夏にはこんないい自然のヒュッテがどこにでもあるなら、まあ夏だけのものならばそんなに欲しいとは思わない。ここは夏でも少し早く来るとまだ岩穴が雪に埋まっていることもある。

 とにかく自分たちの仲間ではここへ来ていろいろと話したり、登ったりして好き勝手に日をすごしてくることが、夏の上高地へ来てのひとつのたのしみなのだ。ところで、ここにはそのひとつとして、その岩小屋のある年の夏のある夜のある仲間のことを書いてみる。これが自分たちの仲間のある時期のひとつの思い出にでもなればいいと思って。

その時自分たちは四人だった。自分たちはちょうど北穂高の頂きから涸沢のカールの方へ下りてきたのだった。――そして夕暮れだった。歩きにくいカールの底の岩のデブリィのうえを自分たちの歩みは無意識にすすんで行った。

 それは実によく晴れわたった、穏やかな、夏の夕だった。眼のまえの屏風岩のギザギザした鋸歯のようなグラートのうえにはまだ夕雲は輝かに彩られていた。そしてひと音きかぬ静けさが、その下に落ちていた。
おおらかな夕べのこの安息のうちに山々は自分達をとりまいて立っていた。

自分達はこれからこの涸沢のカールの底にある、自分たちにはもう幾晩かのなつかしい憩い眠りのための:場所であった、あの岩小屋へと下りてゆくところだった。自分たちの右手の高きには前穂高の嶺(いただき)がなおさっきの夕焼けの余燼でかがやいて、その濃い暗紫色の陰影は千人岩の頭のうえまでものびていた。
そしてはるかの谷にはすでに陰暗な夜の物陰が静かにはいずっていた。
自分たちはそのころようやく岩小屋に帰りついたのだった。
そして偃松の生枝を燃やしては、ささやかな夕餉を終えた時分には、すでに夜は蒼然と自分のまわりをとりかこんできていた。
それはまたすばらしくいい夜だった。すてきに星の多い晩だった。高いこの山上をおし包むように大きな沈黙がすべて抱きこんでいた。

 火のそばをすてて、自分たちは岩小屋のなかから外にでた。
そしてその前にあった岩にみんなおのずと腰をおろした。冷やかな山上の夜は自分たちのうえに大きくかかっていた。
晴れきった漆黒の夜空のなかで、星が鱗屑(うろくず)のようにいろいろの色や光りをしてきらめいていた。
四人とも黙って岩に腰をかけたまま、じっと何かについて思いん込んでいたりパイプばかりくわえて黙っていた。けれどもそれはこのような夜の周囲にはほんとにしっくりと合った気分だった。
山は雨や風の夜のように底鳴りしたりしないので凄みはなく、圧迫的でもないけれど、あんまりおだやかで静かなので、そこにひとつの重味のある沈黙というものを示していた。
「山は時としてはその傍観者に自らのムードを圧しつけることがあると同時に、また傍観者はしばしば山が彼自らの気分と調和してくれるのを経験することがある」とマンメリイだかが言っていたが、その時の自分たちの気持はたしかに後者のようなものがあった。
自分たちのうしろにも横の方にも、闇のなかに真黒に岩壁や頂きがぬっと大きな姿で突っ立っているけれど、自分たちにはこの時はちっとも恐ろしくも見えなければ、もの凄くも思われなく、むしろこのぐるりを半分以上もとりまいている山を、親切な大きな風よけぐらいにしか、親しく思えてならなかった。
そうしてその真ん中の小さな岩小屋は自分たちのような山の赤ん坊の寝る揺籃みたいに思えてしようがなかった。
言い方がおかしいかも知れないが、それほどいやに山が親しみぶかく見えたんだ。だけれどただひとつこのあまりの静かさが自分たちに歌わせたり、笑い話させたりしないのだ。
たしかにこの時の山のムードと自分たちの気持とはハーモニィしていた。
  書きかけ――明日に続く

 

 

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2008年2月15日 (金)

道路から段差無しでホームへ

Ca390002_1024  道路から、まったく段差無しで電車に乗り込むことが可能な駅が、この駅以外にあるだろうか?。いつも気にしているのですが、積極的に探すこともしていないので、現在のところ不明です。
東武東上線の池袋駅南口、ここは西側方面の道路から、駅ビルに入り、駅の改札口を抜け、プラットホームから、電車に乗り込むまで、段差がまったくありません。
完璧なバリアフリーを意識して作ったというわけではなく、ビル1階のレベルが偶然、またはやむを得ず傾斜した道路面と一致してしまったと僕は見ています。かえって道路面のほうがレベルが高いくらいです。
そんな事、気にかけた事がないという方も、一度検証してみてはいかがでしょうか。
僕はこの段差無しが他では見られないことと、道路面と電車の床が同じレベルというのが嬉しくて、なぜか気に入っている場所のひとつです。
(2月17日追記 書いたてまえ、気になったので南口を歩いてみました。道路レベルからホームまで段差無しは、芸術劇場側、ホテルメトロポリタン側とも南口全てがそうだと確認できました。)
Ca390003_320 (写真上、南口でも、メインの東側方面と違い人通りは少ないが、道路から段差なく駅ビルに入って来れる。)

(写真下、上の写真位置から、左に曲がると、この東武東上線南口1階改札口である。ここからも階段の上り下り無く、ホームへ向い、そのまま電車内に乗れる。)

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2008年2月13日 (水)

庭の梅の開花と森林公園

Dscn2164_320  昨日(2月12日)、庭の梅が開花しました。昨年は暖冬でもあり、1月31日にはもう咲いていたので、それより約10日遅れです。それでも例年より1週間ほど早いでしょうか。
前にも書きましたが、梅の枝を切りすぎて盆栽仕立てのような樹形になってしまいましたので、木がかわいそうです。
梅といえば、今年も国営武蔵丘陵森林公園の梅見に行くつもりです。
今年は2月下旬頃が見頃のようです。面積約2haの丘陵の緩い傾斜地に120品種600本の梅があり、実に見事です。越生の梅園も有名ですが、梅ノ木の間をのんびりと散策しながら花を見る環境でしたら、森林公園に勝るところはないでしょう。
  http://www.shinrin-koen.go.jp/wildgrass.html    国営武蔵丘陵森林公園のHP
Dscn1113_320

(写真上、咲き始めた庭の梅)
(写真下、昨年の森林公園の梅林、ここの梅ノ木には、120種類に全て名札がつけられている。菖蒲も沢山の種類があるが、梅の木の種類の多さにも驚かされる。どこにでも座ってのんびりとお弁当を広げる事が出来る。)

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2008年2月12日 (火)

星尾峠―大島亮吉

 3連休は、DVDで「東京タワー」「キトキト」を見たり、古い本を読んで過ごしました。そのなかで大島亮吉著「山―随想―」を読み返して、書かれている「星尾峠」が心に響いたので、書き写してみたくなりました。
大正末期の日本の山岳界をリードし、29歳で早春の前穂北尾根に散った若き登山家の、心に残る文章です。同じく「涸沢の岩小屋のある夜のこと」は、後日、掲載します。
「山―随想―」は、著作権は切れていますが、青空文庫では、「作業中」で、まだ公開されておりません。

星尾峠 大島亮吉

 それは荒船の頂上高原の南端近くのところを越えて、上州の山里から信濃の山合いの小村へと通っているひとつの小さな峠だった。
そして私のひとり腰を下していたというそこは、その峠の頂き近くの小径のうえだった。九月にはいっての間もないその日、それは初秋らしい情感がほのかに漂っているような日だった。

私はちょうど自らがのぼって来た上州の側に向って腰を下していたのだった。
高くもない峠ながら、私の眼のまえには、私のここ一週間以上も前から歩き越え、歩き越えしてきた山々の幾重もの尾根なりも、その間の幾つもの峠となっているだるみも、あるいは奥秩父のまっ黒い高嶺続きの山影さえも、そしてまた次第に低夷してゆく山波の間からは広い、広い関東の平野のその鮮緑色の表面さえもが望まれた。

 私はただ峠をこえ、峠をこえして歩いてきた甲斐、秩父、上州の各々の山よりの、山合いの、山なかの村々において、われ知らずのうちにそれらの主として農民階級の労働生産者の生活の点景を見るような多くの機会を持つことができた。
私は小作農の地主に対する真の不平をきいた。
炭焼きからはその生活の苦しさをきかされた。
乞い泊めて貰ったある山村の農家の主人には繭の相場の安いこと、農作物の廉価なことを説いて、その生活の惨苦を示された。
あるところでは、そんな山のなかにはめずらしい人生の廃頽を見た。そしてまたあるところでは平和さを通りこしての人生の沈滞を見た。

あの狭い甲斐の盆地にもすでに地主と小作人との問題があり、貧に泣く農民があり、はては豊作だという葡萄の棚で首をくくったという果樹園づくりの子百姓があったのだ。
そして私は塩山のほとり、小作人の騒ぎ立つという村を通り過ぎた。終日早くから木を伐り、割裂いて、それを炭に焼き、夕には二里の山道をその一日の汗に疲れた身体で、毎日二俵ずつ重い俵を背負って帰るような、激しい労働をたえずしてさえなお貧に追われるという炭焼きの生活が、甲州の山村にあつたのだ。山林もあり、桑畑や田地も持ったそのうえ、なお副業としての養蚕に繁忙暇のない家業をいとなんでさえ生活に窮迫している中流農家が、上州の山より村にあつたのだ。

 郭公がほんとうに森の隠者のように奥深く啼いている山道の静かさを辿っていても、芝草山にうねうねとしたなだらかな峠道をのぼっていても、沢蟹に私の足音にがさがさと石のなかを這いにげるような、小さな、細い沢づたいの荒れ路を徒渡りしつつ歩いていても、また足あたりの硬い街道を草履のあとから舞いあがるその埃と一緒に歩いていても、私にはこれらの私のぐるりをとりまく人生の諸相と社会の諸相とをうちみて以来、それらの社会のすがたについて、それらの人生のすがたに対して、そして更にふかく自らの人生についての想いが、きれぎれはするが絶えず私の心頭に浮かび消えした。
ああ、私にはもうあのただ単純な自然観照のみをこととして、年若く、他にはなにも想うことなく旅のたのしさ、つらさをたのしんで歩いた古る年まえのそのような旅心は消え去ったのだろうか?「
さらば旅人よ、歩み去りし過ぎし日のわが美わしの旅人よ」と、私は今更感傷がましい詩人めいた言葉を弄して、私の過ぎた日のあの自らの旅姿をなつかしむべきだろうか? 
馬鹿な!おまえはただそのような安価な自然耽美、微温な自然礼讃の感動の幼稚で希薄な、無内容な「寂寥の享楽」に堕した旅心をもって真実の旅人の心とするのか?

勿論それも純性には富んでいるが、それはチョコレート菓子のように甘い。
あまりに自己逸楽的である。
まことの旅の心とはもっと複雑なものの総和なのだ。
旅の心にはもっと思想的背景があっていい。
もっと社会性があっていい。
ひとりの旅であればあるほど、寂しければ寂しいほど、旅人は他の多くの旅人のことを思い、通りゆく路傍の人生に眼を見張り、耳をかたむけ、想いをはせるのだ。所詮は大きなすべての人々を入れての人生を対象している。
かのヘークのあのさまよい歩きの旅の心には、その道づれへの思いと、より大なる人生への永遠の途をもって終始していたではないか。
芭蕉があの俳行脚の生涯はただ自然の寂びそのものであったというが、その超脱的な境地に達するまでいかに彼自身の人生とそれをとりまく人生について思ったことか。
単なる自然観照よりして彼は天然の寂びに親しむべく進んだのではなくして、人生への凝視から人生を寂滅相と観ずることからしてそれは出でたのだった。
それ故にこそ彼は最も広い民家の道づれであったのだ。
生への背負いきれぬ想いを背負って旅立つ時こそ、旅は旅としての本来の旅姿をとりかえすのだ。私はこう自らに言ってみた。
私はここへ来て初めてひとりの旅人となったような気がした。

径のきわに生い茂った若いすすきの穂波が、初秋のさわやかな風にざわめいて、くる秋の歌をうたっているようだった。
午後(ひるさがり)の光はさっと雲間から望める山々の起伏、平野のうえに流れた。
山襞は濃淡を見せた。
そして平野は輝いた。夕立の通りすぎたあとの、はるかに見えるそのうち濡れた平野の海のような田野の輝き。ああ、その群馬と埼玉の平野、そこは私の見て来たよりもまだもっとはげしい、地主が小作人を強搾し、小作人はまた組合をつくってそれに相争うという、ひとつの時代の病弊が巣喰っている平野なのだ。
私はそのいずれが是であり、いずれが非であるかを知らぬ。けれどもそれらはそのようなる単なる階級闘争のごときもので解決はできないと思う。
その病弊の根源はもっとより深く人心の奥に内在するものであろう。

 私の心はいろいろの想いに胸をよぎらしめられた。
しかし、私はその平野のすべての人々に、すべての村々に、そしてこの地上のすべての人々のうえに、大いなる共有のもとの正しい、本然な地上の生活の春が訪れきたるであろう未来の日を、いま情熱をこめて一日も早からんことをのぞんでいる。そのために苦しまねばならないのは、小作人のみではない。地主のみではない。労働者のみではない。資本家のみではない。すべての人々がともに苦しまねばならないのだ。
自分もまさにそのために苦しみ、努むべきだ。

 木を伐るほがらかなもの音が、どこからかすぐ近くよりきこえて、遠い方にほろほろと山彦(こだま)して融け消えて行った。
私は立ち上って峠を信州側へと下りるべく歩きだした。
落葉松の林のなかの、あの踏む草鞋にぶくぶくという弾力を感じさせるような歩きよい山道-それは信州へ来てから初めてあるものだ-や、湯宿のひとが、てずから薪を割って沸かすという、あの渓合いの小さ鉱泉宿のことなど、私はこの峠道に続く曽遊の道すじをたのしそうに思い浮かべてはみるが、しかし私の心はそこより近くの、私がたびたび訪れているあの上州の国境(くにざかい)になっている、なだらかな山腹の広い傾斜地にある牧場へととびたがっていた。
そこの、いまはかぐわしい香いのするであろう、あの牧草の丘の頂きに弧座して、牝牛ののどかな鳴き声をききながら、私はもっと現実をはなれて私の胸に平静をうたうよにしてみたい。
あのいつもそのなかに仔牛らがおとなしく乳を飲みつつ遊んでいる牧柵によりかかって、すべてを忘れてまるで余念なく自分の生活理想のことを思ってみたい。
また、あのシャレエづくりに似通った牧場小屋の、その向こうには深いヴァレエや丘や水流がまるで素画風にのぞめる窓縁(まどべり)に腰をかけつつ、携えてきたエミール・ジャヴェルも読んでみたい。
あるいはまた、牧場の背面にある落葉松の疎林の間や玉蜀黍畑のほとりを、ひとりでたのしく口笛を吹いてあの夕暮れの散策がしてみたい。
けれど、私の心のなかには、それらの平和な願望をかきみだすかのようにして叫びでる、強い時代人の意識があった。
そんな安逸的な自己陶酔におちいっていることができないぞ、と叱りつけるようなあの焦燥な想いがあった。
もっとつとめて、ひらくことを努力せねばならぬ大きな自分自身のものがあると思われた。
自ずと私にはかのウイリアム・トムソンのあの当時の社会における一部階級の苦難を目撃し、社会の不正に想到するごとに、体質蒲柳情操多感の彼が傷心制する能わず、ついにその病弱な全生涯を駆って社会の正義と人類の福祉の「最大多量」を確保すべき理想社会の案出に没頭せるその生活のことなどが髣髴として思い出された。
読みさして旅に出てきたが、はやく帰ってまたトムソンのあの
Distribution of Wealthを読もうか。

 そのように私は心をいろいろの想いにうつし、路上にひらける風景にうつしては峠を下って内山峠の街道へと出で、更に街道を信濃へと少し戻って、初谷鉱泉の渓すじへとはいった。

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2008年2月10日 (日)

パンジーの雪をはらう

Dscn2161_320  今朝も雪景色の朝を迎えました。庭のパンジーの被った雪を除くと、黄色の花ビラが白い雪に映えて鮮やかです。その脇には、チューリップが雪の間から芽を出しています。春が近づいているのです。
今年に入って早、40日が過ぎました。月日が加速しながら過ぎて行きます。

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2008年2月 9日 (土)

24機緊急発進!ー米軍は???

Soohuiwa2 ロシア空軍爆撃機TU95領空侵犯

防衛省は、今朝(9日)午前7時30分36秒から同7時33分24秒までの2分48秒間にわたり、東京の南方約500kmの伊豆諸島南部にある嬬婦岩(そうふがん)上空をロシア軍の爆撃機TU95が領空侵犯したので、これに対し航空自衛隊は千歳(北海道)、三沢(青森)、百里(茨城)の各基地からF15戦闘機など22機と浜松基地(静岡)から空中警戒管制機(AWACS)、三沢基地からE2C早期警戒機を各1機、合計24機を緊急発進させたと発表しました。
これには、米軍もウーン???。
爆弾不搭載の電子情報収集を目的と思われる偵察機に、緊急発進24機は多すぎないか?、E2C早期警戒機、空中警戒管制機(AWACS)も出して、防空体制の手の内丸見えではないかと渋い(>_<)。
来週には、米原子力空母ニミッツが、5日間ほど佐世保に寄港するし、航空自衛隊新田原基地では2回目の日米共同訓練が実施される予定なのです。
この辺の事情もにらみ、ロシア空軍TU95は、はるばる樺太南方から太平洋を南下して、ちょっと領空侵犯して日本側の反応を見たと思われます。もちろん、いつものように領空侵犯など認めませんが。
米軍としては、F15戦闘機4機編隊程度で、AU75への至近距離接近で良いと考えたと思われます。
それにしても、ロシアからの、かっての偵察飛行定期便「東京急行」が復活しそうな気配を感じます。

Tu752_320

(写真上、領空侵犯地点にあげられた嬬婦岩(そうふがん)
聞きなれない地名ですが、八丈島からほぼ真南に300km離れた鳥島からまた南に80kmほど小笠原諸島に向った地点にある岩礁です。もちろん東京都です。)
(写真中上、ロシア軍爆撃機TU75、接近して警告するNATO戦闘機)

Souki1_320 (写真中下、E2C早期警戒機)

F15_320 (写真下、緊急発進したF15戦闘機)

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2008年2月 8日 (金)

知床峠にて

Kunash1_1024_2 昨日、2月7日は「北方領土の日」でした。
江戸時代末期の1855年の2月7日に静岡県下田市で、日露通好条約が日本とロシアの間に結ばれ、この条約で日本とロシアの国境は、択捉島(えとろふとう)とその北にある得撫島(うるっぷとう)の間と決められ、択捉島から南は日本の領土、得撫島から北の千島列島はロシアの領土であることが確認されました。この北方領土問題を国民皆に理解してもらうべく、1981年(昭和56年)1月6日の閣議了解により、この日を「北方領土の日」とすることに決まった経緯があります。
僕はこの北方4島のひとつである国後島を見たのは、一昨年の6月に始めて知床峠を訪れた時です。
好天に恵まれ、峠の展望台から見た、目の前に広がる島影は、島という観念で想像していたよりもずっと大きく、対岸の半島を見るごとく近くに見て取れました。
ちょうど、東京湾の川崎、横浜あたりから房総半島を眺めた感じでしょうか。
この距離感から得た率直な感想は、これは間違いなく我らがもの、日本国土だろうというものでした。
そしてまた知床半島よりも長大に伸びる島の大きさに、ロシアはこの島を絶対に返さないだろうとの思いもわくのでした。
明治以前は、北海道とともに間違いなくアイヌの土地でした。それを日本が領有して約80年、1945年以降にロシアが領有してから63年も経過して、遠くない先に領有期間は日本と並びます。
北方4島のひとつ、国後島を間近に見た刺激から、その後、北方領土問題の文献、論文、主張をかなり読むようになりましたが、今に至るまでこの問題に対する僕の考えはまとまりません。
日本国民として、北方4島は日本固有の領土であると捉える事はやさしいのですが、何か日本とロシア間でこの領土問題が進展し解決する提案が見つからないかと思うのです。両者の妥協はあり得るのでしょうか、国民感情は、それを許さないのでしょうか。
今、僕が危惧するのは、このままロシア領有100年目が間違いなく来るだろうとの思いが強い事です。

Hoppouryoudo_320 Rausudake_320 (写真上、知床峠から見える国後島、地図のC)
写真中、北方4島、 A.歯舞諸島(歯舞群島)、 B.色丹島、 C.国後島 D.択捉島
1.色丹村、2.泊村、3.留夜別村、4.留別村、5.紗那村、6.蘂取村)
(写真下、知床峠から見た羅臼岳、残雪を利用して峠からの往復が可能ではないかと、ルートを目で追ってしまう。)

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2008年2月 6日 (水)

海外旅行は禁止ー奨学金未返済者

 最近、マレーシアの国立高等教育基金公社は奨学金未返済者の出国を禁ずる方針を固めたとの報道がありました。
公社は未返済者の名簿を出入国管理局に渡し、入管は出国を差し止められた未返済者の情報を公社側に伝えるようです。
マレーシアにもいるんですね。奨学金を返済しない者が。滞納、未返済金額が230億円くらいあるようです。
日本では政府管掌の奨学金事業で、2000億円を超える金額が滞納・未返済になっていて、ここ15年ほどで約3倍に膨らんだとの事です。
旧日本育英会などの奨学金事業を引き継いだ、日本学生支援機構が回収を進めているのですが、18年度に回収を行った1万件のうち、約半数の 4395件は居所不明などの理由で未回収のままだそうです。(本気で回収に取組んだとは、とても思えませんが。)
 届出無しに転居したり、結婚で姓が変わったりすれば、追跡不可能なのでしょう。「消えた厚生年金問題」の逆バージョンです。
 携帯電話料金や海外旅行費用が優先するのも未返済の理由のひとつだそうです。
僕は奨学金を借りて返済しないのは、いかなる理由があろうとも許されざる者達だと思います。
 現在の奨学金制度を再検討することも重要ですが、滞納、未返済者から徴収する方策も、考えねばなりません。
いくらお役所仕事とはいえ、今までにもいろいろ考えても、実績が上がらなかったわけですから、マレーシアのこの海外旅行禁止策、案外日本でも効果がありそうです。
携帯電話の契約や使用を差し止める事は至難のことでしょうが、海外旅行を禁ずる為の施策、すなわちパスポートの発行禁止、更新禁止、出国の際チェックする、これだけやればかなり未返済者に制裁されると思います。
 それとこれもマレーシアで実施されるという、公務員になって未返済している者は処罰する というのも、日本で適用できると思います。
未返済者諸君、税金の借り逃げは、犯罪です。かって貧しい家計を助けるために、奨学金受給で進学することなども、不可能だった多くの若者がいたことを忘れないでください。

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2008年2月 5日 (火)

アンペルマンの方眼メモ用紙

Dscn2160_320  姪からドイツ土産にもらった方眼紙メモ帳です。
僕が仕事で5mm方眼のメモ用紙を使っているのを見て、同じものをボールペンと共に買ってきてくれました。とても気に入って大事に使っています。
この方眼メモ用紙、真っ赤な表紙に「アンペルマン」がデザインされています。
僕は知らなかったのですが、東ドイツの歩行者用信号に採用されていたこの小さな男の子は、東西ドイツの統一後にも、そのキャラクターが愛されて、信号機の中に生き続けました。
そしていまや沢山のキャラクターグッズも販売されているようで、日本でもインターネット検索をするとマグカップ、キーホルダー、ボールペン、ペンダント、衣料などが売られています。きっと熱心なコレクターも多いのでしょうね。
どうやらドイツの歩行者信号の絵柄は、全ドイツタイプ、このアンペルマンの旧東ドイツタイプ(写真左)、そしてユーロ統一タイプの3タイプがあるらしい?。
そこに、またアンペルフロイという女の子タイプ(写真中)
も加わったようで、お堅いドイツのイメージからは、ちょっと外れた感じを受けます。
ちなみに、我が日本は、全国統一型(写真下)で、ある信号機メーカーが、町おこし的発想で、警察に新しいデザインを提案してお伺いをたてたところ、混乱が生じて事故の原因になりかねないと却下されたそうです。

Otokoao

Onnaaka

Nihonao

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2008年2月 3日 (日)

ケータイ付きカメラ?

Dscn2156_320朝起きてみると今年2度目の雪景色でした。早速デジカメを持って中央公園へ。
芝生の斜面では、子供達が元気にソリ遊びに興じていました。誰が作ったのか雪だるまもあります。そこで子供達の楽しげな様子をパチリ。
ブログを書くようになってからは、常にデジカメを持ち歩くようになりました。携帯電話の写真撮影機能では、メモリーカードの使えない古い機種のためパソコンへの写真転送が面倒で使い難かったのです。
そこで新兵器投入です。それほど大袈裟な事ではなく、昨日、Auの機種変更0Dscn2154_320円キャンペーンにつられて、Auショップに足を向けたのです。
咳はどうしたかですか?。どうやら肺がん、肺結核ではなかったようで、だいぶ回復しました。
肺がんといえば、昨年亡くなった古い山友達は、アスベスト吸引による肺ガンでした。20代の頃、勤務した電車の車両工場でアスベストを吸引したのが原因で、40年近くたってから発病するアスベスト被害の恐ろしさを思い知らされました。
彼は新しい雑誌の編集に携わったばかりで、張りきっていたとの事で残念でなりません。昔、山岳部報のガリ版印刷を、夜遅くまで一緒にやった事を懐かDscn2155_320しく思い出します。
ところで、新兵器ですが、デジカメに電話機能が付いたと思わせる優れもの?。カシオが「カメラが主役のケータイ」と宣伝するW53CAに変えました。515万画素、28mm広角レンズ付きで、2.8インチワイドディスプレイは非常に美しい画像が見られます。並のデジカメ機能は全て備えているこの携帯が、これからのブログ記事作成に威力を発揮してくれると思います。その前に頭が痛くなるような、厚い取り扱い説明書を読む苦行がありますが。
なぜ、契約電話料金が変わらずに、こんな新機種に変更するのが0円ですむのか、料金体系がまったくわかりませんが、使うのは楽しみです。
それと、この携帯電話、カシオらしく電子辞書の「ジーニアス英和、和英と明鏡国語辞典」が搭載されて、英単語や英文の音声読み上げ機能まで付いているのです。無理して買った電子辞書EX-wordの出番が少なくなりそうで、ちょっと複雑な心境です。
  (写真上、志木ニュータウン内の中央公園で、ソリ遊びを楽しむ子供達)
  (写真中、携帯電話というより、デジカメを思わせるカシオW53CA)
  (写真下、2.8インチワイドVGA液晶が付いている) 

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2008年2月 2日 (土)

のど飴から考える

Dscn2153_320 1周間ほど前より、体調が良くない。風邪の症状は無いのだが咳が止まらない。
いつも行く内科医の所に診察を受けにいった。
「肺がゴボゴボいうような咳が止まりません。昨年、僕より若い友人二人が肺がんで亡くなりました。僕もあちらから呼ばれているのかも。または老人性肺結核かもしれないし。」

「どれどれ、喉が赤いね。風邪かな?、気管支炎かもね。。」

パチンとモニターを切りかえる。画面が大きなレントゲン写真に切り替わる
「去年の9月に、健康診断で胸のレントゲンをとっているしね。異常なし。大丈夫、そんなに簡単に肺がんにはならないよ。心配ならレントゲンを撮ろう。」
レントゲン室から戻ると、モニター画面には先ほどの胸のレントゲン写真が。先生、写真を指差しながら
「今回も問題なし。肺がんならこの当たりに異常が出るはずだし、肺結核なら白く写るからわかるしね。」

「その、写真、今撮ったレントゲン写真ですか?」

「そうだよ」

恐るべし、電子カルテ。過去の診察記録も瞬時に取り出せるし、今撮ったレントゲン写真がもう映し出されている。
「凄い装置ですね。」

「ただ、故障や停電になるとまったく駄目!」


「それは、僕の仕事も同じです。今や製図板など無し、パソコン命になっていますから。」


「お互い電気さまさまだね。ともかく、薬を4日分出すから様子を見ましょう。来週くらいに来るんでしたね。」

「はい、薬が切れますし、今度は血液検査ともいわれていました。」

「じゃあ、その時に咳の様子を聞きましょう。」

実は、僕は若い頃からの遺伝性?高コレステロール。
この内科医から、そろそろ、薬での療法をしなさいと言われて、2年ほど前から服用。
お蔭で数値が80くらい下がった状態で推移してきました。しかし、毎月処方箋を受取りながらの診断や、数ヶ月に一度の血液検査、ついでにインフルエンザの予防注射を受けたり、ちょっとした風邪症状でも診察を受けに来りと、最近病院通いが多くなってしまいました。まあ、若くはないし、医師と仲良くしておくのも良いかも知れませんが。
寺の住職とも最近は親しく話せるようになっていますしね。
そんなわけで、咳の症状は少し軽くなって、喉飴をなめています。しかし、買った喉飴見て下さい。
ひとつは、「天津のど飴」この天津(てんしん)とは?中国産と関係あり?天津甘栗は危険と言われているし。
もうひとつは、「枇杷蜜(ビーバーミ)のど飴」。袋にこう書かれています。(枇杷の葉や生姜など、のどにやさしい素材を合わせた蜂蜜です。中国では枇杷蜜(ビーバーミ)と呼ばれ、親しまれています。)うーん。中国の蜂蜜かな。蜂蜜は危ないと言われているな。疑えば切りが無し。
中国製の加工食品の農薬汚染問題で大騒ぎになっていますが、今回は急性食中毒症状が出ましたが、本当に恐いのは農薬、殺虫剤が少しづつ摂取される体内蓄積。これは改善されたとはいえ、日本の米や野菜にもいえます。数日前に書いたマグロの水銀問題もしかり。
「きっこのブログ」できっこさんが、マスコミが報じたがらないアメリカ産輸入牛肉に警鐘を鳴らしています。
これを読むとなんとも恐ろしい。
今日のニュースでは仙台駅で販売の牛タンの一部メーカー商品にも、中国製も有るとの事。仙台駅の牛タンは、僕もお土産に時々買っています。
メーカー側は値段が上がるが、今後豪州産に切り換えたいなどと云ったと、報じられていました。
輸入が増えているタイ産加工食品も疑わねばならぬ事態。
しかし、中国からの食材輸入無しには今の日本の食生活が成り立たない現実もあります。
日本の食品の安全性をどうしたら良いのか、僕などまったく考えが及びません。
それと、シーレーン防衛などの話になると、原油輸送は我が国の生命線などと、軍事力と関連づけて、にわかに強気の論調をはる政治家、識者、評論家諸氏も、食料自給率が30数%という他の先進諸国に例を見ない恐ろしい問題にはとんと無関心です。
原油輸入も大事ですが、食料の枯渇の恐怖、それと原子力発電所の警護、このふたつは真剣に考えなくてはならない問題です。アメリカ産牛肉や、輸入汚染食料の問題も、突き詰めれば日本の食料問題をどう考えるかに及びます。
国内の米を始め農産物の生産が危機に瀕しているのに、これら食料問題にまったく無策の政府の責任は重大です。今回の食品汚染の問題が、これらを考えてゆく機会となれば
よいのですが。

(話しがそれますが、原子力発電所が有事の際の攻撃目標になる事はよく言われています。しかし原発だけでなく、ふたつの巨大ダム、エジプトのアスワン・ハイダムは、万が一交戦状態と為った場合に、イスラエルが標的とし、中国の三峡ダムは台湾が標的としている事は知られています。三峡ダムは厳しい軍事警戒がなされています。)

消えた厚生年金問題もそうですが、国の借金が1000兆円、食料自給率が3割代、国民年金が4割不払い、国の管掌奨学金が2000億円も未返済などに至る前に、なぜ何らかの策をとらないのか、不思議としか思えません。
本当に郵貯資金や厚生年金原資は大丈夫なのでしょうか?。いつのまにか利権国家、軍事大国になってしまった事など、すべて選挙に参加しなかったり、安易な投票を続けた国民の民意の反映だとすると、次ぎの衆議院選挙は、国運のかかった重大選挙となります。咳の話しだからと読んでいただいた方、すみません、大袈裟な天下国家の話になってしまいました。熱のせいかな?。やはり、風邪の咳か。

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