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2007年1月29日 (月)

三宅島公道2輪レースと浅間火山レース

東京都と三宅村は、三宅島の災害復興と観光振興のため第1回三宅島オートバイレース(仮称)を開催すると発表しています。開催期間(予定)は平成19年11月9日(金)~11日(日) の3日間。
http://www.sankei.co.jp/moto/2006/dec/kiji/miyake_tt_idea.html
http://www.miyakejima.or.jp/ 
レースは、島内の都道30kmを一時閉鎖して使い、阿古海岸を起点に、反時計回りで島を周回しタイムを競う。3日間のうち本戦は最終日で、125cc以下のマシンでタイムを競う計画です。島民もボランティアで参加するなど、噴火災害からの復興を目指す同島にとって、産業・観光振興の目玉としてPRしていくとの事です。
実質的な運営は村が行い、都は側面支援する。事実上、石原都知事の発案の具体化で、三宅村長、八丈町長などに、開催を強く働き掛けた側面があります。
三宅村長が逡巡していると、いやなら八丈島も乗り気だよと三宅島開催を促したりしました。
石原都知事は以前から、三宅島や八丈島でのオートバイレース開催を公言していて、昨年5月に2016年の東京五輪招致のため諸外国を訪問した際には、英領マン島にも立ち寄り、100年の歴史を持つ世界最高レベルの公道レース「マン島TT」を八丈町長、三宅村長らとともに視察した。東京都の19年度予算案でも安全確保の検討費用など4000万円を計上。その他、道路整備費などにまだ3億円以上の 費用がかかる見こみ。公道での本格的なレースは国内初となる。
 東京都や三宅村の具体的な動き、村議会の対応、村民の反応などの情報をまだ得ていませんので、いまコメントは出来ませんが、一過性のオートバイレースより、島の復興の為には、まだ先にやらねばならない事があるのではとの思いはあります。都知事選もふまえて、この話題は、これから新聞、TVなどの報道が過熱しそうです。
 ところで、火山灰降るオートレースといえば、真っ先に頭に浮かぶのは、浅間火山レースです。1955年に北軽井沢付近の県道を一時閉鎖して、第1回浅間高原レースが開催されました。1周約20kmを5周してタイムを争う2輪のメーカー対抗レースでした。県道といっても当時は、どこも未舗装で、車もほとんどと走っておらず、レース後の道路には、かなり後までレース車の轍の痕が残っていました。この点は、島の重要な生活道路を閉鎖してしまう、三宅島とはだいぶ条件が異なります。三宅島は舗装道路でのレースになりますが、浅間火山レースは完全なダートコースでした。予定されている三宅島のレースが、公道で行なわれる日本初のオートレースのように報道されていますが、僕の知る限り第1回浅間高原レースが公道レースの最初だと思います。(それ以前に公道を使用した富士登山レースもあったようですが、僕は記憶に無く、まだ調べていません。強いて日本初と言うのなら、完全舗装公道での、日本初のオートレースと云うべきでしょう。)
1957年に第2回、1959年に第3回のレースが、浅間火山レースとして開催されましたが、浅間牧場内の 新設の専用テストコースで行なわれましたので、観客が道路脇で応援する風景は、見られなくなり、以後、浅間での開催も行なわれなくなりました。第2回、3回のレースが開催されたコースは、1970年代前半くらいまでは、オートバイテストコースとして使用されていたようで、浅間牧場の丘に登ったり、鼻曲山の下山時などに、コースを走る2輪車の排気音がこだましていたのを覚えています。現在は、ここにオートバイコースがあったことを知る人も少なくなりましたが、この地で行なわれたレースを記念する浅間記念館が、浅間火山博物館内にあり、出場したオートバイや貴重な資料が展示されています。博物館案内より
「浅間高原のこの地で当時の日本モーターサイクルの欠点を洗いだす耐久レースが行われました。たった3回のレースによって日本のオートバイメーカーの技術は飛躍的に高まり、海外進出へ向かう基礎体力をつけました。レースを企画し、出場し、歓声をおくった人々は、モーターサイクルに夢を賭けた人たちでした。そんな時代を記念するために、この浅間記念館が設立されました。1955~1959年に行われた浅間火山レースが、今日世界一のオートバイ生産国の原点であり、かつモータースポーツの発祥とされています。ちなみに、このレースに参加した人たちは現在、日本のモータースポーツの中枢で活躍、浅間の人脈は立派に生き続けております。」
ちなみに、コースは浅間牧場以外の、嬬恋村の村有地部分は、一部手がつけられずに残っていますので、立ち入り禁止表示がありますが、テストコースの名残部分は見る事が可能です。タイヤ痕が幾筋も残り、往時を偲ばせてくれます。

三宅島の話に戻ると、予定されている2輪レースの、名称も募集中です。
僕はもし開催されるなら、正式名称にとらわれず「三宅火山島レース」と呼びたいと思っています。浅間火山レースの開催時期は、浅間山がやや活動期で、小爆発による降灰もあり、マシーンへの影響も心配されていました。三宅島も同じように、火山灰と火山ガスはレースに少なからず影響を与えることになるでしょう。
このレース開催は、三宅島の復興や、住民感情、自然環境への配慮から考えるとノー、モータースポーツ面から捉えると、イエス。複雑な心境です。もう少し考えてから、態度をはっきりさせます。
なお、レース開催推進者の石原慎太郎都知事は、その右翼的思考、他人の意見を聞かず、人を見下し、恫喝する態度など、全て嫌いです。新渡戸稲造が、武士道の最高の美徳としてあげる「敗者への共感」「劣者への同情」「弱者への愛情」の反面にある人物とみています。

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コメント

はじめまして。
先日、一匡邑を検索してたどりつき、
たびたび、お邪魔しておりました。

子供の頃、夏休みはいつも
一匡邑で過ごしていたもので、
牧野さんのお名前が登場したりで懐かったです。

昨年、東京に牧野さん親子にいらして頂き、
親戚の会をしました。

この浅間火山レース、よく覚えています。
ブンブンと大きな音を響かせていましたね。

投稿: toty | 2007年1月30日 (火) 00時00分

>toty様
拙いブログを読んで頂き、ありがとうございます。
一匡邑には、いろいろ思い出があります。東京オリンピックの開会式は
牧野さんの家のコタツに入って見ていました。これからも時々書いてゆきたいと思っています。草軽電鉄も懐かしいですが、浅間火山レースからも、もう50年以上たってしまったのですね。あの頃、200社近くあった大小のオートバイメーカーも、いまでは4社しか残っていません。
toty日記にも、お邪魔させていただきます。

投稿: Souroku | 2007年1月30日 (火) 09時44分

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